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やらないと勿体無い

私のオカンは近所の喫茶店にほぼ毎日行っていた人だった…し、今もちょいちょい喫茶店に行っているみたいなんですが、インターネットが無かったら私も喫茶店に毎日通っていたかもしれないなぁ〜、と今の今、just now!思いました。
名古屋文化圏である岐阜市には喫茶店が多いらしいです。私にしたらソレは当然のことだったのですが、転勤で沼津に住んでた時に「喫茶店が少ない!」と気づいて、アレは当然のことではなかったのか……と知りました。

というわけで、本来ならDNAのせいで毎日でも喫茶店に行くはずの私ですが、田舎にいるのでいちいち車を出さねばならないことが億劫で、家でインターネットと戯れながら自分でお茶を淹れてます。
それでも時々行く喫茶店というのはあって、用事のついでにそこに寄ったら、ちょうどお客さんが切れているタイミングだったので、店長さんとの会話を楽しんできました。
今日の会話の筋は波動離れについてでした。
これ、不思議ですよねぇ。
お互いの変化に伴って、だんだんと付き合い方が変わっていくのは日常生活で当たり前に起こり続けてることですけど、この『変化』というのがものくごーく微妙な……というか精妙な部分で起こってるんだよなぁ〜と感じます。
学校を卒業して新しい居場所にそれぞれが移動して、そこに馴染んで学んでいるうちに考え方の差が少しずつ広がっていった……などという分かりやすいものもありますけど、身を置く場所は変わらないままでもどんどん変わる人は変わるし居場所が変わっても変化が乏しいままの人もいますもんね。

スピリチュアル方面ではエネルギーとか波動とかって単語がよく使われますけど、物理で使うそれらとは違っていますよね。
物理は肉体の五感(感覚)で認識できる範囲のことを取り扱い、スピリチュアルは肉体の五感以外で認識する範囲のことを取り扱ってますけど、五感以外で認識するべき様々なことを五感しかまともに働かない側の人間に説明するって、よく考えてみたらめっちゃ難しいことだと思うんです。(イエス様がたとえ話ばっかりしてたのも、説明がめっちゃ難しいことを少しでも分かりやすくするためだったのでしょうね。)
その上で、用語が物理用語の流用になってることが面白いなぁと思うのです。物質としての「もの」の「ことわり」で物理なのに、物質じゃないところの説明を物理用語を流用して行うんですから。

私ね、なんちゃって理系なんです。
ちゃんとした理系人間じゃないんです。
小学校低学年の頃から宇宙物理学の科学者になりたいという大きな夢を抱き続けてしまったのに!中2で気づいたんですよ!私は数学が全くもって得意じゃないって!なんならテストでは苦手分野!科学者になんてなれっこない!…と。
夢が霧散した時って、ほんとうに胸にぽっかり穴が空くというか、虚しさが常にうすーーーーーーいベールのように纏わりついてるというか、そんな感じになるというのを知った中2の秋でした……。
そんな私ですが、親父さんに借金があったので大学に行くなら国公立しかダメという制限があったため、高校でも数学を勉強しなければならなかったんです。
数Ⅰまではそれでもまだなんとかなったんですが、基礎解析・代数幾何・微分積分……となってくると、授業は面白いと思うけれど解けない問題が多くなっていきました。
回答を見ればなんとか分かっても自力では解けない問題が山積し始めたぞ!
なんすか?これ?
なんのための苦行ですか?
私、前世で数学さんに何かとんでもない嫌がらせしました?
……と、よく地団駄踏みまくって、タップダンサーになってしまいそうでした。
物理に関しては、当時は高1で「理科Ⅰ」というのを履修してたんですが、物理範囲は力学の基礎だけだったんですわ。高2からは化学と生物しかそもそも履修できないシステムの女子高だったので、物理を勉強せずに大学では教育学部といえども地学(←物理・化学・生物の知識の上に成り立っている総合科学なんですよ)を学んでたので、もう猛者と呼んでもらって構いません。マジで無謀。でもそんな猛者がいっぱいの地学科は楽しかったですよ!物理学概論は追試を2回受けてるし!あれ?3回だったかな?てへ♪や〜楽しかったなぁ〜〜〜。卒論研究しながらの追試は。はっはっはー。

というわけで、なんちゃって理系なりにも数学や物理を勉強したので、エネルギーとか波動という単語はどうしても物理の用語として捉えそうになってたんですが、これがですね、なんちゃってなおかげで緩いんですよ。ええ。
適度に緩くて転用のハードルは高くなく、でも元々の物理用語としての概念も基礎の基礎としては理解できていたので、スピリチュアル用語としてのエネルギーや波動をそこそこ良い塩梅で解釈できた可能性があるかも?と、最近になって思ったりします。ただの思い込みかもしれませんがね。思い込んだ方が勝ち。
そして同時に、用語の定義が人によって実はマチマチで且つ超あやふやなんだろうなぁ〜とも思ったりしてます。こっちは思い込みじゃないと思う。

ですから、波動離れという筋の話をしていても、「あまり波動って言葉は使いたくないけど〜。」とか言いつつ使ってました。難しいですね。
それでも楽なので使っちゃいますけど、『波動がだんだんと違ってきて疎遠になること』って表現は感覚的に納得しやすいものだと思うのです。
または、片方があまりにしんどくなって線を引いちゃうとかもありますね。
お互いに『変化・成長』したことで波動の領域の重なりが少なくなっていったために自然と離れていくのは悪くないと思うのです。その場合は『以前ほど親密ではなくなったけど、何かあったらお互いに連絡して話ができる』という関係であり続けることができるからです。そんな人、私にもいます。
でも、そもそも片方が違和感をずっと感じて我慢してる部分があって、そこがどんどん大きくなってしまった場合は、なんらかの方法で線を引く・引かれるという離れ方になることが多い気がします。私にも残念ながらそんな人が何人かいます。引いた方も引かれた方も。
これって、ほんとうは重なっている領域と認識していたものが一面的だったせいなのかもしれないですよね。

三次元を二次元に投影してみると…

x軸とy軸とz軸が互いに直角に交わっている三次元空間の、とある領域にいるAさんとBさん。x−y平面で見ると近いところにいるけれど、x−z平面で見ると離れてるや〜ん…となってます。x−y平面でしか自分と相手を感じていない人と他の平面でも感じている人とでは情報量が違いますし、たくさんの面で感じている人の方が少ない面でしか感じられない人の言動への違和感を感じやすいでしょうし、たくさんの面で感じてる人が少ない面でしか感じられない人に何かを伝えようとしても、伝えたいことの核がなかなか伝わらないような、そんなもどかしい感覚にもなりがちな気がします。評価規準が学校の勉強だけだったらマズいってことと同じですよね。
勉強できてもイジメをするような人間では困っちゃうもの。周囲が。


で。
スピリチュアル方面で言うところの波動って、この軸がたった3つなのではなく、もっともっとたくさんあって、そのたくさんの軸によって領域が決まるような、そんな感じなのではないかなー、と思うんです。
普通では認識できない軸がたくさんたくさんあって、自分の本当のカタチは自分でも分からない……のだけど、自分の波動というのはそのカタチから放たれてるものだと考えてみると、波動を上げるなんてことは要素が多過ぎて途方もないことなのかもしれないなーーーって思ったりします。
だから「変化はとても精妙なところで起こっている」とも言える気がしていて、精妙すぎで自分でも分からんことの方が多いんじゃないか?とすら思うんです。
でも確実にそれは思考に、言動に、雰囲気に顕れ続けているんですよね。出ちゃうから仕方がない。
一面しか感じられない人なら誤魔化せるかもしれないけれど、多面を感じている人を誤魔化すのは難しくなってくるし、パッと観ただけでかなりの精度でカタチを捉えちゃうような人には丸見え。出ちゃってるから仕方がないんですよ。

なので、
結局は、目の前の課題に真正面から取り組み続けるしかないのだと思うんですが、取り組みつつも、「あ、この人は私では未だ感じられない面を感じている人なんじゃないか?」と感じる人の言動や雰囲気をよくよく観察してたくさん考えることが近道で、だからメンターって大事なんですよね。
そして、線を引かれた時も実は考えるにもってこいの事態なわけで、被害者意識を横に置くことさえできれば、とことこん考え抜く絶好のチャンスなんですよねーーーー。しんどいけど。どえらいしんどいけど。感情もぐちゃ〜ってなるし。それでもやるの。やらないと勿体無いから。

……と、合理性重視の山羊座みがこんなところに出ちゃう。

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