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【英文学】メアリーウルストンクラフトの名言

こんにちは

本日はメアリー・ウルストンクラストの名言を紹介していきたいと思う。

彼女は『フランケンシュタイン』で有名なメアリー・シェリーの母である。

母である彼女はフェミニズムのパイオニアのひとりである。

当時は女性の意見が通りづらいという風潮はあったなか、この本を出版し、社会においての女性の扱われ方について声高に論じた。

この本においても彼女や『女性の権利の擁護』について詳しく書かれている。

それぞれの女性作家が「読書すること」や「発表すること」に対して当時はどのように感じていたのかを講義形式で楽しく時にシリアスに読むことができる。

彼女の経歴に移っていきたい。


彼女の経歴

メアリ・ウルストンクラストの経歴を見ていきたいと思う。

誕生と家族
1759年グレートブリテン王国の首都ロンドンで、イングランドアイルランド人の家庭に、六人の子供の第二子として誕生。父エドワードは、専制君主的な人物で、メアリの母や家族に対し暴力をふるい、威圧的な態度で接する。エドワードは豊かな財産を相続したが、無益な事業に浪費し、イギリスを転々とする。
1778年、19歳でメアリは自活するため家を出る。
1780年、母エリザベスは病気で死亡。
1783年に、メアリは重病の姉妹イライザを看護し、乱暴者の夫から助け、離婚が成立するまで匿う。メアリとイライザたちは学校を設立。
1787年、『少女の教育についての論考』(Thoughts on the Education of Daughters)という162頁のパンフレットを執筆する。この著作はメアリに利益をもたらし、彼女は文筆で身を立てることを決意。


作家ウルストンクラフト[編集]1787年、メアリ・ウルストンクラフトはロンドンに移り、彼女の本の出版者であり、急進的書籍を企画していたジョゼフ・ジョンソンに会い、作家として生計を立てる決意を述べ、ジョンソンはこれを歓迎する。メアリは多数の小編、翻訳、抄訳、等を執筆する。
1788年、ジョンソンが雑誌『分析的書評』(Analytical Review) を創刊すると、メアリは雑誌の常連投稿者となる。また、ここより、当時のロンドンにあった、知識人と急進的思想家たちのサークルに受け入れられる。
1789年、30歳のメアリは全力を尽くして激しい仕事をこなすと共に、困窮した父親の面倒を見、姉妹たち、兄弟たちのため、生活の手段や社会的地位の確立に惜しみない援助を行った。また彼女自身、亡くなった友人の遺児で、7歳になる子供の面倒を見ていた。


フェミニズム思想[編集]

フランス革命に対し否定評価を与えたエドマンド・バークに対し、メアリは反論を書くが、それは多くの人を魅了した。メアリは更に多くの論説を記し、当時、「人間の権利(the Rights of Man)[註 :「男性の権利」の意味を英語では含む] 」についての多くの議論が成されていた。1792年、『女性の権利の擁護』を執筆出版した。


随筆家ホレース・ウォルポールは彼女を、「ペティコートをはいたハイエナ」と呼ぶなど批判した。

パリ、失意と自殺の試み[編集]

メアリ・ウルストンクラフトはスイス生まれでイギリスで活躍中のロマン主義の画家ヘンリー・フューズリ(Henry Fuseli; 元はドイツ語でヨーハン・ハインリヒ・フュースリー Johann Heinrich Füssli)に恋をするが、妻帯者であるフューズリへの思いを断ち切るためと、目下進行中のフランス革命の様子を観察するために、単身イギリスを去りフランスの首都パリへ渡る。1793年パリアメリカ人ギルバート・イムレー(Gilbert Imlay)と恋に落ちて同棲生活を始めるが、自分が経済的に支えていた父親や多くの兄弟姉妹への負担を避けるため、敢えて結婚は選択せず。君主国家イギリスの女を攻撃しかねない革命主義者たちから身を守るため、パリではイムレー夫人(Mrs. Imlay)の名を自称。


2人の間に娘が生まれ、ファニー(Fanny)と名づける。イムレーはスウェーデンノルウェーでの事業の代理者を求め、内縁の妻であるメアリがその役割を引き受けてパリを発つ。北欧でメアリが受け取ったイムレーの手紙はひどく冷淡なものであり、イムレーに見捨てられたことを覚る。1795年10月、ロンドンに帰ったメアリは激しい雨が降る晩、ロンドン西郊パトニー橋(Putney Bridge)からテムズ川へと投身自殺を図るが救助される。


結婚そして死[編集]1797年、メアリは結婚制度を否定することで知られた無政府主義の思想家ウィリアム・ゴドウィンの子を身ごもった。結婚制度を共に否定してきた二人だったが、生まれてくる子が私生児ゆえに社会や法的権利上で差別されることを恐れ、同年3月29日、ロンドンの教会で結婚式を挙げた。これまでの自分たちの主張を覆す「教会での挙式」を選んだため、二人は多くの友人を失った。同年8月30日、ロンドンで娘メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィンを生んだが、出産からわずか11日後の9月10日、38歳で産褥熱のため死亡した。なお、娘メアリ・ウルストンクラフト・ゴドウィンは、後にロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリーと結婚し、メアリ・シェリーと名乗り、小説『フランケンシュタイン』の作者として名高い。

wikipedia
2024年1月6日閲覧

経歴を見ていくと彼女の作品がのちのシェリーの作風に影響を与えたといえるだろう。母がこの本において声高に叫んだフェミニズムの叫びが娘であるシェリーに通じているのかもしれない。

名言

彼女の代表的な名言を見ていきたい。

主にこれらのサイトを使用してみていきたい。

始まりはいつも今日です。


I do not wish women to have power over men, but over themselves.
私が望むのは、女性が男性を支配する力を持つことではなく、女性がみずからを支配する力を持つことである。

一つ目は今日という一日の始まりにふさわしい名言である。過去のことに囚われず、今日という一日をしっかりと生きていこうという意味が込められているのではないか。

二つ目は、昨今の女性の自立と密接に関わっているだろう。現代においても、ジェンダーの問題が叫ばれる中においてふさわしい名言なのではないか。

メアリ・ウルストンクラストに関する本

『女性の権利の擁護』を英語で読みたい方はこちら

それでは


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