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河越にある武田ゆかりの寺

武州河越は北条の勢力下。
「なんで、武田の寺が?」
これは不思議なことと思うでしょう。

真行寺。
もともとは吉田村虫塚にあり、河越に移ってきた。ここに武田家滅亡より難を逃れた多くが来たことを、後世は広く伝えていない。

加藤次郎左衛門尉信景は上野原を逃れて河越へ落ちる途中、武州箱根ケ崎村で撲殺された。上野原から、どうして箱根ケ崎にきて、どこへ行くつもりだったのか。
真行寺ならば、ルート的に合点がいく。どう考えても
「真田を頼るため」
などと寝惚けたことは云えない。長年の懸案だったが、これなら得心がいく。このことは武田家旧温会で小山田信茂公顕彰会の松本憲和氏が記した著書「武田勝頼『死の真相』-理慶尼記の謎を解く-」で明らかにされた。何よりも松本氏の先祖が、真行寺へ逃れた家臣だったのだからお伽噺ではない。

甲斐国よりここへ至るルートにあるのが郡内。小山田信茂が定説でレッテル貼られた裏切り者ならば、彼らの通過を見逃すはずがない。こういう点を掬い上げれば、定説や声の大きいモノの意見に幻惑される大衆心理が透けて見えるようだ。

逸話がある。
勝頼が新府城を逃れるとき、春日居にて二歳の男子が高熱を発した。土地の者にこれを託し、一行は先を急ぐ。この列より従者と小山田信茂の母が離脱し男子のために留まった。
織田の追及を逃れるため、土地の者は男子が死んだと公言し、骸があることにしてこれを埋め、芍薬を植えた。この偽装が功を奏した。
芍薬塚は、こういうことだという。
男子は小山田信茂の母により谷村に匿われ、やがて真行大法尼に託されるべく従者ともども真行寺に赴き、出家した。

吉田御師・数珠屋小澤彦左衛門は武州に檀家を抱えている。
小山田信茂はこの者を用いて、真行大法尼へ扶養の財を手配させていたともいわれる。落ち延びた者を匿う資金はここからのものとされる。

現在の筒屋さんが、数珠屋。読みが変じ筒屋になった。
筒屋は現在でも山開きで講を受け容れている現役御師

至誠山成就院真行寺を開基した真行大法尼。
信玄の妹である。


「光と闇の跫(あしおと)」では彼女も大きな働きを為す様を描いています。

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