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新選組の出資者

パトロンという淫靡な響きを感じてしまいがちですが、いわゆる起業の出資や後援は、創業のタイミングで、いつの時代にもあることです。すくなくとも新選組に関していえば、会津藩が100%出資したわけではなく、ましてや公的組織の出だしでもない。ベンチャーの中小……零細企業なわけだ。
芹沢鴨の傍若無人な様を
「あいつは悪いやっちゃでぇ」
と他人事のように見てはいけない。芹沢なりの出資者と軍資金の集め方。ただし手荒過ぎた、なぜなら彼らは武士100%だからだ。

新選組として大いに評価と実績を認められた彼らではあるが、芹沢一派粛清後の後援出資者に苦慮しただろうことは、あまり表立って語られることはない。近藤勇のような武士100%でない者は、高楊枝を決めるよりも、頭のひとつも下げられる側でいた。かといって気位の高い京の町衆にその手は通用しない。
自然と、郷里にそれを求めることになる。

郷里で金銭を安んじて出資してもらえる存在が
近藤勇にはいたのだ。

日野の名主・佐藤彦五郎
近藤勇の義兄弟であり、妻は土方歳三の姉。長屋門に天然理心流道場を設けていたから、物心ともに支援を申し出ることのできる存在だった。
小野路の名主・小島鹿之助
彦五郎同様、近藤勇の義兄弟。多摩はこうした豪農がネットワークでつながっていて、天然理心流というツールを一つにすることで相互連携していた。
橋本道助
小島鹿之助の縁者で試衛館時代は沖田総司が出稽古に来ていた。多摩の有力者のひとり。

という塩梅で、出資者を郷里に求めた近藤勇のやりかたは、督促なしの信用貸し。のちに幕府公認団体になったことで返済も行なったと思われるから、恨みっこのない綺麗なお金の使い方だったに違いない。
或いは、芹沢鴨を反面教師にしたことだろう。

富沢忠右衛門
連光寺村名主を務め、日野宿寄場組合44か村の大惣代に任命されるなど、地域の指導者。近藤周助門人で、勇の4代目襲名に尽力した人物。
当然、新選組の大事な出資者のひとりである。

元治元年(1864年)、連光寺村領主・天野雅次郎が将軍上洛に随行し、用人として、富沢忠右衛門も上洛した。お目見え以下の旗本と新選組。当時は立場が大きく変わっていて、ましてや局長たる近藤勇の勢いは留まることを知らない。
天野雅次郎としては、頭を下げなければいけない相手。
でも、出資者である兄弟子の富沢忠右衛門に対して、頭を下げるのは……近藤勇。スラップスティックな三角構造ができた。それが京都に集えば、どんなドラマになるだろうか。三谷幸喜は大河ドラマで、こういう喜劇に目を向けなかったのだろうかと思うと、勿体ないことをしたと感じざるを得ない。

電子書籍「新選組婉曲録」
このことも、当然ネタにしています。

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