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小説『救ってください、龍宮さん』第一話 プロローグ

 熱い光が肌を無遠慮に撫でまわす。その大本は天上に御座おわす日輪だ。
 せかえるような海水の臭いで歪めた顔を祖母に向け、
(これから、どこに行くの?)
 尋ねたわたしを見た祖母は袖で目元を拭い、仮面の笑顔で答えをくれた。
『海の底に、綺麗な宮殿があるのよ。そこが今から向かう場所』
 水は多くの面を使い分ける。世に溢れる人間みたいに。
 去りしあの日に望んだ海とは異なる、青黒い化物が手薬煉引いて待ち構えている。
(最期に……………『あの人』に会いたかった、な)
 わたしの呟きは潮騒と微かな怒号に消えていった。
 温度が消えていく。息が詰まる。全身を完膚無きまで燃やし尽くす海流の業火に苛まれ――――――
(■■■、■■…………■、■■………■■■■■、■………………)
『■■、■■■!■■■!!!』
 懐かしい『あの人』の呼びかけに応じる事能わず。
 わたしは仮初めの生に終止符を打ちました。

 溶けた氷が音を立てて、グラス内で小さな崩落を起こす。少女は残っていたサイダーと水の混ざり合った液体を一気に飲み干し、席を立った。
 そろそろ【師】の元に向かわなければ、いくら特待生の彼女でも長ったらしい説教を受ける事になるだろう。少女はこの世で一番、説教と説教を高慢に並べ立てる大人が嫌いだった。
 少女が生を受ける遥か昔に廃校になった学園の廊下は歩く度に悲鳴じみた軋みを上げる。それは外から聞こえる蝉の大合唱と調和して、少女の耳に絶えず纏わりついてきていた。額から垂れる汗をシルクのハンカチで拭きながら、階段を淡々と降りる。
 一階の階段横にある引き戸を開け、そこから地下室に通じる梯子を下りていく。明かりは無く、同年代の人間達なら、むざむざこんな所に出入りしようと思わないだろう。大人ですらが余裕を取り繕いつつも、心の奥底で恐怖を感じる。
 だが、少女の心はこれから行なう自身の大偉業の成功、そしてその先に待つ他の魔術師達の喝采の妄想に満ち溢れていた。想定される種々の失敗を考え、一抹の不安をも抱かないのは、彼女がそれだけ優秀な魔術師である証拠だった。
 金属製の梯子を少女が下りきる頃には外界の熱気はどこへやら。鍾乳洞にも劣らない冷感が広大な実験室一帯に満ちていた。
「相変わらずマイペースだねえ、君は」
 少女を出迎えてくれた巨大なポットスチルの陰から現れた黒いドレス姿の女性は少女の師だった。
 齢は優に百を超えるというのに彼女と同じほど若く、顔全体にかけられたヴェールを通しても尚、判別出来る美貌を備えている。
「良いじゃないですか、師」
「良くないよ。私は君の大偉業を見たくてうずうずしているんだ」
 引退して久しい先代のポットスチルを撫でまわしながら、夜陰を纏う師は不敵に笑った。
 酒類の蒸留に使用されるポットスチルは錬金術の蒸留釜がそのルーツになっており、少女の師を初めとした古き時代の魔術師達は今も魔術の道具として度々ポットスチルを用いている。かの万学の祖に倣っているのか、はたまた、ただ自家製の蒸留酒を勝手に作りたいだけなのかは不明だが(本当にやっていたら立派な法律違反だ)。
 額にまだ汗を滲ませる少女とは対照的に師は涼しい顔をしていた。
 しかし、その頬は微かに赤く染まっている。穏やかな面の皮の下は、蒸留釜を熱する石炭のように燃え滾っているのだろう。
「それに【この子】もお前の事を待ち兼ねていたんだよ」
 赤い蒸留釜の胴体から手を離した師は床面を滑るように歩き、部屋の中央に安置された水槽の中に浮かぶ物体を指差した。少女の皮膚を元に作られた人工受精卵から一年半ほど培養し、成長させた赤ん坊だ。緑の小さな海を丸まったままふわふわと泳ぎ続けていた少女のクローンは八月の熱気も、二人の会話も意に介さず、すやすやと眠り続けていた。
「将来は大物になるな」
 そんな他愛もない言葉を呟き、少女は培養液の温度や排出を管理するコンソールを流れるように操作していく。先刻口にしていたサイダーとほとんど同じ色合いの水が水槽内から消えていき、開いた水槽の壁から残った赤ん坊をすかさず、回収した。白布で包み、水気を取りつつ、急いで部屋の向こうに成形された魔法陣に走る。
 滑らかな玄武岩製の床材に描かれた円二つがその【召喚陣】だ。円周の内部には魔術に用いられる日本の神代文字や魔術的紋様が所狭しと刻み込まれている。
 柔らかな布に包まれた赤子を、傷一つ付けぬようにそっと小円の中に置く。一メートルほど間隔を開けて描かれた、赤子の円よりも二回り大きい丸に足を踏み入れた少女は師にアイコンタクトを送った。師はただ、首をこくりと縦に振っただけだった。
 一度、深呼吸。後ろで見守っている師も、棚から覗く気味悪い土人形達も、意識から綺麗さっぱり抹消した。
 長い睫毛まつげに彩られた黒眼を静かに閉じた少女は脳味噌に刻まれた魔術の誦句をそらんじ始めた。
「――――――――――」
 アルト調の美声が紡ぐ誦句が仄暗い実験室に響き渡る。少女の身体は五色の光を帯び始め、彼女を起点とした風が吹き始めた。徐々に強度と速度を増していく風は冷たい室温をあっという間に呑み込み、灼熱の世界を形成した。熱波に浮かされたように棚の硝子が吹き飛び、書物が舞い踊る中、少女と赤子、そして少女の師である漆黒だけが何食わぬ顔で佇んでいた。少女は自身と赤ん坊を包むドーム状に、師は彼女自身のボディラインに沿って透明な魔力の防御壁、【結界】を展開している為、物同士の乱闘など全く意に介さず、儀式に集中する事が出来ていた。
 手狭な地下室に嵐が発生してからおよそ五分。誦句は最後の数節にまで差し掛かった。
「―――――麗しきつるぎを噛み千切り、千の霧と成し、世に吹き放つ。未知なる未来さきを指し示す、山紫水明さんしすいめい柳緑花紅りゅうりょくかこう鳥語花香ちょうごかこうの大いなる貴女様の御降臨を■■■宿禰が十八世子孫、■■■■■■が此処に希う!!!!!!」
 詠唱が終了した瞬間、少女の目付きが変じた。挑戦的な野心に満ちていた若き瞳はどこか甘美に酔った妖しい光を帯びていた。濡羽色のロングヘアは毛先まで、美しい榛摺はりずり色に塗替えられていた。少女の呼んだ神霊が無事、彼女に降りてきた証拠だ。
 儀式の圧に耐えかねたのか、草臥くたびれた地下室の天井に一斉にひびが入り、大小様々な瓦礫の雨が室内を埋めた。儀式前に陽光を届けていた青空は少女の神仏畏れぬ所業にへそを曲げたのか、灰色一色に染まっていた。
 さて、此処から最終工程だ。
 誦句と共に天高く掲げていた右腕を少女は眠る赤子へと向けた。彼女が纏っていた光の衣が赤ん坊を取り囲み、その眩さを一層強くさせていく。
 目を見開き、火が点いたように泣き出す赤子。大人の半分も無い、小さな手をぎりぎりと握りしめ、大粒の涙を絶えず流す様は誰が見ても心を痛める光景だった。
 だが、色の消えた双眸で赤ん坊を見つめる二人のメイガスは赤ん坊の啼泣ていきゅうなど、お構い無しだった。
 人の情を交え、集中力を欠いた時、この儀は無に帰す。刹那の油断も許されぬほどに複雑な【魔術的外科手術】を赤子の魂に施していた。
 魂魄、解剖。記録野、解体。記録野素地、削除。神霊素地、装填。神霊魔力、封印。記録野、修復。魂魄、縫合。
 人間の魂に干渉するのは至難の業だ。手順の字面だけでも仰々しいこの【神霊移植魔術式】はまず、非魔術師は当然理解出来ないし、例え、理解可能な魔術師でも大抵は魂魄の確実な捕捉までが関の山。それだけで膨大な魔力を要するからだ。少女が如何に規格外の存在であるかがここからも伺い知れる。
「……………りょう
 それだけ発した少女は円の中に倒れ込んだ。全身は汗にまみれており、目からは涙も流れていた。しかし、それは乾いた透明色で、人間の温かみなどは欠片も無かった。
「ああ、何という……………たかが齢十数の小娘がこんな儀式を完遂させてしまうとは……………誰に、これが予想出来た。ははっ、アッハッハッハッハ!」
 悲喜交々の表情で顔貌を点滅させながら少女の師もまた、脱力して膝を地に付けた。黒いドレスを瓦礫の欠片が切り裂いた事にも気付かず、師はただ哄笑し続けるだけだった。

 春にしては温度の低い夜風が制服の布地を貫通してくる。塾からの帰り道を足早に進む遊佐ゆさ実咲みさきは電信柱の上に取り付けられたいかつい防犯カメラと目が合うなり、気不味そうに脇道へと駆け込んだ。
 実咲が今、地面を踏んでいるここ、貞能町さだよしちょうは宮城県仙台市に隣接する実験都市地域で、その名前は平安の世に東北地方へ逃れてきた平家方の武士、平貞能たいらのさだよしに由来している。宮城の人々に馴染みのある西方寺、通称定義山じょうぎさんも彼が滅亡した平家一門や安徳帝の冥福を祈って建立したと言われている。
 三つに分かれている貞能町の地区の中でも第三地区は実咲の通う国立揚羽あげは学園高等学校を核に学生や教職員などの住まう学園都市地域となっている。そのせいもあってか、他地区より三倍近く防犯カメラが設置されている。表上は生徒が犯罪に巻き込まれないように、また生徒自身が犯罪に手を染めないようにという説明がなされているが果たして本当にそうなのか、実咲は疑問を持っている。
「…………監視されてるみたいで嫌になる」
 実咲の実家は貞能町開発プロジェクトに金を出している隣県、山形の旧家だ。プロジェクトを主導している大企業、佐野コーポレーションには顔も知らない親戚もいるらしい。だから、実家の屋敷にいようが、貞能町にいようが、監獄である事に変わりはないのだ。
「……………はあっ」
 幾度目とも知れぬ溜め息が漏れる。雪の降る季節はとうに過ぎているにも関わらず、実咲の吐いた息は暗いキャンバスに白の軌跡を残した。
 監視カメラに彩られた大通りが実咲の目に映る。両親を筆頭とした周囲の人間に敷かれた自身の人生のようで、吐き気が喉元に渦巻く。
 軽く、深呼吸。淀んだ感覚が脳内から消えていき、気分を切り替えた実咲は再び、眩しい街灯の下に足を踏み入れようとして。
 うっ、と漏らした呻き声を慌てて口で押さえた実咲は一度背けた顔を再び、車道を挟んだ歩道に向けた。見間違いでは無い。真新しい白塗りの街灯にもたれかかるように黒いごみ袋のようなものが置いてある。
 ストレスで気が触れた可能性も考慮して、眼をこすり、きゅっと目を細めるも黒い何かは消えてくれない。ごみ捨て場でもない所にごみを放っていく輩のモラルの低さには腹立たしさを覚える。幸い、ごみ捨て場がすぐ近くにあった筈だ。後でしっかりと手を洗えば問題無いだろうと近づいていった自分が盛大な勘違いをしていた事に気付いたのは車道に爪先が入った時だった。
 大きなごみ袋だと思っていた【ソレ】は街灯の下にうずくまる人間らしきものだった。
「…………!大丈夫ですか!」
 近所迷惑になるかもしれない、という雑念を振り払い、実咲はその誰かに近づいた。身体の大きさ的に小学生か、中学生か。この地区には高校しか無い為、恐らくは教職員など学校関係者の子女だと思われる。
「揚羽学園三年、生徒会長の遊佐実咲です。私の声、聞こえてますか!」
 車道に飛び出し、息急き切って走る実咲はその黒い人影の輪郭がはっきりと見えるあたりの所でまたも、息を詰まらせてしまった。
 四つん這いで急病人の如くうずくまっていたソレが先ほどまでの行動が演技であったかのように立ち上がっていたからだ。
「こんばんは、遊佐実咲さん」
 影はそう言った―――のかもしれない。脳に直接、音波が響いたような感覚と同時に頭をその台詞が走るという不気味な体験に背筋が一気に寒くなる。
 可及的速やかに警察に通報しようとスマートフォンを開いた実咲の全身が凍り付く。画面の上部に表示される筈のアンテナアイコンが、圏外の表示に置き換わっていたからだ。
「えっ」
 黒い影は既に実咲のすぐ目と鼻の先まで迫っていた。人の顔がある筈の所は真っ黒に塗り潰され、表情どころか顔立ちすらも視認出来なかった。知識上でしかブラックホールを知らないが、ひょっとしたらこんな具合の畏怖と圧力を持っているのかもしれない。
「貴女は解放されたがっている」
「何を、言って」
 緊張でかすれた声を絞り出そうとした実咲の耳を、ずぶりという音が撫でていった。足を泥沼にさらわれたような、不気味な音と共に、胸部に違和感が生じた。
 少しずつ、長い時間をかけて目線を下に向ける。胸の真ん中には黒紫色の矢尻じみた木片が突き刺さっていた。
 直視したくない現実を実咲の脳は即座に認識してしまった。じんわりとワイシャツに実咲の血が滲み出していく。自分は何かで刺された。そう自覚した瞬間に全身の力が抜けた実咲は膝から崩れ落ちて、うつ伏せに倒れてしまった。アスファルトの細かな破片が膝に刺さり、真っ白い実咲の頬は煤を塗ったように黒色に上書きされてしまう。
「ま、待って…………助け、て…………!」
 影は最後に振り返り、どこかで見たような笑みを残して消え失せてしまった。
 胸に刺さった異物の引き抜きを試みるも、紫の矢尻は既に半分以上も実咲の中へと入ってしまっていた。
「き、きもっ、でてけ、この………!」
 矢尻が見えなくなった途端、じたばたと足掻く実咲の体温が急激に上昇していく。
 異物の不快感と己の身に起きた理不尽さを嘆き、恨む実咲の思考は胸を発生源とする得も言われぬ高熱と快楽に徐々に侵されていった。
(あ、ああ、あつい、あつい、きもちいい、あつい………!)
 いつの間にか猛禽の如く鋭くなっていた爪で暑苦しい制服をずたずたに引き裂く。生まれたままの姿になった実咲は恥も外聞も無く、解放の雄叫びを上げた。
(嗚呼、楽園に還ったみたいで、きもち、いい…………!)
 実咲、否、かつて実咲だった【獣】は胴体に黒い霧を纏いながら、四本の足で空に舞い上がった。
 月光に咆哮する獣を見る者は誰もいなかった。

続く第一話①はこちらから


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