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小説『救ってください、龍宮さん』第一話 ③

 小さなタイマーの音が十五メートル四方の部屋に響き渡る。朝日もまだ産声を上げていない午前四時から戸松とまつ麗易れいは日課であるトレーニングを開始していた。一般人の触れ得ぬ魔術を用いて戦う魔術師といえども、こういった基礎的な身体作りは欠かせないのだ。
 最後のセットに差し掛かった麗易は腕立て伏せの姿勢から親指と人差し指だけで倒立し、中空に飛んで軽やかに着地した。
「………妙な夢を見たな」
 麻の手拭いで滴る汗を拭きながら、昨日見た夢を考察してみる。別に夢占いを趣味としている訳では無いのだが、魚の小骨のように引っ掛かっている【アレ】は気にせざるを得なかった。
 誰かを抱え、海の泡沫と化していく。一つ、確かな事はそれが麗易自身の記憶では無いという事だ。人を抱え入水していたら、麗易は今頃この世にはいない。
「悲しい、か。思えばそんな感情に曝されたのも久しぶりだな」
 昨日の夢は既に現実の砂嵐にかき消され、輪郭をほとんど失っていた。置き土産として残されたのは強烈な「悲哀」という感情。戸松家から不要と断ぜられ、出生前に切除された筈の強い情動が自分の奥底にまだ眠っているのだろうか。
「汗を流すか」
 要らぬ考察を止め、麗易は浴室に向かった。

 麗易が生を受けた戸松一族はかつて、そこまで目立つ一族では無かった。それがある事件がきっかけで名高い家となった。悪い意味で、だが。
 戸松家は代々、子供が胎内にいる時から人の持ち得る情動を徹底的に削ぎ落す術を施し、冷酷な魔術師、【鹿驚かかし】に仕立ててきた。出生後も情動が残っている場合は、訓練中の理不尽な暴力で徹底的に情動を排除する事で神色自若しんしょくじじゃくな機械へと陶冶とうやしていく。
 麗易も例外に当てはまる事無く、綺麗に情動を削ぎ落されて、誕生した。
 五歳の誕生日を過ぎた時に痛覚を麻痺させる魔術をかけられ、武器を用いた本格的な訓練に投げ込まれた。初めこそ姉である一花いちかと組まされていたが、次第に大人との戦闘に移行していった。骨が折れたり、刺されたり、斬られたりして出血したのも一度や二度では無い。情動が欠如していたからこそ、今まで心身共にほとんど影響を受けてこなかった。普通の子供なら、確実に精神崩壊を起こし、死んでいるだろう。
 壊れた日本人形を胡粉ごふんや石膏で修復するように幾度も治療を受け、受けては訓練でまた壊される。麗易の全身に居座る裂傷、擦過傷の治療痕は全て戸松家の異常性を証左するものだ。
 そんな自覚無き地獄にいた麗易が現在、人権の保障された生活を送れているのは古高部隊のお陰だ。匿名の通報を受けた彼等は戸松一派の隠れ住む山を強襲した。周防豪気に抱えられたぼろ屑同然の麗易はこの時初めて、日の目を見る事が出来たのだった。
 救出された麗易はその後、魔術治療によって痛覚を取り戻し、愛や悲しみといった普遍的な概念をある程度、理解出来るくらいには情動が回復した。
 だが、先天的に削がれた情動全てを完全に一般人レベルに戻す事は出来なかった。一般社会において重要とされる共感や自己表現を苦手とする麗易は預けられた施設の中でも浮いた存在となり、ついには隅にある部屋に隔離されるまでになった。
 そこをあの少女と彼女の一族が口利きをした事で、彼等直轄の施設で息の出来る生活をようやく麗易は手に入れた。神の悪戯か、そこは親のいなかった豪気と小清水翔也が世話になったという場所だった。
『感情に乏しいとか…………嘘でしょ。優しいじゃん』
 熱を持った水流を浴びる麗易の脳内で、昨日の仁美の台詞が突然、再生された。
 あの時、言い返せなかったのは決して戸松家関連の話を伏せようとした事だけが要因では無かった。彼女の温かな言葉を浴びた途端、麗易の思考回路は一瞬焼き切れ、理屈の組み立てが不可能になってしまったのだ。
「どこかおかしくなったのか………よく分からんな」
 セラミックのレバーを摘まみ、シャワーを止める。純白のタオルで濡れた髪を拭きながら、自身の不調をしばしおもんぱかる麗易だった。

 揚羽学園に通う生徒達の朝は早い。特に部活動の朝練習を行なう生徒は七時前には登校し、トレーニングや走り込みなどを始めている。
 だが、そんな第三地区お馴染みの風景は今日、五月二十日には全く見られなかった。学校側から全部活の朝練習の中止と午前九時までに体育館に直接登校するように、という内容が一斉メールで通達されたからだ。
 集会が始まるまで後五分、という所で龍宮たつみや仁美ひとみは体育館に到着した。重い鉄の扉はまだ開いたままだったので、入場と共に生徒達の視線に串刺しにされる事は無かった。ちなみに戸松麗易とはアジトを出た時から別行動なので、彼がここにいるかどうか、仁美は知らない。
 生徒達から発せられる熱によって外気よりやや高い室温になった体育館内を見回す。背の低いボブカットとカラメル色のポニーテールを発見した仁美は人混みをかき分け、いつもの面子めんつである扇谷おうぎや沙智さち北條ほうじょう三和みわと合流した。
「よー、仁美。おはよう」
「おはよう、ひとみん」
 二人に挨拶を返し、ステージの方を向く。その頃にはもう、到着時に上がっていた息も正常な状態に戻った。教師陣が右往左往しているあたり、まだ集会は始まらないようだ。
「そう言えば、ひとみん。何でこんなぎりで着いたの?」
 日常会話の口火として飛んできた三和の鋭い質問に仁美の心臓は跳ね上がった。三和にとっては何気ない一言だったが、説明のしようが無い事件に巻き込まれていた事実をどうぼかすか考えつつ、会話の返事をなるべく早く弾き出さねばならないという想いに囚われていた仁美は思わず、舌をもつれさせそうになった。
「んーと、その…………目覚まし止めた後、二度寝しちゃって」
「それは災難だったな、仁美」
 本当の所、麗易達の拠点はそこまで極端に揚羽学園から離れている訳では無い。しかし、朱膳寺しゅぜんじ小春こはるの診察が仁美の予想よりも時間がかかった為に出立の時間が遅れてしまったのだった。
「ところでさ、ひとみん。さっちゃんとも話してたんだけど、今日の集会って何言われると思う?」
 再び、心臓の拍動が早くなる。
「さ、さあ。何だろうね」
 歯切れ悪く誤魔化し、時間を確認するという理由をでっち上げてスマートフォンの画面を見つめる。今から生徒達に伝えられるであろうあまりにも残酷な訃報を仁美は既に知っている。皆の憧れだった生徒会長、遊佐実咲の死だ。
 耳を澄ますと、そこらでたむろしている多くのグループの話題は集会の議題一色だった。中には来月の中間考査が中止になるのでは、という実に呑気な会話を繰り広げる一団もいた。
 この学園のシンボルとも言える実咲の悲報を受けて彼らがどんな反応をするのかは知らないが、場内がマイナスの雰囲気に包まれるのだけは容易に想像がつく。仲良しの二人には申し訳無いが、今日は一秒でも早く家に帰りたかった。
 ステージの右斜め上にかけてあった時計がちょうど、午前九時を指した。
 一番右端の教員席から仁美達の担任、友利ともり綾子あやこが音も無く立ち上がった。いつもより、やや頬がこけているように見えた。
「生徒の皆さん、静粛にして下さい。これより、緊急の学園集会を始めます。―――では学園長、宜しくお願いします」
 綾子はそう言い、元の席に戻った。声がくぐもったように聞こえたのは、仁美だけでは無いだろう。
 綾子が腰を下ろしたのを確認し、学園長のさかいが講演台の前に起立した。普段から小さい彼の背が悲壮感に包まれる事で、より一層、縮こまっているようだった。
「皆さん、おはようございます。今日は朝から皆さんに非常に大切なお話をしなければなりません。辛い、悲しい出来事が昨夜未明にあったのです。学園の誇り、生徒会長の遊佐、実咲さんが……………遺体で、発見されました」
 堺の放った強烈な訃報は生徒達を縦横無尽に切りつけていった。誰かが啜り泣いたのを皮切りに、生徒の泣く声が体育館全体に響く。感情を露わにしていたのは実咲と関わりの多い、女子生徒の方が比率としては高かった。
 前もって知っていたが、それでもやはり堪える。
「実咲、さん………………………あ、あ」
 隣で顔を伏せていた三和が身体を震わせた次の瞬間、撃たれたように言葉を詰まらせ、そのまま仁美の方に倒れてきた。
「えっ、あ、ちょ、ちょっと、三和!ねえっ、三和!!!大丈夫!?」
 ぐったりとした三和から返事は当然返ってこない。哀しみに呑まれた三和を沙智と二人で支えながら教師陣のいる方向に向かって担架が必要だと必死に叫ぶ。
 そのすぐ近くでは、三和の気絶をきっかけに別の女子生徒が喉を詰まらせ、苦しそうに悶え始めた。所謂、過呼吸症候群だ。それは津波のように連鎖し、次々と同一症状を呈す生徒が現れた。それを見て俄かに騒ぎ立てる生徒と、注意をする生徒との間で諍いまで発生し、果てには実咲の死に一切、関係の無い喧嘩まで多発していた。
 このようなパニックが発生している時は周りの出来事と自分を切断しろ。強き母、紗里奈の言葉を脳内で再生しながら、ゆっくりと呼吸をし、自分は自分という芯を保つ。
「仁美!担架が来たよ」
 沙智からの報せで顔を上げる。三和の身体を後から来た教諭二人を合わせた四人で持ち上げ、担架に乗せた。
 怒号や悲鳴の飛び交うサバンナを抜けると同時、皐月の風が仁美の肺腑一杯に流れ込んできた。体育館の空気が自身の想像以上に白熱していた事を仁美は如実に感じた。保健室の中まで三和に付き添いたかったが、沙智と綾子に止められた為、無理を通さなかった。
 暴動一歩手前のまま、終わりを告げた緊急集会は仁美の心の中に哀しみよりも強い不快感を残していった。

 生徒の精神状態を鑑みた学園は一週間後の二十七日まで一斉休校する事を決定した。体育館で暴れた生徒二十数名はいかつい見た目の生徒指導部長から大目玉を喰らったそうだが、仁美にとってはどうでも良かった。
 綾子も強いショックの為か、口数が少なく、集会後のホームルームは五分も経たずに終わりを告げた。どの生徒よりも早く立ち上がった仁美は沙智と共にリノリウムの上を素早く走り、保健室に急いだ。幸い、誰かに見咎められる事は無かった。
「あの、すいません。誰かいませんか」
 少し廊下に反響する程度に声を張った呼びかけにも、応答がない。見た目の綺麗さに反して建て付けの悪いドアを左に引くと、保健室はもぬけの殻だった。色褪せたカーテンも全て開かれ、誰かが使ったであろうベッドも既にメイキングし直されている。
「ミス・ナーガ?何をなさっているのです?」
 癖の強い愛称で呼びかけられた仁美は入口の方に振り返った。そこには白衣姿の朱膳寺小春がいた。今朝の服装と唯一違う点はネームプレートを首から下げている所だった。
「朱膳寺さんこそ、何でこの学校に」
「保健教諭の方は昨日付けで東京の高校に異動になりました。それで、その後釜に私が収まったという訳です」
 丁寧な説明になるほど、と相槌を打つ仁美。ちなみにこの人事は当然、陰陽寮の差配によるものだったが、小春は一言も口にはしなかった。
「んー?仁美の知り合いかー?」
 沙智の無邪気な質問が横から飛んでくる。まさか、化け物に襲われた自分を治療してくれた魔術師だ、などと馬鹿正直に話す訳にはいかない。
「ええ、そうですよ。仁美さんのご両親と縁がありましてね。仁美さんとも小学校時代から知り合いなんです」
「そうなのかー」
 答えに窮した仁美に代わって小春が助け舟を出した。ジェスチャーで感謝を示した仁美に小春はウインクに応じてくれた。
「三和さんだけはここで少し寝かせた後、他の体育館で過呼吸状態に陥った生徒と同じ病院に搬送されました。全員、もう正常な状態に回復しているとの連絡がありました」
 仁美達の目的は完全に見透かされていた。ほっと一息吐いた仁美の後ろから、
「龍宮か。何してるんだ」
 感情の籠っていない、鋭利な声が背中に刺さる。良く言えばクール、悪く言えば無機質な声の主は顔を見るまでも無く、戸松麗易だと分かった。
「ちょっと!いきなり話しかけたら驚くでしょ!」
「それは済まなかった」
 むくれながら早口で返す仁美とは対照的に、麗易は至って冷淡だった。それは学園で見るいつも通りの彼そのままだった。昨日の勇敢な背中が少し恋しい、と思いその後、すぐにその思考を仁美は脳内から消し去った。
「どうした。顔が赤いぞ」
「……………ちょっと具合悪いだけ。気にしないで」
「そうか。なら良い」
 適当に誤魔化した仁美を余所に、麗易は沙智の方を向いた。
「扇谷さん。社会の教諭が貴女を呼んでいました。どうも、急ぎのようですから早く職員室に赴いた方が良いですよ」
「えっ、そうなの?ありがとね、戸松君。仁美、ちょっと面倒なセンコーのとこに行ってくる。帰りにまた寄るから校門のあたりで待ってて」
 りょーかい、という言葉が喉まで出かかったが、それを慌てて引っ込める。沙智に見えないよう、麗易が「ここに残れ」と書いた紙を見せてきたからだった。
「えっと、さ。私、さっきの今で具合悪いから、ここで少しだけ寝てくからそのまま帰って大丈夫だよ」
 仁美と小春を数秒ずつ、順繰りに見た沙智はこくり、と頷いた。
「オッケー。それじゃ、後で連絡するから。またね」
 ひらひらと小さな手を振り、沙智は素早く消えていった。
「これで良かった?」
「ああ、問題無い。朱膳寺さん、盗聴防止の結界を」
「もう敷いていますよ」
 小春の返事に麗易は軽い感謝を述べ、ソファに腰を下ろした。仁美も、それに続く。
「残れって、何。大事な話?」
「昨日、お前がスケイルに襲われた時の状況を詳しく聴取したくてな」
 麗易の意志かは不明だったが、昨日の夜(正確に言えば今日の午前零時頃)は魔術云々という信じ難い話をされた後、とにかく床に就けと言われた。警察でもあるまいし、と思ったが拒む理由も無いから黙って受け入れる事にした。
「良いけど。でも、別に特別話す事とかは無いと思う」
 仁美はそう言って、一通り怪物と化した実咲に襲われてから麗易に助けられ、意識を失うまでの話をした。
「通信の途絶。何故そんな事が」
 常人と異なる魔術師の感性のせいかは知る由も無いが、麗易は仁美自身もすっかり忘却していたスマートフォンが圏外になっていた、という下りに喰い付いた。
「し、知らないよ、そんなの」
 狼の如く鋭い麗易の視線からそっと目をそらす。先に出てきた妙な感想を思い出しての反応では無く、彼の両目に恐怖を覚えての生物的反射だった。
「朱膳寺さん。貞能町の通信網は確か佐野コーポレーションが担っているんでしたよね」
「ええ。この町の携帯電話の通信基地から防犯カメラ、果ては電気の供給まで彼らが一元的に行なっています。この貞能町開発プロジェクトを機に、佐野コーポレーションは東北の電気事業で一気に優位に立ったそうですよ」
 麗易は僅かに考える素振りを見せた後、静かに立ち上がった。
「俺はこれから隊長と佐野コーポレーションの本社を訪ねてみます。朱膳寺さんは龍宮をお願いします」
「ちょ、ちょっと待って」
 台詞を言い終わると同時に出口に向かった麗易の背中に待ったをかける。
「なんだ。まさか同行したいなどと言うつもりじゃないだろうな」
「そうだけど。何か問題ある?」
「お前は具合が悪いんだろう。なら、そこのベッドで寝ておけ」
 察しの悪い麗易は無感情に、仁美を跳ね除けた。真っ直ぐに伸びた、精悍な背中を蹴飛ばしたくなるのを抑え、仁美は食い下がった。
「嘘に決まってんでしょ。それよりも教えてよ。私が一緒に行っちゃダメな理由」
「昨日も話した筈だ。魔術世界に素人がみだりに関わるべきじゃない」
「アンタは玄人ってわけ?」
「生まれた時から魔術と共にあっただけだ。玄人などと驕るつもりは無い」
 ややぞんざいな仁美の物言いに眉一つ動かす事無く、麗易は保健室を後にした。反論の余地の無い言葉で叩き潰された不満も残ってはいるが、対面しないままの会話で済まされた事が仁美にとっては一番悔しかった。
「こっち向いて喋れっての」
「まあまあ。取り敢えず座りませんか、ミス・ナーガ」
 後ろからかかった小春の温かい声に従い、仁美はソファに戻った。彼女の声はとても柔らかく、心地良い毛布のようだった。
「まずはこれを飲んで落ち着きましょう?」
 小春は片手に持っていた透明な瓶をテーブルに置いた。ラベルにはオレンジ色の果実とポップな意匠の文字があしらわれている。
「ふるさと納税の返礼品で頂いたサイダーです。遠慮無く、飲んで下さい」
「ありがとうございます。それじゃ、いただきます」
 スクリューキャップを回し、軽快な炭酸音の発生と同時に中身の液体を口に運んだ。小気味良い刺激としつこ過ぎない甘味に包まれた後、柑橘類の香りが鼻を抜ける、至高の逸品だった。
「これ、めっちゃ美味しいですね!」
「お口にあったようで何よりです」
 五分もかからない内にサイダーを飲み干した仁美はテーブルに空き瓶を置き、手を合わして、小さく「ご馳走様でした」と言った。麗易に対する不満や朝会での悲しく、不快な出来事もサイダーが全て胃の中に落とし込んでくれた気がした。
「少しは落ち着きましたか」
 こくり、と首肯する。
「ミス・ナーガの不満も分からない訳ではありません。ですが、魔術師の私としては戸松君の意見に同意する所しかありません」
「それは、そうだとは思うんですけど。でも、やっぱり悔しいんです」
 実咲は学園の教師、生徒、そして恐らくは家族から見ても才媛と認識されていた。それが重圧になっていると知らず、皆が無責任な期待を押し付けた。その偶像化された彼女が苦しむ側面を見過ごし、見殺しにした責任の一端は自分にもあると仁美は感じていた。
 そして、その責任感は別の理由でまた一層彼女の心の中で膨らんでいた。それは過度な心労に倒れた三和に起因するものだ。仁美よりも実咲と密な付き合いのあった三和の後悔や自責の念は仁美の比では無い筈だ。
「先輩の死の真相を知っているのは私だけなんです。なら、親友に代わってその仇を討ちたいと思うのはそこまでおかしい事じゃないと思いませんか!?」
 仁美の決意はその双眸に色濃く表出していた。憎悪に満ちた負の感情ではなく、スケイルを製造し続ける黒幕に一矢報いる、という前向きな感情ではあったが、非魔術師の彼女がどれだけ背伸びをしても所詮は蛮勇だ。
「ミス・ナーガの考えは理解出来ました。説得は無駄そうですね」
 薄紅色の髪を軽く梳き、小春は肩をすくめた。反射したテーブルに映った彼女の口紅が僅かに弧を描いた気がした。
「やっぱり私、戸松を追いかけます」
 勢いをつけ、素早く立ち上がった瞬間、視界が急に大きくゆがんだ。立ち眩み、という奴だろうか。ただ、たまに体感するものより、大分酷い。二本の足で身体のバランスを維持出来なくなり、そのままソファに倒れ込んでしまった。
「ど、どうしたん、だろ」
 そう呟く舌ももつれ、上手く発音が出来ない。目に映る全てが水飴のようになり、思考も言語も、強烈な睡魔に乗っ取られていく。
 全てが陽炎になったような視界の中で、端正な形を失った小春が仁美をゆっくりと抱きかかえ、ベッドまで優しく運んだ。
「しゅ、しゅぜんじ………さん」
「疲れているんですよ、ミス・ナーガ。一先ず、ここで寝ていきなさい」
 麗易の後を追う、という仁美の意思は小春の神託じみた一言で呆気無く崩れ去った。小春の補助で床に就いた仁美は全てを放棄して、眠りの森に迷い込んでいった。

 太陽に焼き付けられた蒼穹そうきゅうを記憶から消去する。身の丈を超す槍を携えた圓浄えんじょう真菰まこもは一時間前から対峙している爬虫類型の怪物を睨んだ。
「真菰、無事か」
 部隊員を率いる副隊長、真名井まない菜緒なおおもむろに近づいてくる。
「勿論ですわ、菜緒さん」
 真菰はそういって、綺麗な琥珀色の長髪を撫でて、笑顔を見せた。戦闘の苛烈さに耐えられずに切れたヘアゴムの代わりに、純白のシュシュで髪を素早く結び直した。
 真菰属する第四部隊は今、熊本県にある原城跡で陣を敷いていた。仕留めんと試みる相手はぬめった鱗に身を包むレプティリアンを彷彿とさせる怪物、スケイルである。
「品位の欠片も無い造りですね、あれは」
 美麗な額を歪め、嫌悪感を露わにする真菰。それはおぞましきモンスターの創造主、上杉志津に向けられたものだ。
 宮城県でスケイルの反応が観測されるよりも前、例年よりも温暖な気候に包まれた二月に九州で相次いで失踪事件が起きた。真菰達が派遣される今月までにスケイルの贄になった人間は実に三十二人。部隊派遣が遅きに失した背景にはやはり、陰陽寮内の政治が絡んでいた。貞能町の例に違わず、総裁の久須美くすみ恵梨奈えりなら即断派に対して、細々とした調整にやたらと熱を入れる優柔不断の赤荻あかおぎ大三郎だいさぶろうという構図になっている。
 人間を直接食したり、或いは触手で体内に取り込む事で肉体を強靭化させるスケイルは第四部隊が駆け付けるまでにかかった六十日近い期間を人間の補給に費やしていた。それが真菰にも容易に始末出来ぬほどの神話級の怪物へスケイルを進化させていたのだった。
「感触はどうだ」
「初めて斃した個体より大分固いと思います」
「次で仕留められるか」
「ええ。皆さんは触手の対処をお願いします」
 真菰は菜緒にそう言い、術具【クルマド】を持って立ち上がった。
 この【クルマド】は真菰の身長をやや超える大きさの和槍で、圓浄家の魔術分野を真菰が継いだ証である。ちなみに、圓浄家は表の世界で大企業の経営を行なう一族なのだが、そちらは真菰の父親や歳の離れた兄姉、親戚などが司っている。
「総員。スケイルの気を引き、触手が真菰の妨害をしないように努めろ」
 インカムで指示を受けた他の第四部隊員が一斉にスケイルの前に姿を現す。獲物を察知した怪物は悲哀と興奮に満ちた雄叫びを上げ、かつて肩だったと思われる位置から八本もの触手を出現させた。
 隊員達の目まぐるしい活躍によって一本、二本とグロテスクな触手は次々と切断されていく。時間差で次々と生えてくる為、もたついている暇は一瞬たりとて無い。
「麗易様、力を御貸し下さい」
 恋慕を抱く少年の名を呟いた瞬間、真菰は凄まじい魔力の奔流と風を伴なって全速力で駆け出した。
 ターゲットとの距離は約十五メートル。五階建てのマンションに相当する距離を三歩で詰め、間合いに入った所で蝶のように飛躍した。
 血に塗れた胸の奥に埋め込まれた、スケイルの心臓をなす緑毒鱗。それさえ破壊すればこの怪物は機能を停止させ、死亡する。核や餌にされた人々も成仏出来る。
「もう苦しむ必要はありませんわ!」
 色鮮やかな魔力の軌道を描きながら、一直線にスケイルへと落ちていく様は飛来した隕石を場にいる全員に想起させた。
「ガアアアアァァァァァ!!!!!!!!」
 最期の抵抗か、全ての腕を削ぎ落された肩の付け根から太い触手が三本、真菰を食さんと迫ってきた。しかし、それらは菜緒達がクロスボウを用いて撃った破魔矢で粉塵に帰した。
 魔槍の一突きは鱗の装甲をあっさりと貫き、悪しき緑毒鱗を破壊した確かな手応えを真菰に伝えた。水揚げされた魚のように藻掻き苦しんでいたスケイルだったが、真菰が槍を引き抜き、少し離れた所に着地した時には既に息絶えていた。
「スケイル討伐、完了ですわ」
 戦闘の終了を宣言し、【クルマド】の血を払った真菰を隊員達は拍手と歓声でもって出迎えた。
「皆さん、はしゃぎすぎですよ」
「そんな事は無い。お前がいなければ、スケイルを仕留められなかった。隊長もきっと喜んで下さる」
 菜緒の褒め殺しに恥ずかしくなった真菰は思わず頬を赤らめてしまった。それをどう解釈したのか、他のメンバー全員がきゃあきゃあと歓声を上げた。先ほどの称賛とは明らかに色が違うのは何となく、真菰にも感じられた。尚、第四部隊に小清水翔也以外の男性隊員がいないのはどこの馬の骨とも知れぬ男が真菰に近づかないようにして欲しい、という圓浄家の要望を翔也が受け入れたというだけの話だ。
「御歓談中、失礼します」
 しわがれた、しかしよく通る老人の声が第四部隊の花園を壊した。今まで湧いていた隊員達は老人を見るや、直ちに押し黙ってしまった。
「…………生田いくたさん。何か、御用がありまして?」
 真菰に不快感たっぷりの口調で呼ばれてもその老人、生田は顔色一つ変えなかった。彼は圓浄家に仕える執事であり、魔術師だ。
「御当主様の命です。本社にお連れするように、と」
「今ですか?スケイル討伐の報告は後ですれば良いではありませんの」
「なりません。御当主様は直ちにお連れしろ、と私に命じましたので」
 ぎり、と奥歯を噛む。本社、つまり圓浄ホールディングスに出向き、討伐の委細を伝えろ、というのは建前だ。真菰が麗易と一緒にいる時間をなるべく減らしたいという邪悪な意図が透けて見える。真菰にとっては魅力的な男性でも、名門圓浄家からすれば麗易はまさしく出自の血腥ちなまぐさい馬の骨だ。人間として同情し、慈悲を与える事はあっても、真菰の許婚としては到底、受容出来ないのだ。
「…………私達は先に仙台市に向かう。拠点で待ってるからな」
 二人の重い会話を聞かずとも、真菰の深刻そうな表情を見て全てを察した菜緒は他隊員らを引き連れ、出口の方に向かってしまった。生田の要求を無視し、菜緒に同行したい気持ちをぐっと抑え、その背中を見送る。
「では、御嬢様。こちらにヘリコプターを用意して御座います」
 老爺の憎々しい背中に真菰はついていく。ヘリコプターは城跡に似つかわしくない派手過ぎる赤で塗られており、勿論、圓浄家の所有物である。二人が乗り込むや否や、騒々しいローター音を立てて空へと羽ばたきだした。
「生田さん。十二時半頃に兵庫を出ます。御当主様への報告が終わり次第、直ちに貞能町に向かいますから、そのつもりで」
 生田が額の皺を一層増やし、難しい顔をした。
「圓浄家が経営する複合商業施設の開業記念式典が十二時半より執り行われます。御嬢様にはそこにご出席していただきます」
 突然のスケジュール変更に真菰は苛立ち、思わず声を荒げた。
「そんな話、私は聞いておりませんわ!」
「私に申されても困ります。これは御当主様の決定なのですから」
「私は一刻も早く、麗易様の元に参じたいのです!」
 迫真の訴えも頭の固い老人には届かなかった。やれやれと呟き、僅かに怒りと圧を込めた口調で真菰を諭し始めた。
「前から諫言しておりますが、戸松の鹿驚(かかし)との婚姻は認められませぬ。御相手は陰陽寮名門の御令息から選定中です故、過度な接触はお止め下さいませ」
 麗易をがらくたの如く形容する生田の言葉に思わずカッとなった真菰は遂に耐え切れなくなり、その喉に小型のナイフを突きつけた。
「言葉を控えなさい、生田。貴方は使用人で、私は圓浄家の子女。私の報告次第で貴方の命をどうとでも出来るのを忘れていて?」
「…………申し訳御座いません。御申しつけの通り、出立準備を整えておきます」
 急に焦りを見せた生田は背を九十度曲げ、謝罪を表明した。極めて無感情を装いながら、そうしなさい、とだけ告げた真菰はナイフを二つに折り畳み、腰のポシェットに仕舞った。
 溜飲を下げた真菰は揺れる機窓から外界へと視線を投じた。
 七年前。古高部隊の作戦によって戸松一族の実態が明るみになり(無論、魔術世界においてのみ)、その際に戸松家が創造した鹿驚と呼ばれる情動喪失状態の子供達が数人、保護された。
 紆余曲折を経て圓浄家管轄の施設に引き取られた麗易はとても感情が乏しかった。自分が前の施設で隔離され、ネグレクトされていたという事実すら、冷めた目で見ているような子供だった。
 だが、その瞳の奥に眠る微かな温かさをあの日、真菰は見た。未だ眠れるその温かさを掘り起す手伝いをしたい、そしてゆくゆくはその温もりを全て自分に注いでほしいという想いは今も彼女の心にくっきりと焼き付いている。
「麗易様の受けてきた仕打ちに比べればこれくらい、何てことありませんわ」
 陰陽寮幹部と大企業の経営陣一族を兼ねる圓浄家の身分を呪いつつも、圓浄家の娘という肩書があったからこそ、麗易とも出会えたとポジティブに考え直す事にした。
 灰色の空に差し始めた天使の階段をただぼうっと真菰は見つめ続ける。

 澄んだ青空を映す透明な湖沼はまさに自然の生み出した鏡だ。
 二つの太陽を眺める女性は煙草を携帯灰皿にねじ込むと、アウトドアチェアからゆったりと腰を上げた。
「過去の業を清算する時が来たか」
 耳にかかる毛先を優しく撫でた女性はチェアの足を掴むと空高く放り投げた。中空で刀に可変したそれをキャッチすると同時、怪しい出で立ちの男十人が女性を包囲した。
「十七年も隠れてたら流石に舐められる、か」
 一度両目を閉じ、五秒後に開いた彼女の眼には百獣の王にも見紛うほどの殺気が漲っていた。
「それじゃ、【師】の手下ども。かるーくお相手してくれよ」
 一陣の風が流れた瞬間――――怪物が動いた。

 参差しんしと立ち並ぶ数多のビル群を見下ろすようにその建物は鎮座していた。黒い太陽に「S」のイニシャルが入った社章をぶら下げている佐野コーポレーションの東北本社である。
『…………と、言う訳で少し落ち着かせる為に眠らせました』
「ありがとうございます、朱膳寺さん」
 手のかかる奴だ、という感想は胸の中に仕舞ったまま、麗易は手短に通話を終わらせた。
「仁美ちゃん、大丈夫なのか」
「朱膳寺さんは医者ですから」
「説明になってねえよ。…………しかし、でけえ建物だなあ、本当」
 隣の豪気が顎に手をやり、感嘆の声を漏らした。地上二十三階建ての高層ビルは絶えず人が出入りしていた。時々怪訝な目を向けてくる者もいたが、気にはならなかった。
「通信障害、か。俺達のインカムは佐野のシステム通してねえから分かんなかったな」
「ええ。多分、佐野のシステムに何かしらの問題があったか、或いは佐野のシステムをいじった何者かがいたのでしょう」
 加えて、確定付ける材料がまだ無いので口にはしなかったが、佐野コーポレーションが上杉志津とその麾下きかに乗っ取られている可能性もある。
「だったら、もうちっとこう、焦りみたいなのが社員に見られても良いと思うんだがな」
「俺もそう思います。揚羽学園の生徒達も全く話題にしていませんでしたし」
 佐野コーポレーションが貞能町に設置している基地局などの設備に何か問題があったのであれば、仁美だけでなく、あの一帯で携帯電話やパソコンなどを使用していた人にも影響が出る。第三地区の人口の大半を占める学生はスマートフォンを夜遅くまで用いて、コンテンツ消費に励んでいるのだから、大規模通信障害など、話題に上がらない方がおかしい。
「ま、その辺の話を直接聞いてみようじゃねえか」
 軽く顎を撫でた豪気はつかつかと佐野コーポレーション本社へ足を踏み入れた。
 無機的な外見とは打って変わって床は木目調になっており、三階フロアまで吹き抜けになっていた。まばらに設置されたソファでは社員達が各々ゆっくりと寛いだり、賑やかにランチに勤しんでいた。
 その横を突っ切り、社員達の憩いを微動だにせず見つめていた受付嬢に豪気は声をかけた。
「申し訳ありません。警視庁の周防という者なのですが、佐野社長にお会いする事は可能でしょうか」
 警察手帳を女性に示す豪気。無論、偽物では無く、本物の手帳だ。
 黒烏こくうには表向き、警察などの部隊として設置されているものが多く存在している。豪気の第三部隊もその一つだ。志津討伐部隊の中では唯一、御巫鶴露の第六部隊が赤荻の私設軍隊のようになっている。尚、赤荻に顎で使われている部隊は他にもあるらしい。
 受付の女性は無駄の無い動作で手元を眺め、時計の秒針が一周もしない内にアポイントメントを入れていたかどうかを尋ねてきた。
「アポは取って無いんですが、少しだけお話を伺えませんか」
「社長は会議で手が空いておりません。またの機会にお願い致します」
「そこを何とか」
「社長は会議で手が空いておりません。またの機会にお願い致します」
 豪気の頼みを無慈悲にはね除けるように、全く同じ台詞を繰り返す女性。巨躯の豪気と小柄な女性が、意思疎通を図ろうとする人間とゴリラの図に見えなくも無い。生憎と、コミュニケーションを取ろうとしているのはゴリラ側なのだが。
 無機質な返事も五回ほど繰り返された所で「またのお越しをお待ちしております」とだけ告げて以降、何も発言しなくなった。
 後ろで控えていた来客を見た二人は一先ずロビーの隅で作戦を練り直す事にした。
「しかし、無愛想にもほどがねえか。絶対クレームくるぞ」
「隊長。恐らく、あの女性はアンドロイドだと思われます」
 麗易は人間味が全く感じられない彼女に妙な既視感を覚えていた。戸松家で共に製造され、救出されるまでの間に訓練、もとい殺し合いをしていた姉の一花を初めとする兄弟達に無感情な所や温度の低い喋り方が良く似ていたからだった。
「アンドロイドって人型ロボットだっけか。いや、まあ、確かに同じ事ばっか言うから変だとは思ったけどよ。あんなに精巧なもん作れんのか、佐野は」
 豪気が驚くのも無理は無い。今現在、市場に出回る人型ロボットはサイエンス・フィクションに登場するヒューマノイド、というよりも機械に見た目が近いのが大半だ。
「しかし、どうすっかね。あそこで止められてちゃ、いつまで経っても通信障害の原因も聞けねえぞ」
 ベンチの背凭せもたれに身体を預け、吹き抜けから蔓じみたオブジェの敷かれた天井を眺める二人に声がかかった。
「あの、何かお困りですか。警察の方、でしたよね」
 麗易は手元から声のした方へ顔を向けた。紺色のジーパンにブルーのシャツを羽織った三十代くらいの女性がそこに立っていた。首から下げた名札には「人工知能開発室 第二チーフ」という肩書と北條あやめの名が記載されていた。
「え、ああ。いや、済みません。今、帰りますんで」
 頭を下げ、足早に立ち去ろうとした豪気を一度引き留め、麗易はあやめに佐野へ聞きたかった質問をぶつける事にしてみた。
「実は昨夜に起きた貞能町の通信障害についてお尋ねしたい事がありまして。もし宜しければその事について教えて頂けないでしょうか」
 麗易の直球の質問にあやめは疑問符を浮かべていた。二人に断りを入れ、どこかと連絡を取っていた彼女は十五分後、小走りで戻ってきた。
「ウチの部署や他部署の方にも確認したのですが通信障害の話は確認されていないようです。もし起きたら一大事ですし、すぐにニュースで広がりますから多分、弊社のシステムに問題は起きなかった、と思われます」
 例え彼女の管轄する部署が基地局云々と関係無いとしても内輪の人間が通信障害という事象そのものを知らないのは有り得ない筈だ。それが通信関連の部署の人間なら尚更だ。
 これで通信障害が仁美を狙った連絡手段の奪取であった事はほぼ確定した。だが、妨害が魔術によるものだとしても、佐野コーポレーションの社員全員に気取らせずにそれを行なうのは腕利きの魔術師でもほぼ不可能だ。この町の事象を操れる魔術師なら、或いは。
「分かりました。態々、ありがとうございます」
「いえ。お役に立てて何よりです。では、私はこれで失礼させていただきます」
 先ほどよりもかなり素早い足取りであやめは外に出ていった。そこで麗易はようやく、今朝の集会中に失神し、病院に搬送された北條三和の母親が彼女だと気づいた。
「取り敢えず、ここでの用事は済みました。俺達もアジトに戻りましょう」
「ああ、そうだな」
 何気なく見た腕時計がちょうど正午を示した。これから近所で昼食をとるであろう社員達に揉まれながら、外に出た麗易の前に線の細い痩せぎすが立ち塞がった。
 黒烏第六部隊の副隊長、赤荻健介だった。
「周防さん。一体何をしているんですか、貴方は」
「作戦の遂行に必要な事だ。お前に咎められる筋合いはねえ」
「似付かわしくない場所には近寄らない事をお勧めしますよ。戸松君もね」
 軽蔑を隠そうともしない健介はそう言うなり、佐野コーポレーションの中に消えていった。大三郎と体型は対照的だが、鼻持ちならない性格の悪さだけはちゃんと引き継いでいるようだった。
 そんな健介が消えた後、ふっ、と豪気は笑った。
「あいつこそ、何の用があってここに来たんだ?」
 麗易は車を停めた地下駐車場から佐野コーポレーション本社までの道のりを思い起こしていた。自動運転技術や人工知能などの開発で協力している企業が並ぶ建物群の中に赤荻家の所有する会社もあった筈だ。
「あれは………やはりそうか。隊長、赤荻は佐野の事業に絡んでいるようです」
 佐野のエントランスから歩いて五分の所に「赤荻グループ」の表札を掲げた建物を発見した。
「はっ、そういう事か。本当にどこにでも出てくんな、あいつらは」
 額に皺を寄せ、不快感を露わにする豪気。彼が赤荻に対して良い感情を抱いていない理由は貞能町派遣のごたごたしかり、第三部隊の隊員数激減しかり、様々な局面において赤荻が嫌がらせを仕掛けてきているからだ。
 第三部隊はそもそも所属人数の少ない隊ではあったが、それでも両手で数えるくらいには人員が揃っていた。それを第六部隊の全権を握る健介が巨額の金や赤荻家の持つ企業への勧誘などという誘惑をちらつかせ、隊員達を次々と引き抜いていったのだ。
 この背景には今の総裁、ひいてはその出身家である久須美家の力を削ごうと企む赤荻家の策略がある。久須美家にはかつて【怪物】とか【神の鞭】とか呼ばれた伝説的な魔術師がいたようで、その魔術師への劣等感から赤荻一族は対抗心を燃やしていると専らの噂だ。恵梨奈から信頼されているというだけで標的にされた豪気は気の毒でしかない。
「ったくよ、金持ち連中は本当に」
 赤荻ビルディングの前を通り過ぎ、地下駐車場へ戻ろうとした豪気の愚痴が止まった。同時に、麗易も自身の足を停止させた。日常の隙間に巧妙な手口で潜入しようとする異物の気配を敏感に察知したからだ。
「ちっ………囲まれてんな、麗易」
「ええ。隠す気の無い殺意ですね」
 黒い影を引き延ばし、成形したような男達が五人、東西南北から歩いてくる。北からは二人、他の方角からは一人ずつといった具合だ。おまけに、突撃前は溢れていたサラリーマン達が軒並み消え失せていた。散歩でもするような、しかし、油断という二文字を確実に消去したテンポに麗易は素人では無い、と悟った。
「人払いも済んでるって訳かい。準備が良いねえ、敵さんは」
 首を軽く左右に振り、拳をペキポキと鳴らして見せる豪気だったが、相手は一ミリも表情筋を動かさなかった。
「殺せ!」
 リーダーと思しきサングラスが命令すると同時、四人の黒服が一斉に飛び掛かってきた。
「一人で二人ずつで良いな、麗易!」
「問題無いです。この程度であれば」
 麗易からの返事に頷くや否や、豪気は素手のまま、一人目の男に卒然とワンツーを繰り出した。男が上手く躱し、安堵の表情らしきものを垣間見せた瞬間、彼の後ろに立っていたタクシー乗り場の通路シェルターがぐちゃぐちゃに崩れ去った。巨人の平手で潰されたのか、と思わせるほどの光景に男が呆気に取られる。その隙をつき、豪気は男の顎に鋭いフックをお見舞いした。首がハンドルのように回り、相手はぼろ屑となって地面に倒れた。
 拳に魔力を纏い、パンチングと共に飛ばすという豪気お得意の荒業だ。建物が壊れるから止めろ、という注意をよくされるらしいが、本人は省みるつもりなど無いようだ。
 豪気の力技一辺倒の戦闘を目の端に捉えながら、麗易は魔術で懐に仕舞い込んでいた【荊冠けいかん】を構えた。柄から刃先まで真っ黒にコーティングされたナイフが麗易の喉を抉るべく、迫ってくる。
 確かな殺意を秘めた刃が鼓膜を震わせると同時、麗易は攻勢に転じた。相手の体勢が崩れている間に喉元目掛けて、鋭利な突きをお見舞いした。男は吹っ飛んだ勢いのあまり、フロントガラスを突き破って無人のタクシーに激突してしまった。麗易の鮮やかな剣技に怯んだ別の黒服の右肩を斬撃で脱臼させ、返す刀で下顎を叩き割った。
「さて。残るはてめえだけだな、リーダーさんよ」
 刺客の顔を砕けるほどに鷲掴み、棒立ちで固まっているサングラスの足元に投擲する豪気。男の額には夏でも滅多にお目にかかれないほどの汗が滲んでいた。
「上杉志津の手下だろ。奴はどこにいる」
「そ、それは………」
 布団を力の限り叩いたような乾いた音が微かに聞こえたと同時、言い淀んでいた男が蟀谷(こめかみ)から血を噴き出してアスファルトに倒れた。脈を測るまでも無く、息絶えているのが分かった。
「ちっ、どっから撃ってきやがった!?」
「サプレッサーを着けてるのかもしれません」
 更なる狙撃に備え、護符で結界を張りながら、タクシー乗り場隣の地下駐車場まで一気に駆け抜ける。海にダイブするように入場した二人はこれ以上の追撃が無いのを確認し、一先ず、スナイパーを撒けたと確信した。
「よし、ずらかるぞ麗易」
「分かりました」
 後ろのドアを開け、急ぎワンボックスカーに乗り込もうとした麗易の視界に突然、別の光景が挿し込まれた。
 恐怖に顔を引きつらせ、助けを呼ぶ仁美。普通の人間なら、ただの妄想として処理してしまうであろう瞬きを麗易は掬い上げた。
「どうした麗易、早く乗れ!」
 豪気の声には殺人現場から一刻も早く離れたい焦りと苛立ちが含まれていた。
「………用事を思い出したので第三地区に戻ります」
「あ、おい麗易!」
 豪気の呼びかけを無視し、きびすを返した麗易はつい数分前に戦場となったタクシー乗り場に戻ってきた。
 目当ては乗り場と地下駐車場に挟まれた小さな駐輪場のバイクだった。盗難防止のチェーンロックを魔力を乗せた手刀で切断する。鈍く光る鍵穴に指を押し当て、魔術の誦句を唱えた瞬間、エンジンが激しくいなないた。
 素早くまたがり、地面を蹴った瞬間、不可視のバリアに包まれたバイクは光速で疾走し始める。
 すれ違う幾つもの車両に見咎められる事無く、第一地区の外に飛び出した麗易は先ほどの白昼夢を回想する。
(助けて、か)
 この夢が現実に顕現せぬよう祈りながら、仁美のマンションへと急ぐ。

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