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セカンドライフ考②(樽に住むディオゲネス55歳)


【哀戦士、したたかに】

仕事が人生に占める割合は、最大といってもいい。

おそらく、コアな9時間に加え、通勤時間、残業時間を加えると平日14時間位を捧げている。

睡眠6時間としても、残りの自由時間はなんと4時間!

時間と身を捧げた仕事に見合う対価とは、人それぞれの受け止め方がちがうはず。

報酬、成長、経験を積む、貯蓄投資資金、出世、生きがい、やりがい、達成感、義務、責任感、時間つぶし 等々、諸々ミックスされた対価となろう。

その対価ゆえ、人は時間を捧げ続ける。

定年が65歳に伸びる という厳然たる事実が示されたちょうど同じ頃、レースから完全に脱落した自分がいた。

周りからバカにされないよう、遅れないよう、称賛を得るべく、小学生のころから競争。
野球部のレギュラー争い、県大会の勝ち負け、期末テストだの受験だったり、他人軸の評価にどっぷり浸かって生きてきた。

就職してからは、言わずもがな。

脱落し、数年を要したが、レースや仕事自体を、冷静に眺めるようになってきた。

競争原理は、人間社会を回すための上手い仕組み、文化なのかもしれないが、こう思うようになってしまった。

65まで汗水たらしながら働いて、数年で死んでしまったらどうしよう。

60で死んでしまったらどうしよう?

子供が巣立ち、嫁さんと疎遠になってしまったら、一体オレはなにをすればいいんだよ?

いまの雇われ人としての事務仕事は、長くて65歳までしかできない仕事。

一生取り組める仕事だったり、活動だったり、趣味だったり、そんなコトを早めにみつけ、いまのうちに取り組んだほうが人生良かないか?

レースから脱落し、組織における芽はもうない。同期は出世していき、自分の肩書きと比較される日々。
恥辱にまみれ、
泥水をすすりながら、
後輩に指揮監督されるような数年を過ごさなければならないのに、ガマンしていまの組織でイキイキと働けるのか?

名より実
肩書きよりもカネ
後輩、先輩なんて旧世代の遺物
指揮監督されるのは世の常

気にしてるのは自分だけ。
働けるよ。
余裕。
何も恥ずかしくない。
65で組織からは皆オサラバさ。

カネを淡々と毎月稼ぎ、
ボーナスももらえる。
昇進しないと心が傷付くが、結果が分かったその日だけを乗り切る。
いつの日か、その人の肩書きなんて、みんな忘れてしまうもの。

働けるだけでも、充分。
見栄、世間体、比較からの逃走。
深呼吸して、屈辱、恥辱を飲み込もう。

組織の外に、居場所を、はやく見つけよう。

心からの涌出物

世間体やブランドみたいな他人軸評価から離れ、淡々とやれないか。
使役されない、一生モンの仕事や取り組める事柄をいまのうちにみつけたい。

みつけたら、晴れて組織から卒業し、新しい道をすすみたい。

65どころか、定年まで待つことなく。

そう考えたら、気分も晴れてきた。
希望もでてきたような……
曇天に、日の光が差してきたような気がした。

【思考実験①】

①樽に住む哲学者
②働かず、晴耕雨読
③退職し、週休4日の晴耕雨読
④再雇用で、週30時間労働(週休3日可能)
⑤転職しフルタイムの仕事
⑥起業

選択肢

さて、①について、早速、思考実験開始だ。
キーワードは、ミニマリスト、だ。

【ディオゲネス55歳】 

 

二千数百年も前の大昔に、面白い人がいたもんだ。
ミニマリストの祖 らしい。

55歳で哲学に目覚め、アテネで哲学者に弟子入りし、哲学史上、「犬儒学派」なる流派の創始者扱い。後世の「ストア派」にもつながる系譜とのことで、結構スゴイ人。

酒樽に住み、食べ物を分けてもらうような、犬のような生活を送っていたため、そんな名前がついた模様。

悪くいえば、まんま縄文時代人、中世の隠遁者、現代でいえば流浪の哲学者だろう。

ディオゲネスは、陽気なので街の人気者。もしかすると反骨のひと。数多く伝説を残し、今でもトルコのちょっとしたレジェンドらしい。日本でいえば、良寛さん、一休さんあたりが思い浮かぶ。

反骨。自分を持ち、自分を通し、他人の評価を重視しない………

虚飾、虚栄心、見栄、世間体など、を剥いでいく。

衣服、靴、食事、住居、寝具、ここまでが原始生活だ。ディオゲネスは、このレベルにとどまることを志向した。

いったい、なぜだろう。

【真骨頂】

ディオゲネスの真骨頂はなんだろう。

酒樽に住んだり、アレクサンダー大王とのやり取りなどもなかなかのものだが、次のエピソードはいかがだろうか。

空の胃をこすって簡単に空腹を解消できたらいいのに

彼は、性的欲求と同じように、食欲が満たされたらいいなあ、と思ったことを正直にしゃべったらしい。

2000年以上も語り継がれてきた重い伝説だ。よく他人にこんなことを言うよな~恐るべし、樽の人……。

想像だが、彼の想いだ。

食べ物、服、靴だけは人様からもらわなければ生きていけない。
もらえないときは、頭を下げて乞い願う必要が生じる。
ああ、お腹をこすって満腹になってしまえば、
樽とわら(寝具)さえあれば、
生きていくことができてしまうのに。

世の中をみてみろ。
家や馬車や沢山の衣服、豪華な食事を得るために、あくせく働いている人のいかに多いことよ。

毎日頭を下げ、乞い願い、使役されている。

挙げ句の果てに戦争などに行き、命を落とす者までいる。
そんなことをしなくても、高望みしなければ自由に生きていけるのに。

不自由なのは、食べ物だけなのだ。

歩くひと の想像

【ホームレスの人達】

昔、とても忙しい部署で働いている頃、通勤電車を降り、サラリーマン大行進に並び、改札を抜け、駅の入口を出たところに、ベンチがあった。

朝から、そこで楽しそうに酒盛りをしているグループを見かけたことがある。

サラリーマン達には目もくれず、まるで存在を誇示するがごとく。

仕事に忙殺されていた自分……
一斉に仕事や学校に向かう行列に遅れまいと早足で歩く集団の中……

「ホームレス」であろう彼らとの交差……

自由ってなんだろう

当時の自分は、瞬時に彼らを羨ましく思い、すぐさまその思いを慌てて飲み込んだのだった。

【自由と経済的不自由】

酒樽に住むディオゲネスは基本自由。

食べ物をもらうとき、服を変えるとき、靴をもらうときだけ頭を下げ、それ以外気遣いも命令を受けることもない。

反面、不自由なことも当然あったことだろう。
多分、経済面。
生活水準の比較に苦しんだことだろう。

○樽の中の暖房
○蚊や虫の対策
○病気になったときの対策
○食料不足
などである。

市民達は生業をもち、肉類やフルーツ、デザートを摂れたと思う。冬場の暖かい服も持っていただろう。

哲学者の鉄の意思が発揮されていたとしても、肉の焼けるいい匂いを嗅いだ日や、厳寒の日、猛暑の日、蚊が多い夜、不良少年などにバカにされるなど、辛い日もあったように想像する。

自由な時間が多いのかもしれないが、辛い時間がない訳ではない…嗚呼…人生。

現代の便利な暮らしに慣れてしまった自分にとっては、昭和50年代の地方の暮らしに戻るくらいまでが許容範囲ではないかと想像する。

【まとめ】

ミニマリストが得られる自由は、他者の裕福な暮らしや、便利な道具に囲まれた豪華な暮らしと決して比較しないことにより得られるものだ。

他人軸評価、世間体からの解脱はそう簡単ではないことは承知の上だが、
「念を継がない」
「足るを知る」
という極意、諦念を会得する必要がある。

ひとまず、おカネを極力支出しない暮らしを設計することから始めることにすることにしたのだった。

       (つづく)


【おまけ】

酒盛りをするホームレスのオジサン達を羨ましく思っていた頃に買って読んだ本です。いつか書評で触れたいです。






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