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「カッコいい日本語」を使うということ

先日、Twitter(今や「X」と言うべきか)で、ある2つの短歌が話題になっていた。

『サラダ記念日』『チョコレート革命』などで知られる俵万智氏によるこちらの短歌は、近頃のイーロンマスク氏のTwitter買収から、「X」へのアプリ名の変更、それに戸惑うユーザーの感情を31文字で表現したものである。
巧みな言葉遊び、聞き心地のよい言葉で紡ぐこちらの歌は、どこを切り取っても「美しい日本語」だなと感じた。

では、美しい日本語に対して、タイトルにある「カッコいい日本語」とはどのようなものであろうか?
僕は「等身大の自分より少し背伸びをしたい時に使う言葉が、その人にとっての『カッコいい日本語』」なのではないかと考える。

少し過去を思い出してみる。
小学生の頃、当時流行っていた『野ブタをプロデュース』の山Pに憧れて、語尾に「だっちゃ」をつけていた時期があった。
中学に上がると、地元の方言(僕は東北出身)を使っていたヤンチャな先輩に憧れ、自分のポテンシャル以上に訛って話した。
上京に憧れていた高校時代はクラスで一人だけ標準語で喋っていたし、アウトレイジを見た後は、「ガタガタ言ってんじゃねえぞ、この野郎」的な日本語を使っていた。
今振り返ると、青く恥ずかしいものではあるけど、その当時の僕には、確かにそれは「カッコいい日本語」だった。

環境や年齢、社会的立場などによる障害により、なりたいけどなれない自分と常に対峙している。
そんな自分に下駄を履かせるため、その時々で「カッコいい」と感じる日本語を使っているのではないかな。
そうやって、言葉で自分を着飾っている。

ところで、先ほどからなぜ「カッコいいと感じる言葉遣い」ではなく、「カッコいい日本語」と言い方をしているのかと、若干不自然に感じる人もいるのではないか?(いや、そもそもこの文章読んでる人なんていねえよ)
あえて「カッコいい日本語」と表記するのには、大学時代のある経験がある。

意識高い系を拗らせて、マルチなんかに手を出しちゃう同期がいた。
そいつは、ことあるごとに「アジェンダは?」とか「それエビデンスあるの?」とか覚えたての横文字を話していた。
僕はそれをめちゃくちゃダサいと感じていた。
そいつがやっていること自体もダサいと感じていたし、話す内容もつまらなかったし、そいつの話すエセ日本語にも嫌悪感を抱いていた。
僕の「だっちゃ」や「この野郎」と、そいつの「エビデンスあるの?」を一緒の言語として捉えて欲しくない。
そんな理由で「カッコいい日本語」という言い方をしている。

さて。
アラサーとなった今の僕、30歳を超えた僕、家庭を持った僕、年老いた僕。
それぞれの年代の僕はどのような日本語をカッコいいと捉えるのだろうか。
洗練された大人になりたくて、必要以上に丁寧な日本語を使うのかな?
志半ばで地元に帰り、それでも尚、東京に憧れて標準語を話すのかな?
逆にノスタルジックな感情が芽生えてきて、急にお国言葉を使い出すのかな?

その年代年代で話すカッコいい日本語の変遷が、今から楽しみだっちゃ。
(オチ弱)


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