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No. 27 英語教育とidentityについて 20【identity再考】

はじめに

ここ最近は数回にわたりtranslanguagingについて書いてきましたが、今回はもう一度identityについて書いていきたいと思います。

というのも。

ものすごく面白い本に出会ってしまったからです。その本とは、斎藤環氏の『「自傷的自己愛」の精神分析』です。
斎藤氏の本や論文には大学時代に出会って、すぐにはまりました。理解するのが難しいこともありますが、ものすごく難解な内容でも私のような一般人にもわかりやすく解説してくれます。文体も私好みです。

そこで今回は、この本の主題である「自傷的自己愛」や現代のテーマである「キャラ」と、SLA(第二言語習得論)におけるidentityの類似点や相違点について考えていきたいと思います。先に断っておきますが、飛躍した議論になっているかもしれませんので、あらかじめご了承ください。

自傷的自己愛とSLAにおけるidentity

斎藤氏の本には難しいところもあり、完全に理解できたとは思えないので、もし間違った内容があれば優しく教えていただければ幸いです。

ものすごく簡単(乱暴)に「自傷的自己愛」とは何かを書くと、「自分自身でありたいという欲望」だと思います。本当に心底自分が嫌いなのではなくて、プライドはあるのに自信がないため、自分をdisることで自信を保ちたいというのが自傷的自己愛だと私は理解しました。また、「自分自身」とは歴史的・空間的自分のことであり、そこには身体的な統合、自他の境目の理解、自分の成長可能性に加え長所も短所も含んだポリフォニー的な意味での「自分自身」ということだそうです(何か間違っていたらすみません)。

また、斎藤氏は現代のキーワードの一つとして「キャラ」についても言及されていました。キャラはスクールカーストの形成に関連していて、コミュニケーションを円滑にする効果もあると述べられています。また、自発的にそのキャラを演じるというよりも、演じさせられることが多いということも述べられています。

この自傷的自己愛とキャラは、私が書いてきたSLAにおけるidentityと違っているところも多いのですが似ているところがあると思い、このnoteに書いてみようと思いました。
似ているところに焦点を当てると、たとえば、SLAにおけるidentityは「本当の自分」(簡単に言葉で表せるような、「〜な人」的な意味での自分)というものを想定しておらず、流動的で、ダイナミックに交渉され、形成したり表現したりするものとされています。それは必ずしも「理想的」なものではないこともあり、望まないidentityを与えられてしまうこともあります。また、imagined communitiesにあるimagined identitesも、identity形成には大きな役割を果たします。
キャラとの関連でいえば、留学中に「留学生」というidentityを与えられることで、「文法や単語を間違えてもいいや」と開き直って話せるようになるという人もいます。相手も「留学生」とわかったらその人の国の文化や言語について聞いたり宿題を手伝ってあげたり、コミュニケーションがしやすくなったりします(もちろん、これらが「参加」を阻む要因にもなりうるのですが)

おそらく根本的な違いとなるのは、SLAにおけるidentityは「本丸の」自己を想定しておらず、第二言語習得を通じて形成し、表現していくものだとされているところかと思います。私自身としては、「本当の自分」なるものに固執する必要はないと思っていますが、それでも自分のコアとなるような「本丸の自己」なんてないんだと断言できるほど強く信じてはいません。
第二言語習得を通じて、identityは複数形のidentitiesでいいのだと思えるようになり、また第二言語を学ぶことで「あたらしい自分」に出会えるのかもしれないという希望を持って欲しいと考えているのです。そういった意味で、根本的な違いはあれど、斎藤氏の本で議論されていた自己やキャラという言葉とは何か関連があるのではないだろうかと考え、この投稿をしてみた次第です。

おわりに

ここまででも飛躍した議論や単純な誤りがあったかもしれませんが、最後にさらにぶっとんだ考えを少し示して終わりにしたいと思います。笑

それは、第二言語学習に励む人(ここではわかりやすく、「日本語を母語とする英語学習者」とします)の中には、「自傷的第二言語自己愛者」がいるのではないかということです。

どういうことか。
英語を学ぶ人の中に、「英語アレルギー」ともいえるほど英語が苦手、嫌いという人がいます。それはもしかすると、自己を否定され続けることで自傷的自己愛者になるように、英語で形成されるidentity(キャラ)を否定され続けることで「自傷的第二言語自己愛者」になってしまうのではないか、という考えです。nihonjinronという言葉でSLAの領域でも議論されているように、日本語母語話者の中には自己防衛のために「外なるもの」(たとえば、英語やその文化圏)を嫌う人がいますが、これはある意味、自傷的第二言語自己愛者としての振る舞いなのかもしれません。

今回の投稿では、自分の専門外の難しい内容を自分なりに解釈し、自分の専門である分野と関連づけて思い切った議論を展開してみました。繰り返しになりますが、何かおかしいところがあればなんなりとお伝えください。

いずれにしても、斎藤環氏の本はとても読みやすく、面白い(考えさせられる)ものばかりです。ぜひお手にとってみてください!


参考文献

斎藤環 (2020). 『「自傷的自己愛」の精神分析』角川新書.

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