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プラハの春

プラハには想い出が沢山ある・・・
「ある日、目覚めたら虫になっていた・・・」と書いたカフカが住んでいたという小路の小さな家で買ってきた手書きの「カード」が、壁にある。
藁で造った人形が可愛い・・・
社会主義国のチェコスロバキアを旅した時の記念品だ・・・

プラハの春

ヨーロッパの夏は、屋外の音楽に溢れている。
街角 に、楽器を持った学生や市民が、楽しそうに音楽を 奏でている風景を随所にみるかけることができる。

自動車で郊外に出ると、夕方から「古城コンサート」 が開かれている。
夏と言っても、夜は寒くなるから、セーターを持った り、毛布を持ちこんだりして音楽会にいくのである。
廃墟になった古城をライトアップした特設ステージで 聴くオペラは「格別な味」がする。

 久しぶりに訪れたプラハの旧市街・中央広場にある 「ヤン・フスの像」の前で、若者たちが気持ち良さそうに ギターを弾いている。
半裸体の青年が歌っている。
クラ シックの天文時計の下の広場は賑やかである。

プラハの冬

しかし、私が、初めてプラハを訪れた時、この時計台 の下は、緊張状態だった。中央の「フスの像」の周りは、 厳戒態勢で、広場全体に10台以上の重装備の戦 車が待機していた。暗い不穏な空気の中で、時計が 虚しく鳴っていた。

私がプラハに行ったのは、前・後2回。
チェコの人々 が、自由を求めて立ち上がった「プラハの春」が、ソ連の 圧力で抑え込まれた後と、
ソ連の支配体制が崩壊し て、西欧式の自由が回復した後である。

この対比が極 端で、私の脳裏から離れることがない。
私たちは「自由は当たり前の権利」だと思っている節 があるが、いくつか他国を訪問して、「自由は獲得する ものである」ことを痛感する。
私たちが現在持っている自由に「甘え過ぎる」ととん でもないことになる。

ヤン・フスの像

何故「ヤン・フス」なのか?
何故、この像が重要な のか?
ヤン・フスは、チェコの民族的独立も求めて闘 い、1415年に火刑に処せられた聖職者だからであ る。

チェコはハプスブルグ家が支配する神聖ローマ帝 国の一部だった。
彼は、ルターの宗教改革(1519年)に先立って、 カトリック信仰に疑問を投げかけて、矛盾を正す為 に立ち上がった。
民衆は、「皇帝の支配」に反対す る勢力を結集して、フスを前面に立てて集結した。 それに対して、支配権力はフスを「火刑」にしたの だった。

Pravda vítězí(真実は勝つ)

プラハのヤン・フス像の 足元に「Pravda vítězí(真実は勝つ)」との彼 の言葉が記されている。
真実を求めよ。 真実に聴けよ。 真実を愛せよ。 真実を語れよ。 真実につけよ。 真実を守れよ。 死に至るまで。」 ヤン・フス

何故、広場に戦車が集結しているのですか?」
「全部、ソ連製のものですね。チェコのものじゃないのは 何故ですか?」
私は、この異様な風景をみて、日本大使館の知 人に質問した。

暗く淀んだ日だった。
「・・・明日、チェコの学生が大規模なデモを予定し ているからです」 「ご存知の通り、フスは反抗のシンボルですか ら・・・。ソ連軍が抑え込むためですよ」 広場に面する窓側に座って、私たちは「自由」につ いて話し合った。腹立たしいより、無性に悔しかった。 哀しかった。やりきれなかった。それをいまでも忘れられない。

時が流れた。私は同じ場所に立った

数年が経過した。私は同じ場所に再び立った。
半裸体の 若者たちが、大きな声で歌っていた。
暗かった天文時計が、 明るい色に塗り替えられて、気持ちよさそうに鳴り響いていた。 一人旅の私は、話しかける人もなく、静かに「昔日の出来 事」を思い出していた。

カフカの店

そして、モルダワ川にそった石畳の小路に入っ た
小さな、細い道の中に、カフカが住んでいたという小さな店 があった。
変身」という名作を残したチェコが誇る小説家であ る。

・・・「ある朝、夢から目覚めたら、自分がベッドの上で一匹の 巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた」・・・「おれはど うしたのだろう?」と、彼は思った。夢ではなかった。・・・。

スメタナの「わが祖国」

スメタナの「わが祖国」で有名な「モルダワ川」にかかっている
カレル橋は、 キリスト教の聖人像が欄干に30体並び、世界で一番敬虔で豪華な 橋である。
その向う側に、中世の城そのもののものプラハ城がある。

モルダワ川沿いにある古い小さな教会に入ると、雑踏から隔離された静寂な空 間が広がる。
ここでミサに参加し、教会音楽に浸っていると、神様の前に、 一人でいるような感覚になる。
引退したら、最初にプラハに行こう」と女房に言ってきたが、 まだ実現していない。(笑)

ミュシャと喫茶店

先日、三島市の駅前の喫茶店にフラリと入った。
驚いたことに、店全体が、華麗で繊細なミュシャの絵画 で埋め尽くされていた。 一緒にいた女房が「アラ!」と笑った。

アール・ヌーボーを 代表するグラフィック・デザイナーであるミュシャは、女房もフ アンの一人なのだ。 私も、女性を華麗な曲線を多用して装飾的に描くミュ シャの絵が気にいって、自室の壁に貼っておいたほどある。
もちろん、コピーである。(笑)

三島市の喫茶店の店主が、どんな理由で店内をミュ シャ飾ったのか、理由は知らない。ファンだったのだろう。スラブ叙事詩はなく、パリ時代の華麗なグラフィック作品ばかりだったからである。

故郷のチェコに帰る

フランスで活躍していたミュシャは、人生の後半に、故国・ チェコに戻り、民族のルーツを描く「スラブ叙事詩」に集中 した。20年間である・・・。

度重なる他国の侵略。矛盾に満ちた国家体制。失わ れた自由。
しかし、失わない「民族のブライド」・・・これが背後にある。

1939年3月、チェコはナチスドイツのために 解体されてしまった。
プラハに入場したドイツ軍により、ミュ シャは逮捕された。
「国民の愛国心を鼓舞する絵画を描 いた」という理由だった

次はソ連軍だった。同じ理由で迫害を受けた
拷問を受けた画家は・・・死んだ。

「スラブ叙事詩」を観ることが出きのは・・・東京だった

プラハでは、どうしても「スラブ叙事詩」を鑑賞することは出来なかった。公開されていなかったなど、いろいろな理由からである。
ようやく、この作品を鑑賞することができたのは、2017年、東京だった

全20作。16年~20年かけてスヒロフ城で描かれたので、
小さなもので4×5メートル・大きなものは6×8メートルある。
巨大な作品群である。ペンテラで一部、油絵具12枚で描かれたこの作品は、
ミュシャのスポンサーになったアメリカの実業家の支援のお陰である。

プラハの夏

いま、ロシアのウクライナ侵攻に対して、チェコの人々はNATOの一員として「臨戦態勢」にあると聞く・・・。平和の下に秘められた警戒心だ。

夏・・・フスの像の前で、若者たちは「今年も唄っている」だろうか・・・
戦場に駆り出されるということはないようにあってもらいたい・・・
プーチンの戦車が、広場を威圧しているようなことは避けたい・・・

プラハの博物館で「カール4世展」をやっているというので、行った。
会場前は、もの凄い行列だった・・・。人だかりではない。
黙々とした「憂鬱そうな顔」が目立った・・・。感動を求める顔でなかった
展覧会は「万国の労働者は最高である」というコンセプトで統一されていた

その時・・・どこからか「ドイツのニーデンべルクでカール4世の展覧会が
開催されている」という情報が飛び込んできた。

私は、同じ「カール4世」を、社会主義国と資本主義国では、どのように異なる展示をするか、と思った・・・。
私は「国際列車」に飛び乗って、プラハからニールンベルクに向かった。

若い日の想い出はつきない・・・。


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