クッツェーのマイケルKを読んだ

低空飛行で街を見下ろしたい。
マイケルKが宿舎の上を滑空する妄想をしたとき、彼の望みは「自由」ただひとつだった。外へ出ても地獄、職や寝床が用意されているぶん中の方がマシかもしれない状況で、なぜマイケルは外に出たかったのだろう。結局外での暮らしは宿舎にいる時よりも厳しいものだった。マイケルは森の中に浅い穴を掘ってそこで地を這うように生活する羽目になった。食べ物もほとんどなく追われる身にもなったマイケルが自由だったようにはとても見えない。そんな思いをしてまでマイケルが求めた自由は宿舎にはあって森にはないものを考えれば見えてくるはずだ。「社会」だったり「人間関係」と呼ばれるもの。実際宿舎に限らずどこでもマイケルは人とうまく付き合えず最後まで誤解された。男はただそのような現実一点から逃走を試みたのだ、などというのは読書感想文染みているあまり面白くもない読解だろう。私はむしろ自由とはこの不自由と不自由の板挟みのような状態、どちらに逃げ込こもうにも不正解に思える袋小路において、不自由な状態で「夢想する」ことにのみ見出せるのではないかと考える。黒田三郎の『現代詩入門』に詩を書くことができるのは「踏みつけられた者」だというようなことが書いてあった記憶がある。詩の空間では現実で踏みつけられたものたちが一転自由な言葉を獲得するという逆転がよく見られる。あのとき宿舎の上を自由に飛んでいく空想の中のマイケルだけが本当に自由だったではないかと思った。

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