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加藤塚私見

以前はラジオの首都圏の交通情報で、
「国道16号線内回り加藤塚交差点は5キロの渋滞で……」
などと聞けた。憶えている方は20世紀の人だね。
いまは国道16号線もバイパス。しかも旧国道も拡幅で渋滞緩和された。

この拡幅で、従来箇所を削り部分移転を余儀なくされたのが、

件の「加藤塚」である。

この加藤塚は、なんの塚、なにを祀るということを知らぬ人も多い。
戦国武田にかかわることを、知っている人はもはや稀だろうか。

東京都西多摩郡瑞穂町。甲斐国とは縁もゆかりもない。
加藤神社とよばれるこの場所。昭和の頃はもっとぞんざいに扱われていた気もするが、悪さをすると祟られるとも云われてきた気もする。
なんでそんなこと知っているのかって?
ここが夢酔の故地でもあるからだよ。すくなくとも大学に入って宿を外に求めるまでは、365日、この自治体に寝食を得ていたからね。たいがいの所以は朧げに耳にしている。

だいたい建て替え前から「鎮静」なんて額あれば、触らぬ神に祟りなしと思うだろ

むかしからのテーマで、
なんで甲斐武田滅亡後、家臣加藤丹後守一行がここへ来たんだ?
という謎があった。

ご縁あって、故村山美春先生が起草した瑞穂町史の手書き原稿(写し)を得ているのだが、確証ないので言及していない。逃げたけど、どこへ……ずっと謎だし、いまも謎ではあるまいか。

作家というものは所詮ペテン師的な側面もあって、僅かな可能性があればその辻褄合わせを必死で模索して、道筋を構築する。ずっと避けていたけれど、その道筋が急に開けたのは、小山田信茂の末裔である一家や、それを支える人々との出会い。それを通じて知り得た松本憲和氏の論。武田家旧温会で小山田信茂公顕彰会の松本憲和氏が記した著書「武田勝頼『死の真相』-理慶尼記の謎を解く-」に秘密があった。

加藤家主従は上野原を出て、武州吉田村虫塚にいる真行寺の真行大法尼(信玄妹)を頼ったとしたら、行程的にも矛盾は生じない。そして加藤主従以外にも、これを頼り赴いている。
不運にも、何かしらの遭遇によって加藤丹後守はここで討たれた。その結果だとしたら、どうだろう。

勿論、オフィシャルな説ではない。

松本憲和氏の論をベースに考察した私見に過ぎぬ。ただ、宛てもなく、ゆかりなき箱根ケ崎村へ来て亡くなったという説よりは、血肉が通うのではないだろうか。

「小山田弥五郎殿が郡内を無事に通してくれた。国中から吉田村までに必要な便宜を図ってもくれた。おかげで大勢の武田の家臣が生き延びることが出来たのだ。私はね、弥五郎殿に感謝しているのですよ」
 真行大法尼の言葉は、生き永らえた者たちの声そのものだった。
「それにしても、次郎左(加藤信景)殿は、残念だった」
 加藤次郎左衛門尉信景は上野原を逃れて河越へ落ちる途中、武州箱根ケ崎村で撲殺された。氏照統治下でも、その土地ごとの気候風土や民度は異なる。手柄を望んで勇み足になる者も少なくない。加藤信景は功名に逸った農民の、理性なき民度の犠牲になってしまったのである。
「谷村様は、次郎左衛門殿のことを、本当に頼りにされていました」
「ええ」
「こののち郡内は、係争の地になるようです」
「それは、大変なことに」
 織田信長が死ぬと、旧武田領のうち甲斐一国は北条と徳川が奪い合うこととなる。河内の穴山領は、徳川が抑えた。家康は富士川に沿って国中へ進出をした。北条は一歩遅れたのである。郡内だけが北条の手元にあった。
 甲斐を巡り、北条と徳川は武力衝突する。このこと、のちに〈天正壬午の乱〉という。
   NOVLEDAYS掲載「光と闇の跫(あしおと)」最終話「郡内」抜粋

武州吉田村虫塚の真行寺は、現在の川越に現存する。10月13日に、ここnote で紹介したから、皆さんも覚えていることでしょう。


真行寺