ワンダラーの秘密 (2)

ワンダラーの秘密と題していますが、そもそもワンダラーを自認している人は、それがお役目でない限り表には出てきません。

そこにワンダラーの秘匿性があると思います。

広報担当の方が細心の注意を払って開示してくれた情報から、各々がそのタイミングで必要な情報を受け取ってゆく形でしょうか。

各人はどんな小さなリスクも冒さないよう、徹底して市井に溶け込み、慎重に耳を傾け、お役目によっては最後まで世を忍んでいることもあるかもしれません。

特に今回は、互いの存在や、ほかにどんなお役目があるのかも知らないままに、それこそ各々が各地で秘密裏に行い、そのほとんどが、静かに淡々と為されているのではないでしょうか。

そういう点で、徹底した裏方であり、現実で地に足をつけて生きているのがワンダラーという人たちです。万たるワンダラーというくらいなので、各地に派遣されていることになりますね。

それぞれの担うお役目を全うすることは、常に集中を要するもので…少しでもそのバランスが甘くなったり崩れかかると、やはり人の身ですので簡単に足を踏み外してしまいます。その多くは、人としての心の在り方によるもので、道徳、善と悪、光と闇、宇宙、神、そういう言葉が持つ概念による個々の偏った認識…文字通り思い込みによって引き起こされるとのことでした。
つまり「良かれと思って」なのです。決して悪気があってのことではなく、善意によるものだというのです。

人生において足を踏み外すことは体験のひとつとして昇華の機会も得られますが、ワンダラーがワンダラーとして道を踏み誤ると、それは全体にとって大きな影響を及ぼしかねなく、大変なことになります。

そのことを肝に銘じ、日々において透徹した生き方が求められるのは、各人が担う責任というものと常に向き合わなければならないからでしょう。最終的にすべてをひとりでやらなくてはならないと知っているからこそ、甘えのない、愛の視点をどうしても必要とします。情という最も重い枷を外して、どこまで遠く深く思いを致すことができるのか…認識を覆し、光を当て、拡げる訓練が常に課されますし、それが地味にヒリヒリとするものなのです。

今回、地のワンダラーは、自分の思いがどこから発生しているのか、そこに、個人的な意図があるのか、深度はどのくらいで、本心、真の心によるものなのかどうか、よくよく見極めていかねばなりません。
そこが、一番時間のかかる、けれど最も重要な訓練だと感じます。

詰まるところワンダラーの生き方というのは、日々の暮らしにすべてが集約されています。なにか特別なことをするわけではなく、「見る」ということをいかに日常の中で熟してゆけるかということに尽き、それはその重要性を知れば知るほど理解も深まるものなのだと思います。

覚醒するとか、悟るとか、そういう個人的な目的はワンダラーにとっては本質的なものではなく、ある程度の認識の変革と理解が、仕事に必要な技術や知識だから習得する、という、仕事人のような義務感で認識の場に臨むもので、最終的には熟練の職人の域に届くようになるのでしょうか…わたしには未だ到らぬ境地です。

覚悟がなければワンダラーとして生きてゆくことはできないし、今回も塩漬けのままにされる可能性の方が高いでしょう。

一度ワンダラーとして目覚めると、どんなに怖気づいたところで後戻りはできません。その瞬間から己の両手が何をするためにあるのか、この眼が何を見るためにあるのか、その耳が…と、機能の有無にかかわらず、肉体を持つ人として、その概念としての意味が、認識が、変わってしまうのです。
しかし求められているのは徹底して「日々の暮らし」を見つめることです。

お役目は、その中に、既に表れています。

ここでひとつワンダラーの秘密を打ち明けておくと、

ワンダラーであるかどうか。

もし自分自身にそう問う場面があるとして、その問いに対しては、疑いようのない明るさ、圧力、そして内側からの確信をもって答えが呈示される、ということです。

たとえそれがどんなに受け入れがたくとも、
答えは明らかなものとして、そこに在ります。





















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