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No. 32 英語教育とtranslingual ⑧【小笠原諸島から】

はじめに


前回の投稿では、Netflixの人気ドラマ Emlily in Parisからtranslanguagingの例を見ました。
もちろんドラマの世界ではありますし、様々なステレオタイプが垣間見えるドラマではありますが、translanguagingについてはとてもリアルに描かれていると思います。まだシーズン2の途中までしか見ていないので、これから先のエピソードも楽しみにています:)

さて、今回の投稿は、小笠原諸島の言語使用からtranslanguagingについて考えていきます。translanguagingについて興味のある方なら、とても面白い内容になっていると思います!

小笠原諸島のtranslanguaging

まず、なぜこの投稿をするに至ったのかについて簡単にお話しします。僕自身は小笠原諸島について詳しいわけではないのですが、僕が教えている授業の教科書にlanguage contact(言語接触)のお話があり、そこで小笠原諸島が紹介されていたのがきっかけです。

小笠原諸島は本州から南方1000kmも離れたところに位置しています。そこには昔からヨーロッパや南太平洋の島々の人々、琉球などの日本の人々などが訪れ、一時的に滞在したり、永住するようになりました。そんな小笠原諸島では当然の如くlanguage contactが起き、日本語を基本としつつも小笠原諸島特有の言葉を生み出していったのです。
その教科書で紹介されていた例を二つ紹介しましょう。

me-ra

読み方は「ミーラ」です。これが何を表すかわかりますか?
これは2語で構成された言葉で、英語のmeと、日本語の複数を表す「〜ら(例 彼ら、彼女ら など)」から来ています。
これを踏まえるとわかるかと思います。
そうです、これは英語でいうところの"we"(私たち)を意味しているのです。本州で「自分たち」を指す言葉として「ミーラ」という人は基本的にいないでしょう。これはlanguage contactが頻繁に起きていた小笠原諸島ならではの言葉ですね。

mata miruyo

これはアルファベット読みをするとわかるように、「マタミルヨ」と読みます。もうピンと来ている人もいるかもしれませんが、ある英語の言葉を日本語訳した言葉のようになっています。
そうです、See you again.から来た言葉です。それぞれの語を和訳すると、see「〜みる」、you「あなた(に)」、again「また」になりますね。それに日本語の語尾につける「〜よ(例 これ食べるよ、明日は行くよ など)」をくっつけて、「マタミルヨ」となっています。使い方もSee you again.と同じで別れ際にいう言葉だそうです。英語表現を日本語化して使っていたのですね。


me-ra、mata miruyoから学べること

これらはtranslanguagingの素晴らしい例だと言えると思います。me-raは英語と日本語をミックスして作った言葉であり、mata miruyoは英語を和訳して作った言葉ですが、どちらも本州の人々が自然に使う言葉ではなく、とてもユニークな言葉になっています。
これはtranslanguagingを通じてidentityを創出、構築、表現する行為と言えると思います。つまり、これらの言葉を使うことで、translingual identityを創出、構築、表現することができるのです。

「島国・日本ではtranslanguagingは無縁」と思われている方も多いと思いますが、このような例がしっかりとあったのです。これらはほんの一例でしょうから、調べればまだまだ出てくるのではないかと思います。

しかし、手放しで喜んでいられる話ではないということもこの教科書では言及されています。
これらの言葉は西洋出身の年配の方々によって使われているそうなのですが、中には自分たちの言葉を恥ずかしく思っている人もいるようです。教科書ではその理由が書かれてはいませんが、これまで僕がこのブログで書いてきたように、ことばとメンバーシップの観点からそう思われているのかと想像します。
そしてこの教科書では、ある教授が小笠原諸島のことばの貴重さについて講演したときの様子も書かれています。その講義中、聴衆の一人が「自分たちの言葉にもっと誇りを持とう」と語りかけたという様子が描かれています。ことばを大切にしたい、そして自分たちのidentityを大切にしたいという思いが現れたとてもいい場面ですね。

他にもこの教科書ではTok PisinやMacaneseといった他国でのlanguage contactについても紹介されています。
そして、「言語にとって話者の多い/少ないは関係ない」「language contactは「強い」言葉が「弱い」言葉を乗っ取ってしまうようなものではなく、互いに豊かな言葉になっていくよう平等なものであるべき」といったことも述べられています。このような内容を高校生に読んでもらい、「ことばとidentity」「言葉の不平等さ」についてかんがえてもらえるのはとてもよいことだと思いました。


おわりに

今回の投稿を通じて、島国・日本だからといってtranslanguagingに関係ないわけではないことをおわかりいただけると幸いです。(そして、ただ日本語と英語をどっちも使うことではないということも。)また、いかにことばとidentityが結びついているのか、そしていかにidentityがアンビバレントなものなのかということも感じていただけたのではないでしょうか。

英語教育ではもちろん英語のスキルを教えることが主眼になります。学習者も英語のスキルを習得しようと努めていると思います。
しかし、AIが急激に発展してきているこの世の中において、英語教育の役割は変わってきていると考えています。スキルを獲得することは大切ですが、単純に「英語を和訳できる能力」は以前ほど重要ではなくなってきています
今回の投稿で書いたようなことこそが、これからの英語教育には求められていることだと思います。つまり、英語を学ぶことを通じてことばへの感受性を高め、identityについて理解を深め、自分の望むidentityを創出、構築、表現していくこと。このようなことを追求していくことで、英語教育・学習に関わる人が傷つくことなくhappyになっていけると考えています。そして世界で一番「強い」言葉である英語を学んでいるからこそ、世界中に大きな影響を与えることができるのだと僕は信じています。

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