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川中島はNOTベストコンディション

武田信玄にとって、痛恨の損耗戦といわれる第4次川中島合戦。ここで失った人材が健在ならば、のちの武田家の運命も大きく変わる。最適解ともいえるルートを辿ることも可能だった。

川中島で散った有力将士は、甲斐の者、もしくは直接支配の者であり、信濃の者はいなかったこと。気がついてますか?実は見落としている人が多い。
当時、関東管領に就任した上杉謙信の肩書に進退を迷わせる者は多かった。関東はおろか、甲信地方にもいた。
上杉謙信へ書状を出す者もいたが、実は、信玄配下の多くの信濃武士は上杉への書状を発していた。信玄も知っていた。それで、不信感を覚えていた。直接戦闘の重要箇所に信濃勢がいなかったことは偶然ではあるまい。

 六月、信玄は信越国境の拠点である割ヶ嶽城を攻略した。凄まじい攻撃でこれを落としたが、原美濃入道清岩が重傷を負った。鬼美濃と呼ばれる武将ならではの戦いだったが、銃弾には敵わなかった。入道清岩はすぐに甲斐府中へ送られた。このように甲斐古参の者が率先して戦うところに、信玄の、信濃先方衆への不審が垣間見える。
 信玄は小山田弥五郎に命じて、原入道清岩の見舞いをさせた。
「信州の世上、鬼美濃の目に如何に映ったか、とくと聞いて参れ」
「は」
 弥五郎にとって学の師が武田信繁なら、原入道清岩は武の師だ。近習として第一に心掛けることは、生きて使いの番を果たすことにある。討ち取られたら情報は途絶え、為に軍勢や城が全滅することもある。ゆえに馬上の武術は必須であり、そこに在るすべてを武器に転じる知恵と知識が要求された。それを教えたのが、原入道清岩だ。
 鬼美濃と呼ばれるだけあって、原入道清岩は修練に一切手心を加えない。彼が小田原へ出奔するまでの数年間、弥五郎はみっちりと鍛えられた。おかげで今は、自己鍛錬のみならず、人に教えることもあった。
 穴山左衛門大夫信君は武の指南に鬼美濃を望んだ。
「一人教えれば足りる。そいつが儂の代わりである」
 このとき原入道清岩は、弥五郎に代役を押しつけたのだ。穴山信君と弥五郎は歳が近い。躑躅ヶ崎の穴山屋敷まで鎗指導に赴く程、穴山信君と弥五郎の親交を深めた。
 弥五郎は研鑽をした。人に何かを教えることは、人の資質の上にいなければならない。近頃それを理解した矢先の、見舞いであった。
「よう、来たな」
 満身創痍という言葉が相応しい、原入道清岩の寝姿であった。世話をするのは、次子・甚四郎盛胤の妻と、初鹿野源五郎忠次に嫁した実娘だ。枕元には客もいた。信州長沼の原立寺住持・栄久法印である。
「客人がお出でなら、出直して参るずら」
「構わぬ。御館様が知りたいことは、承知しておる。こちらの御仁に聞かれたところで、些かも困るものではない。座れ、弥五郎」
「は」
 遠慮がちに、弥五郎は腰を下ろした。
「割ヶ嶽は小城のくせに堅固じゃった。ここを落とされたら、越後まで一息。抵抗は凄まじくて当然じゃわ」
「まさか、越後勢が鉄砲なんぞ持っていたとは」
「違うな」
「違う?」
「儂は背中から撃たれた」
 弥五郎の表情が、強ばった。
         NOVLEDAYS掲載「光と闇の跫(あしおと)」
                 第5話川中島血戦(前)より抜粋

 この頃になると、如何に真田幸隆とて、信玄の不審に対し気付かぬ筈はない。武藤喜兵衛を呼び出し、どういうことかと質した。武藤喜兵衛は躊躇いもなく、その理由を答えた。永禄二年一一月一三日の〈御太刀持参之衆〉の一件を、信玄はすべて知っている。関東豪族が政虎に寝返ったように、信濃先方衆が寝返ることを懸念しているのだ。
「馬鹿な」
 まさかあのときの事を、信玄がすべて知っていたのか。
「それを理由に不審を抱かれておいでか」
「はい」
 真田一徳斎は驚きで言葉もなかった。このままでは信頼がないまま、取り返しのつかぬことになる。確かに二枚舌な外交をしたし、それがあのときの最善と信じて、信濃衆は結束し行動したのだ。
 真田家の今があるのは、すべて信玄のおかげだ。越後へ裏切るつもりなど毛頭ない。それだけは真実だった。

         NOVLEDAYS掲載「光と闇の跫(あしおと)」
                 第6話川中島血戦(後)より抜粋

 信玄がこの合戦で失うものは多かった。
 信濃の豪族はこの激戦のなか、どちらつかずの態度を臭わせていた。これは北条にも上杉にもいい顔をする関東の豪族と同じ反応だ。
 最後の追撃戦になってから、彼らは俄然張り切りだした。この曖昧さこそが、この陣中の終始において、信玄を縛った信濃先方衆への不信感そのものを表していた。
 彼らが本当に武田へ従っていたなら、このような死傷者を出すことはなかった。
 信玄が惜しんだ武田の討死者は七人だった。

  武田典厩信繁(信玄次弟)
  油川彦三郎信連(信玄側室兄)
  諸角豊後守虎定(譜代侍大将・武田縁者)
  三枝新十郎守直(甲斐国人・信玄旗本)
  初鹿野源五郎忠次(武田家庶流・足軽大将)
  安間三右衛門弘家(信虎時代の古参・甲斐信濃訴人頭)
  山本勘助入道道鬼斎(軍師・足軽大将)

 すべて甲斐本国に属する者たちであり、信濃国人はここにはいない。
 信濃先方衆は激戦の矢面に立った筈なのに、主立った死者がいないのだ。信玄の懸念は、ここに表れていた。
         NOVLEDAYS掲載「光と闇の跫(あしおと)」
                 第6話川中島血戦(後)より抜粋

最も大きな損失は、片腕ともいわれた弟・信繁の死だ。
あくまで仮定に過ぎぬが、もしも信玄死後まで信繁が生きていたら、どのような可能性があっただろうか。
①義信事件発生前の仲裁。もしくは悪しき芽の摘み取り。
②西上作戦で東美濃方面軍を任され、さらにもう一歩進軍が叶い東美濃を完全掌握した。若しくは岐阜城下まで詰め寄った。
③相続者後見人として家中の波風を鎮め、新当主・譜代の双方に諫言も辞さず、また双方とも大人しく受け入れた。よって無謀な版図拡大をしなかった。
④長篠の無様な展開に至る前に撤退の機を読み仕切り直すタイミングを間違わなかった。この温存が、のちに信長・家康の運命さえ狂わせた筈。
⑤御館の乱での判断違いをしなかった。また、北条氏政に自軍出兵のない不義理を叱責したか、取り返しのつかぬ恩を売りつけるなどのしたたかさを発揮した。
⑥自らの戒めを子に課し、新当主に従わせることが出来た。
⑦信繁の存在そのものが南信州の信頼につながり人間雪崩現象は生じなかった。むしろ美濃方面で逆のことが生じた可能性がある。

過大評価。
買いかぶり。
そうだろう。あくまでも仮定だ。
しかし、どれかひとつでも選択を誤らなければ、その後の武田の運命は大きく変わったことは間違いない。