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信松尼、檜原に?

武田信玄息女・松姫。
甲州征伐の難を逃れ、武州恩方に落ち着き得度、信松尼と号す。
松姫逃避行というお題で、かれこれ従前からこのテーマの私見は多く、定説と呼べるものは、果たしてあってなきが如し、といえる。

時系列的には、どんなものだろう。ちょっと、振り返る。

ウマの合わぬ勝頼と一緒にいたくない松姫は、天正10年当初は、高遠城にいた。高遠城は同腹の兄・仁科五郎盛信が城主を務める。
木曾謀叛のとき、武田首脳陣は敵の攪乱と決めつけて静観した。伊那の事情を洞察できる盛信は楽観視せず、まず、松姫と娘・督を連れて新府城へ避難するよう促す。

結局、木曾背信が事実と分かり、諏訪へ布陣し慌てふためく勝頼。
勝頼夫人から、城よりも寺がいいと、信玄次男・龍芳のいる入明寺へ勧められる松姫。ここで勝頼娘・貞と、小山田信茂養女(外孫)・香具が一緒に赴くこととなる。香具は人質だと云われているが、貞付の歳が近い傍務ではないか。
龍芳は武州に一旦身を落ち着かせる筋書きを、このとき指図したと考えられる。ここから開桃寺に赴いたのは2月5日。塩山の向嶽寺に着いて、寺社のネットワークが作用したのは想像に易い。このとき向嶽寺と武州恩方の卜山和尚は連携をしていた。卜山和尚のもとにあれば、北条氏は手を出せぬ。向嶽寺にいる間に、仁科盛信の子・勝千代が2月19日に合流。

3月27日、松姫一行は案下峠(現・和田峠)下の民家(武田家諸国御使衆で在地間者・渡辺氏)のもとに、予定より10日遅れて落ち着く。

2月末から3月半ばまで移動。
この間、少なくとも3月10日までは武田は滅亡していない。よって逃避行という名称は相応しくない。それでも、これが定着しているのは、その方が滅びの美学と一致するなどという雰囲気の、甘美な響きがある。それに受ける側が、勝手に酔い痴れている事もあるだろう。少なくとも松姫のなかでは、予定の避難行動であり、逃亡という考えはない筈だ。

そのルート。
ここも、甘美な響きを勝手に抱いた者たちが、おらが村にこそ通り過ぎて行ったという願望をむき出しにする。その当時の価値観と、現代の印象の違いは、当然、理解されるところではない。

写真は、信松院にある移動したと思われる経路

世間一般の定説とされること。
「小山田信茂が裏切ったから、幼い姫を連れて、たいへんな大菩薩越をしながら松姫様が八王子まで逃げてきた」
このことに、矛盾を感じて欲しい。時系列からみて、武田勝頼が笹子峠に迫る前に、松姫一行は郡内へすんなりと入ることは可能だ。なぜならこの時点で、定説にある裏切りは発生していない。もし、そうだとしたら、勝頼は松姫が追い返された事実を、勝沼へ至る事前に知ることが出来た。
この騒動は一切なく、松姫側の記録にも背信の事実はない。
「事前に察知したので、雪の大菩薩を越えて行ったのだ」
それは、根拠のない願望だ。裏切りの事実がないのに山を越える必要はなく、なによりも行先が最初から案下峠を越えた先の民家と決まっているならば最短かつ平坦で安全なルートを選択する。旧暦だから桜の季節、残雪はあっても雪に閉ざされたという感覚も疑う。
小山田信茂は、そもそも裏切っていない。一行には養女(外孫)が含まれている。むしろ安否を万全に整えるのが自然ではあるまいか。そして笹子峠よりも安全な峠から郡内に入ったと考えるのも、自然な考えである。当時の笹子峠は街道ではなく、ひと一人の道幅しかない未整備の路。峠にあるのは武田家最高機密の狼煙台、余人の立ち入れる場所ではないのだ。別のルートと考えない、むしろ主要道とこじつける方が、江戸時代五街道整備以降の思考であり乱暴極まりない考えである。
そう考えれば、信松院の行程図が実に自然なものとなる。

大菩薩を越えてきたんだ。
松姫峠という地名だってあるじゃないか!

という声があることは承知している。

これには、種明かしがある。
国道139号線の松姫峠は昭和50年にようやく開削されて車が通れるようになり、当時の山梨県知事・田邊国男氏が、悲劇の「武田の姫様人気」にあやかって松姫峠と命名した。開削以前には辺りには道らしきものはまったく無かったらしい。だから、松姫が八王子に向かう途中に松姫峠を通ったというのは、完全な誤りだろうと考えられる。

それでも、
松姫がここを通過したということでなければ、
駄目なんだよ!

暴論このうえない。
逃げる必要がないのに、わざわざ大菩薩を上り下りする意味がない。
しかも、この峠道。江戸時代に裏甲州街道とされるルートは、萩原路としてむしろ一般的な主要な街道だった。当時の常識は現代の真逆、むしろ尾根道こそが幹線道路なのだ。幹線道路を通行すれば、否応にも目立つ。むしろキツくて、危険なのである。

初狩番所からは小山田支配、ここに入って、警護を伴いながら東へ移動することこそ安全地帯。
小山田信茂ブログでは、小山田信茂公顕彰会の会員による考察と、古道の実地検証なども丁寧に行なっている。これも一説としては十分な可能性があるだろう。
が、もっと簡単だったのではあるまいか。
岩殿城を尻目に、猿橋を過ぎて、ある箇所まで移動すれば上野原のあたりは歩行せずに桂川(相模川)を舟で下って移動が出来る。
現在の藤野近辺に上陸し、そこから歩き出せば、陣馬山麓よりの道を経て案下峠に至る。現在の神奈川県道・山梨県道521号佐野川上野原線・東京都道521号上野原八王子線、通称「陣馬街道」だ。

効率性、合理性。
これが最適解なのだと分かるのだが、どうしても、人は勝手なロマンと思い込みをしがちである。ときには定説にしようとしたり、ときには本家だ元祖だと優越を求める。
人目をはばかる逃避行でない以上は、松姫様ご一行が
「幼児を伴うロングトレイルを行なう必要がない」
と云うのも、いうなれば夢酔の私見。
正解のない口論というのが、ホンネである。
ただし「松姫峠」の根拠だけは、当時の田邊知事による、なんとなく付けられたネーミングであることは間違いない。これさえ否定されてしまうと、もう、同じ土俵にはいられない。

クリック ⇒ (Microsoft Word - \217\274\225P\202\314\216\350\213\276\212T\227v.doc) (vill.hinohara.tokyo.jp)

上記クリックで開けるPDFは、檜原村郷土資料館にて展示されている「松姫の手鏡」なるもの。
夢酔も赴き、写真撮影の許可は教育委員会申請で行なっている。
使途が不一致なので、ここでは公開できない。一応、個人所蔵物であるという理由もある。

これをして、松姫が檜原村を通過して逃げてきたと断定することは難しい。しかし、実物か否かはさておき、物体が存在することは、お伽噺ではなく様々な考察から研究して頂きたいところではある。

のちに松姫様は武州恩方の卜山和尚のもとで得度し仏門に帰依した。

その菩提寺が、信松院である。

松姫逃避行という云い方は好みませぬ。
そのあたりの解釈。

NOVLEDAYS「私本信松尼公記」

にて綴っています。(上、クリック!)

無論、独自解釈による、くだんの手鏡とのすり合わせも。ただし、小説の上のことにて。