水のうた

2006.3.2

 

やがて来る変化の時に、
魂は一斉に
自らの飽和したエネルギーを解き放ち、
新たなバランスを構築するだろう。
調和に向けた永遠の営みは、
再び新たな局面を迎えることになる。
放出されたエネルギーは
それ自体がバランスを取られるべく、
必要なエネルギーを求める。

それがどんなものであっても、
わたしたちに判断はできない。
個々の形をもつ命は形を失うかもしれないし、
形に傷がつくかもしれない。

でも恐れる必要も悲しむ必要もない。
わたしたちは水のようなものだから。

容れものによって
形はどのようにでも変化する。
また一滴だったり大きな流れだったり。
でも水は水だ。

水に『個』という単位はない。
量や重さで便宜的に計っているだけで、
水には始まりも終わりもない。
常に形を変えて循環しているだけで。

わたしたちは地上に降り注ぐ雨の
一滴一滴のようなものだ。
地中に染み込み、
長い時間をかけてそれは浄化され、
やがて美しい湧き水となり
再び地上に舞い戻る。

湧き水は小さな清流となり、
やがて河となり、
いつか海へと還る旅をする。

海へ辿り着くと、
新たな経験を求めて再び水蒸気となり
雲という形を経て雨に姿を変えてゆく。

命も同じ。

個々に見えるのは容れものに入っているからで、
もともとは大きなエネルギーの流れ
そのものなのだ。
そこから分かれ分かれて形をもつ存在を経験し、
また戻ってゆく。

水は流れる。水は切れない。
堰き止めることはできても
水の流れを切ることはできない。
流れはエネルギーの基本。
だから命は決して尽きることはない。

わたしたちの故郷は命であり
『存在』という言葉は『命』を指すのだから。
言い換えるのなら、
命以外に存在するものはなく、
存在する全ては
命があらゆる状態に変化しているものと言える。

神は命そのものであり、
命はわたしたちを象っているものだ。
そういう意味で、
わたしたちは神の一端であり、また、
わたしたちは神でできている。

つまり、神そのものだ。
わたしたちは命そのものなのだから。

そうして、わたしたちは永遠に
この命の流れの中で経験し謳い続ける。
水のように。

地球が繰り返してきた生まれ変わりは、
地球に生きる全ての命とともに果たされ、
新しい命のバランスとともに
次の経験に向けた準備を始めるのだ。

わたしたちの形は
それぞれに担う経験に最も即したもので、
経験を終えれば手放し、
次の状態に変化してゆく。

ひとつの出来事は全てに繋がっているのだ。

存在する全ては、メッセージを伝えている。
それらは全て、
受け取る側に自由を与えるメッセージ。

わたしたちはひとつなのだと
囁くメッセージなのだ。

どんな形や聞こえ方、見え方をしていても、
それはやがて辿り着く、
わたしたちの故郷を謳っている。

命は循環し、
その循環の過程にある経験によって、
新たに進化し続けるのだ。


 






 

 

 

 

 

 

 

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