われても末に逢はむとぞ思ふ

 春、四月の初め、桜が咲き始めた村の鎮守、八賢天神社の参道を民生委員の能代清吉が歩いている。この分だと染井吉野が満開になるのもすぐ先の事だろう。満開となれば、この参道は花見客で一杯になる。村人達が楽しみにしている季節の到来だ。清吉は参道脇から伸びる路地沿いの天神南荘という古いアパートを目指していた。今日はそのアパートに住む老婦人、藤谷友江の相談事を聞きに行く。参道の先に広がる入り海から吹く風が心地よかった。

「藤谷さん、いくつになられるかなぁ」

 清吉は天神南荘の入り口で持ってきた個人ファイルをのぞいた。

「八十一歳か……。目が見えなくて独りで暮らされているから何かとご不便なことだ」

 清吉は友江が住む部屋のドアをノックしてみた。

「こんにちは、藤谷さん。おいでですか。民生委員の能代清吉です」

「はいはい、すぐに開けますから」

 思いのほか元気のよい声がしてドアが開いた。盲導犬の小太郎が入り口脇にうずくまっている。

「すみません、お呼びだてしてしまって」

 友江は清吉を招き入れると慣れた手つきで緑茶を淹れた。簡単な台所と小さな押し入れのある四畳半の部屋だった。南側を向いて窓があり明るい陽射しが畳に落ちていた。清吉は靴を脱ぎ、使うよう促された座布団の上に座った。

「藤谷さん、お元気そうで何よりです。もうすぐ、桜も満開になりますよ。いい季節です。何もお変わりありませんか」

「ありがとうございます。おかげ様で息災に暮らしております。ま、歳なので、あちこちほころびもあって、お医者様にはご面倒をおかけしてはいますけれど……」

 友江は小さな声で笑った。

「大丈夫です。誰しも一つや二つ痛いところはありますから」

 清吉は年中、外を歩き回っているためか浅黒くなった顔をほころばせた。

「……で、さっそくですが今日のご相談というのは、どのような」

 清吉の問いに友江はお茶を一口すすった後で話し始めた。

「能代さん、わたくし、もう今年で八十一歳になりますでしょ。おまけに目が見えないので何をするにも他人様にご迷惑ばかりおかけして、本当に申し訳ないと思っております。ですが、この先、いくばくも生きることのできない身体ならば、今のうちにどうしてもしておきたい事がありましてね……」

 藤谷友江には身寄りがない。生まれた時には双子だったが、妹とは生き別れになったままだった。その理由は友江の両親が何も語らなかったため定かではない。生まれてすぐに別れ別れになった後、どうなってしまったのか、何処に暮らしているのか、何の音沙汰もなかった。友江の両親は共に働いていたが、ひどく貧しい暮らし向きだった。物心がつくようになると子供二人を一度に養育するには厳しい家庭であることは友江にも分かった。だから、友江は敢えて詳しいいきさつを聞かなかった。自分に双子の妹がいた事は忘れようとした。

「能代さん、実は生まれた故郷を訪ねてみたい、と思っていますの。死ぬ前に懐かしいあの故郷の匂いを胸一杯に吸い込んでおきたい、と思いましてね。ですが、この老婆は眼が見えません。小太郎と一緒でも故郷まで一人ではとても行くことはできません。そこで、どなたかこの老婆の眼の代わりをして故郷までご同行いただける方をご紹介願えないでしょうか。助けていただける方にはごくわずかですが謝礼を、とも思っております。今日のご相談というのは、その事でございます」

 清吉は何とも返事のしようがなかった。相談の内容は清吉の経験の範囲を超えている。「……そうですか。今すぐのご返事は出来かねますが……。何かご希望をかなえられる良い方法を考えないといけませんね」

 思わず腕組みをしてしまう清吉だった。そして、お茶を難しい顔をして飲んだ。

「お生まれはどちらでしたか」

 どうしたものかと思い煩いながら清吉は聞いてみた。

「岡山県新見市の井村という在所で、人の少ないところでございます」

「遠いですね、ここからは。行くとなると最低一泊は必要ですが」

「……ですので、電車の都合とか泊まる所の手配とか色々とお手伝いいただける方がおられれば、と考えておりました」

 友江は畏まって言った。自分の話している内容がとても難しい用件である事は分かっていた。

二人は少しの間、言葉を無くした。

「藤谷さん、正直言って難しいお話ですが、今度、民生委員の地区協議会がありますので、そこで皆さんに相談してみます。何か人探しの良いアイデアが出れば、さっそく取り組んでみます」

 しばらくして清吉はようやく口を開いた。

「ありがとうございます。能代さん以外に頼れる方がいないので、申し訳ございません。よろしくお願いします」

 友江は深々と頭を下げる。

「いえいえ、大丈夫です。それより、頑張ってお互い長生きしましょう」

 清吉は恐縮する友江を励ました。元気そうにしておられるが、どこか本当に悪いのかもしれない、そう思いつつ清吉は友江の部屋のドアを閉めた。  

清吉が帰ると友江は部屋の隅にある仏壇に向かい、置いてあった麻の葉模様の小さな信玄袋を手に取った。

――どこにいるのかしら、あなたは。

友江は心の中で面影も知らない妹に話しかけた。生まれた故郷にいるはずもないのは分かっている。けれども、妹の残り香を匂いおこせる場所はそこしかなかった。わずかな間とはいえ両親と妹と四人で住んでいたのだ。思い出せない思い出が友江にはたまらず愛おしかった。

――必ず、幼い頃に過ごしたあの家の前に立ちたい。

そして、父と母と妹に話しかけたかった、

「みんな、今は幸せなの」と。

友江は信玄袋を優しくさすり頬にあてた。その中に仕舞われた物は友江の母がくれた妹との唯一の絆だった。

ひと月ほど経った五月の半ば、友江に清吉から連絡が入り、希望通りの人をどうやら見つけることができたので紹介したい、と言ってきた。面会日を次の土曜日と決めると友江は南向きの窓を開け、思いきり朝の空気を部屋に入れた。

「大丈夫、きっと行ける。きっと会える」

 友江は左の胸に手を当て残された時間を想う。

――それまで頑張って、私の心臓。

 友江は白く薄くなった髪に手を遣り、そして、しわの目立つ顔をさわった。

――お父さん、お母さん、こんな友江でもちゃんと見分けてね。そして、できたら、妹を夢の中に連れて来て欲しい。妹に会わせて。お願いです。

 友江は空に向かって手を合わせた。

 土曜日、友江は朝から部屋の掃除を済ませ、お茶の支度もして清吉達を待った。十時になろうかとする頃にドアをノックする音がした。友江はいそいそとドアを開ける。

「遅くなってすみません。お変わりありませんか。今日はお探しのボランティアの方をお連れしました。さ、音羽さん、中へ」

 清吉に促され若い女性が現れた。

「音羽碧と申します。よろしくお願い致します」

 歯切れのよい声がした。

「これはこれはご丁寧に、藤谷友江でございます。狭い所ですが、どうぞ、お上がりください」

 友江は二人を中に誘った。小太郎が急に賑やかになった部屋の佇まいに耳をピンと立てた。

「あれから地区協議会の皆さんと相談しましてね」

 清吉は経緯をかいつまんで説明した。委員の間では、何とかして藤谷さんの願いをかなえてあげたい、という意見が多く、サポートに適した人をどう探すかでいくつかの提案もあったようだった。彼等の意見に共通していたのは、責任感のある身元のしっかりした若い人でなくては、ということであり、話し合いの末に、そうであれば地元の大学の学生に依頼してみては、という結論になったという。

「……で、私が大学の事務局に出向きまして、学生課のご担当の方と相談させていただきました。 最初、どうかなぁ、受けてくれるかなぁ、と心配していましたが、学生の社会貢献活動の一環になるでしょう、というご判断で、学内で募集をかけていただくことになりました。それにご応募してくださったのが、この音羽さんです」

「それは、まぁ、大変なご面倒をおかけしました。何とも有難いことでございます」

 友江は丁寧にお辞儀をした。

「いえいえ、当然の事をしただけですから」

 清吉は頭を搔いた。

「音羽さん、有難うございます。本当によろしいのですか。こんな目の見えない老婆と一緒で……」

「大丈夫です。私、おばあちゃん子でしたから、とっても嬉しいです。それに困った時には、あそこにいるワンちゃんに何でも聞きますから」

 そう言って碧はうずくまるゴールデン・レトリバーを見た。

「あぁ、小太郎っていうのですよ。私のたった一人の家族です。小太郎、こっちにおいでな」

 友江が手招きをすると小太郎が近寄ってきた。

「こちらが今度、一緒に岡山まで行ってくださる音羽さんよ、よろしくって」

 友江が紹介すると小太郎は機嫌よく碧に撫でられた。

「賢いね」

 碧はにっこりとした。そして、ふと気が付いたのだろう。

「あ、すみません。自己紹介をしていませんでした。改めまして、音羽碧と申します。今、お話のあった里見総合芸術大学の美術部工芸学科の二年生で二十歳です。生まれは仙台で、ちょっと遠いですね」

 明るい語り口と笑みを含んだ声音が気持ちよかった。碧がこのボランティアに応募したのには二つの理由があった。一つめは、思い出の地を訪ねる友江をサポートしたい、という純粋な想い。二つめは、作品作りに行き詰まってしまった自分を解放したい、という願いだった。そのことは素直に友江に告げた。

「しっかりした考えをお持ちのお嬢さんね。ちょっと、お顔をさわらせてもらっていいかしら」

 友江の突然の問いかけに碧は当惑したが、それが眼の見えない友江の人を知る術の一つだとすぐに理解し、「お願いします」と答えた。

「ごめんなさいね」

 そう言いつつ友江は碧の顔を手のひらでゆっくりと柔らかく撫でていった。

「ありがとう、音羽さん。可愛らしいお顔ですこと」

「いえ、そんなことは……」

 碧は急に恥ずかしくなり少し俯く。

「では、私はここらで帰ります。藤谷さんも音羽さんを気に入ってもらえたようですし、音羽さんも藤谷さんとウマが合いそうですから、心配せずに済みます。後はお二人で日程などよく打ち合わせをしていただいて楽しいご旅行にしてください」

 清吉はそう言い残すと晴れやかな笑顔を見せて帰っていった。友江と碧はその日から旅の詳細を詰めてゆくことになった。

 お互いの都合に折り合いをつけ、ひと月ほどで計画は完成した。小太郎を連れた二人と一匹の二泊三日の旅行となる。

六月になり、梅雨に入ったが、友江は一向に雨を嫌がることもなく予定通り岡山に向かって碧と小太郎と共に出かけた。友江のアパートから最寄りの駅までは清吉が車で送ってくれた。その後、東京まではJRの在来線を乗り継いで行き、東京からは新幹線で岡山まで向かった。岡山駅で特急やくもに乗り換え新見を目指す。岡山から新見までは一時間ほどかかった。新見駅に着くと雨は小止みになり、改札口を抜けた先に見える山には薄く灰色の靄がかかっていた。早や、山間の町は静かに暮れかかり始めていた。

「友江さん、着きました。お疲れ様でした。予定通り、今日はこのまま宿に入って休みましょう」

 碧は長旅に耐えた友江を気遣っている。予約した旅館は駅前から歩いてすぐの所にあり、目の前を高梁川が流れていた。盲導犬を連れていること、目の不自由な友江であることなど旅館側には事前に詳しく話してある。高梁川にかかる橋の途中まで来ると友江は欄干に手を置き、大きく息を吸った。

「帰ってきた、ようやく……。碧さん、明日が楽しみね」

 友江は澄み切った笑顔をみせた。碧は小さく頷く。そして、ぽつりぽつりと家の窓に灯りがともされる中、友江と碧と小太郎は宵闇の漂い始めた橋を渡っていった。

 翌日の朝、碧は友江と小太郎を乗せて井村に向かった。雨は相変わらず降り続いている。肌寒さを覚えるくらいだった。井村は新見駅から車で三十分ほど北西にいった旧国道沿いにある。昔は道筋が今と違い、大きく遠回りしていたためひどく時間がかかったという。碧は友江の記憶を頼りに車を走らせる。

「友江さん、旧国道に入りました。手前に警察の駐在所が見えます。まっすぐ行くと右に大きくカーブしています」

 碧が告げると、「そこは佐久間さんの家があった所だと思うから……。その先に小学校の入り口が左に見える」と聞き返してきた。碧はカーブを曲がると見えてきた信号機に取り付けられた案内板を読んだ。井村小学校前とあった。

「小学校あります」

「そう。そこを右に曲がってください」

 言われるまま碧はハンドルを右に切る。小さな裏道に入った。旧国道よりさらに古い旧街道だという。

「ゆっくりと行ってくださる。確か、梅の古木が右手に見えるはずだけれど、どうかしら」

 碧は車を停めて辺りを見回してみた。けれどもそれらしき梅の木はない。碧は車から降りて、道に沿って歩いてみた。切り株のようなものがないか探すことにしたのだ。けれども僅かに残る旧街道の終わりまで歩いてみたが何も見つけられなかった。

「ここまで来たのに……」

碧が、何とかして、と思っていると運よく一人の年老いた村人が通りかかった。聞いてみると、昔、街道脇にある溝を二つに分ける水門のそばに梅の木があったが、今はもう枯れてしまって残っていない、とのことだった。その梅の木があった水門跡は車を停めた場所からすぐ先のところに見えた。碧は礼を言うと急いで友江の所に戻り、梅の木があった場所に案内した。

「友江さん、ここです。ここに梅の古木があったそうです」

「ここに住んでいた……。ここにお父さん、お母さん、妹と一緒に住んでいた」

 友江は傘をさしたままその場にしゃがみ込み嗚咽を漏らし始めた。頬が濡れる。手にはあの小さな信玄袋が握りしめられていた。今はただの草むらと化しているこの場所に友江が幼い頃に暮らしていた長屋が確かにあった。友江にはその家がはっきりと見えていた。

雨の中、身じろぎもせず祈る友江の心の中にはいつしか遠い幼い日の団らんの記憶が鮮やかに蘇ったのだろう。その顔にはうっとりとした夢にあこがれ出たような表情が浮かんでいた。小太郎はじっと座っている。碧は眼の前に迫る山を見上げた。山は白く光る川と青く染まる田園を従えて優しく碧達を見降ろしていた。

――この溢れる愛おしさ、それを包み込む美しさをどうすれば伝えられるというの。今の私はその術を知らない。

 碧はひとり迷いの中にいた。


 清吉から碧に突然の電話があったのは梅雨も明けた七月の終わりだった。友江が買い物の帰りに倒れたという知らせだった。碧は大学にいて新しい作品の制作を続けていたが、悲報を受けて慌てて友江が搬送された病院に駆け付けた。

「ごめんなさいね、心配をかけて」

 碧の姿を認めるとベッドに横たわる友江が詫びた。清吉がそばの丸椅子に腰かけている。

「やぁ、音羽さん、来てくれましたね」

 普段とは違いやや沈んだ声で清吉が声をかけた。

「友江さん、気を付けないと……。こんなに暑い日の午後にお買い物だなんて」

 碧は思ったことを正直に話す。

「碧さんの言う通りね。馬鹿な私」

 友江は点滴のチューブを見上げながら片方の頬で自分に渋い顔をしてみせた。血色は思いのほか良かった。

「碧さん、一つお願いがあるのだけれど、聞いてもらえるかしら」

「なんでも」

「そう。では、私のアパートに行って仏壇に置いてある小さな信玄袋を取ってきて欲しいの。いいかしら」

 友江が大切にしているあの品物だった。

「分かりました。すぐに戻ってきます」

 碧は部屋の鍵を清吉から受け取るとポニーテールの髪をひるがえして病室から出て行った。清吉は碧が戻ってくるまで友江に付き添うつもりだった。

 一時間ほどして碧が戻ってきた。

「友江さん、これですよね」

 麻の葉模様の小さな信玄袋を碧は友江に差し出した。

「ありがとう。助かります」

 そう言って、友江が信玄袋の中から取り出したのは貝合わせに使われる貝だった。

「片方しかないのは、もう片方を妹が持っているから……。顔は分からなくてもこの右側の貝に合う左側の貝を持っている人が妹だと母が教えてくれたわ。だからずっと大切にしているの。妹につながるたった一つの品物」

 友江はその貝を碧に渡す。中には金箔の上に色美しく平安貴族を思わせる人物が描かれていた。

「この方は」

「崇徳院。この貝の絵には和歌の上の句が隠されていて、下の句は妹の持つ貝に書いてあるそうなの」 

 上の句は、瀬をはやみ岩にせかるる滝川の、であり、下の句は、われても末に逢はむとぞ思ふ、だった。別れ別れになる姉妹がいつか再開することができるよう友江の母親が姉と妹に片方ずつ貝を渡したのだ、と言う。左右の貝がピタリと合うのは世の中に一組しかない。それが姉妹であることを明らかにしてくれる。友江はぼんやりとして遠くを見ていた。そして、深いため息をついた。

「少し疲れたので寝てもいいかしら」

 友江は気怠そうに呟くと目を閉じた。碧は貝を信玄袋の中に戻す。清吉が、かすれた声で「会わせてあげたいなぁ」と小さく独り言を言った。

 一週間後、碧が病室を訪れると今日も清吉がベッドの脇の丸椅子に座っていた。

「あぁ、よかった。今から音羽さんに電話しようと思っていたところです。こちらにどうぞ」

 そう言うと清吉は座っていた丸椅子を碧に譲り立ち上がった。

「藤谷さん、音羽さんが来られました。先程のお話を直接お伝えください」

 清吉は友江を促す。その顔には哀しい陰りがあった。

「友江さん、どうです。碧です」

 碧は友江の手を握った。

「碧さん、いつも来てくれてありがとう。今日までなんとか頑張ってきたけれど、そろそろ父と母の待つ所に行くことになりそう。だから、形見にこれをもらって欲しいの」

 友江が碧に握らせたのはあの信玄袋だった。その中には思い出の貝が入っている。

「そんな、形見だなんて。友江さん、しっかり。もらえません、こんな大切な物」

 碧は思わずそれを友江に押し返した。

「ううん、お願いだからもらって。本当にもう長くはないから……。自分の事だからよく分かる。碧さんには本当によくしてもらって、心から感謝しています。結局、生きている間に妹には会えなかったけれど、しかたないと思っています。……なので、今はもう形見としてこれを残すほかないの。碧さんには私の事をいつまでも覚えていて欲しいから、だから、その貝をもらってくださいな」

 友江は見えない両目から涙を流した。清吉は押し黙ったまま病室を出て行った。

死ねば、そのまま消えてゆく。生きたという時間さえもひとりでに失われてしまう。小さな部屋に残した品物も消えてなくなる。小太郎もどこかに引き取られる。友江にとって、この世に生きたという証を託せるのは、わずかに碧がいるだけだった。

碧は友江の涙をハンカチで拭いた。

「いただきます、友江さん」

 友江の耳元で碧は囁いた。友江が小さく頷く。

「ありがとう、ありがとう」

 友江はそれで安心したのかほのかに笑った。しばらくして病室を出ると待合室に清吉がいた。碧が隣に座ると清吉は暗い顔つきのまま溜息をつく。

「……あと、ひと月持つかどうかです。心臓にかなり深刻な傷みがあるようで……。どうしようもない、とのことでした」

 おそらく担当の医師に聞いたのだろう、清吉は背中を丸めて両手で顔をこすった。

「あの貝は結局いただきました。もう妹さんとの再会は諦められたようです」

 碧は小さな信玄袋を見詰めながら話した。清吉もそれを見遣りながらゆっくりと口を開いた。

「そうですか。なんとか会わせてあげたかったですが……。音羽さん、人生というものははかないものです。どのように生きてもいずれは死んでしまう。死んでしまえば、その人の人生の間に起きた事柄はみんな消えてなくなってしまう。何を想い、何を願ったか、誰にも知られないまま埋もれてしまう。情けなくも悲しい事実です。漢字で、はかない、という字は人偏に夢と書きます。人は夢を求めて生きる、そして、そのこと自体が儚い。ですが、それでも人は夢を追いかけます。そうしないと人は生きてゆけないからです」

 清吉はそこで碧を見た。

「音羽さん、実は是非ともご依頼したいことがあるのですが、聞いていただけますでしょうか」

 碧はこくりと頷くと清吉の話に耳を澄ませた。


 友江の容体は良くない。八月の終わりになると意識が濁る時間が増えてゆき予断を許さなくなっていった。

 間に合うか、清吉は碧を待っている。しかし、今は待つしかない。碧からの連絡を待つしかない。

「失礼します」

 九月四日の午後、碧が病室のドアを開けた。手にはあの信玄袋を持っている。清吉の無言の問いかけに眼でしっかりと答えた。

「藤谷さん、音羽さんがいい話を聞かせてくれますよ」

 清吉は友江の耳元で告げた。碧はベッドに近づき、友江を見詰める。

「友江さん、これを確かめて」

 そう言い、信玄袋から貝を取り出し、友江に握らせた。友江はおぼろげな意識の中で初めての不思議な貝の合わさりを感じた。

「……これは。これはもしかして……。これはどうして。右と左の貝が合わさっている……。碧さん、この左の貝はどこから」

 友江の意識が急に戻ってきた。碧と清吉が顔を見合わせる。

「友江さん、ごめんなさい、それは……、それは言えないの。本当にごめんなさい」

 答えに窮した碧が涙ながらに返事をすると友江はしばらく黙っていたが、貝を握りしめたまま呟いた。

「そう……。そうなのね。そうだったのね。良かった。碧さん、もう一度、お顔をさわらせて」

 友江は貝を胸の上に置き、碧を両手で探した。碧は自分の顔に友江の手を導くと眼を閉じた。友江の痩せた、カサカサになった手のひらが顔を撫でてゆく。緩やかな風のように、流れる人生のようにゆっくりと友江の手のひらが碧を確かめた。

「ありがとう、碧さん。もうこれで思い残すことは何もない。私は幸せ。本当に幸せ。ありがとう、ありがとう。……あぁ、見えた。あそこで妹が手を振っている」

 深くて美しい笑みがこぼれた。

そして、数日後、安らかな時に導かれ、友江は父と母と妹の待つ懐かしい我が家に帰っていった。

「音羽さん、すみません。音羽さんに重い物を背負わせてしまいました」

 清吉は火葬場で頭を下げた。夕陽が射して清吉の顔を照らしている。

「……いえ、こちらこそお礼を言わなくては、と思っています。今度の事で、自分が進むべき道が見えたような気がします。能代さんから左側の貝を作って欲しいと聞かされた時は、それは無理、と思いましたが、あの晴れ晴れとした友江さんの笑みを見て、これでよかったのだと思いました。そして、私はこれからも、あのような喜びを誰かと分かち合いたい、分かち合える何かを作ってゆきたい、と考えるようになりました。伝えるのではなく分かち合う。それが私の夢です。儚くてもいい、一場の夢でもいい、互いに心を満たすことのできる愛おしい何かを分かち合う、その瞬間が美しいのだと思います。その美しさこそが私の求める全てです」

 碧は沈もうとする夕陽を見ている。清吉は駐車場に向かう階段を下り始めていた。

「音羽さんにそう言っていただき、私も胸のつかえが取れました。ありがとうございます。実はもう民生委員を辞めようかと思っていました、誰の役にも立たないような気がして。ですが、思い違いをしていたようです。続けることにしました。……何というか、うまく言えませんが、私も藤谷さんのあの笑顔に救っていただきました。……では、私はここで失礼します。またいつかお会いできる日を楽しみにしています」

 清吉は碧に向かって一礼した。碧は礼を返し清吉を見送る。そして、駐車場脇から遠くに続く山道を眺めた。

碧の歩む時の道もこれから遠くまで続く。別れていった懐かしい人にもいつかはまた会えるだろう。

「……いいえ、会わなくてはいけない」

碧は強くそう思った。なぜなら、分かち合う愛おしくも美しい、その一瞬に秘められた永遠を求めて、始まりの一歩を今、踏み出したのだから。

                   了

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