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通知表に嫌われて

長男にとって学校生活が崩壊した年の通知表は闇に葬らなければならなかった。当時の担任からの最大限の嫌がらせ、あるいは仕返しだろうと思ったが、学校は所定の基準に基づいて適正に評価したと言うだろう。

学年が変わって以降、通知表はマシにはなったが、それでも「よくできる」は一つもつかない。このことを気遣ってか、現在の担任の先生は通知表を手渡す際、長男にこう言って下さったそうだ。

「学校の基準で評価するとこうなるけど、ドラ(長男)にもっと力があるってことはちゃんと知ってるから。」

長男は、しんみりと「はい」と答えたそうだ。

長男は、授業から新しいことが学べず退屈でしんどい時は、持参した本を読むことを許可されている。時にはタブレットでゲームもしている。学校でゲームはやらないようにと親も口うるさく言っているが止められていない。こういったことの方が評価には響いているのだと思う。

それでも、長男は学年が変わってからというもの、テストも100点のものを何枚も持ち帰るようになった。テストは100点が上限なわけだが、先生から口頭で内容を褒めてもらったこともある。長男が「普通は丸のところ、僕、二重丸がもらえたんだよ」と嬉しそうに見せてくれたことがあった。

宿題も律儀に提出するようになった。理解に関する評価は少なくとも「よくできる」ことが形としても示されていたはずだった。

それでも通知表に「よくできる」が一つも無いのを見て、私も夫も違和感を感じたけれど、状況として担任の先生も、もうこうするしか無かったのだろう、こうでもしないと示しが付かないのだろう、とおおよそ検討がついた。

この見立ては、まだ長男から担任の先生とのやりとりを聞く前のことで、この日、夫と私が出先から戻った時には長男は既に塾に行っていたのだが、通知表を持ち帰る日だと知っていたのでランドセルを開けて先に確認していた。

通知表を持ち帰る日が近づいていた頃、長男は先生から褒めてもらったことを話してくれるようになっていた。最初の頃より授業中の姿勢が良くなったと褒められて、長男も素直にそれは嬉しいと感じたようだった。

また先生は、昔と少し方針を変えて、長男をクラスに合わせようとするのではなく、長男にもっと授業中に発言してもらって、それによってクラス全体を引き上げていきたいのだと話して下さったそうだ。長男がそんなようなことを言っていた。それで、そのためには長男の発言が必要不可欠なのだと言って、「発言するメリットが無い」と発言を渋っていた長男を促してくれたそうだ。親としても感謝しかない。

先生は引き続き、集団生活の中で必要な所作を長男が身につけられるよう手助けする必要があると考えてくださっていて、長い目で見て長男が生きて行きやすいように考えて下さっているようだ。

長男は親が知らないだけで、本当はもっと先生と色々な話をしているのだと思う。それでとても良い信頼関係が築けている。

「個人モデル」と「社会モデル」

長男が通知表で「よくできる」が取れない障壁を前にして、「個人(医学)モデル」「社会モデル」のことをふと思った。

そもそもギフテッドが抱える障害・困難さは、「全員が一斉指導という形態で授業を受けるべき」「『みんな』がやっていることは、同じようにやるべき」といった、いわゆる慣行が「社会的障壁」となっていることも多いのです。個々の教育的ニーズに応じて、社会的な障壁を外すことは、合理的配慮の一つです。

ギフテッドへの合理的配慮に診断書は不要

WHO(世界保健機関)は、2001年5月から、障害を「個人(医学)モデル」ではなく、「社会モデル」で捉えています。前述の通り、「障害とは、社会への参加を制限されること」です。

たとえば、足に機能障害があった場合で考えてみましょう。「個人(医学)モデル」は、足の機能障害を個人的な問題として捉えています。これは、医療や介護といった医学的アプローチをする、いわば従来の障害の捉え方です。一方、「社会モデル」の場合は、必要とする人には車椅子を支給し、社会全体にバリアフリーを完備するなど、環境調整をすれば、社会への参加は制限されませんから、障害とは捉えません。

ギフテッドへの合理的配慮に診断書は不要


長男にとって、今の学校教育は社会的障壁が大きい。通知表は「個人モデル」に基づいて、”その子に起因する評価”であるというのが学校からのメッセージだと思う。一方、「社会モデル」で考えれば、その評価は不自然なものに見えてくる。

また、「個人(医学)モデル」と医学の文字が入っているが、長男が大学病院を受診した際、医師含め誰一人、長男が直面している障壁を「個人モデル」では捉えなかった。代わりに「社会モデル」で捉えた上で、学校に個へのニーズにあった対応を要望する診断書を書いてくださった。

ふと、本は読んだことがないが、『何が私をこうさせたか』というタイトルを思い出した。タイトルには妙に共感する。

以下引用は、公教育についても大切だと思う。

最近、よく耳にするSDGsも、地球上の「誰一人取り残さない(leave no one behind)」を掲げています。個人が困っていることを自己責任だけに委ねるのでなく、社会の問題として捉え、環境調整で是正していくという発想、大切だと思います。持続可能という視点でも、特定の個人に負荷がかかるのではなく、社会全体で支える方が、「持続可能な支援」なのだと思います。

ギフテッドへの合理的配慮に診断書は不要

ギフテッドをことさらに強調しないほうが良いと考えている

ギフテッド児の親として、「子どもが社会的障壁に直面して困っている」と陳情を述べることは、竹槍で戦っているようで徒労感が強い。ゆえに、WHOやギフテッドのために活動してくださっている方々が「社会モデル」を提唱していることは心強く感じる。

さらにこの議論は、つまるところ「進度別学習を一部学習の場に取り入れて、個々人に合った学びをカスタマイズすることが最善策である」と言っている事と重なる部分がある。よって、その延長線上に自然とギフテッドものってくる話であり、ことさらにギフテッドだけを強調することは、逆にギフテッドへの風当たりを強めてしまいかねないとも思う。匙加減が難しい。

今はギフテッドのことを知ってもらう最初のフェーズであるため、情報発信が必要だし、それに伴って様々な意見が出てくるタイミングだとは思う。

ギフテッドに限らず困っている人達が「社会モデル」の考え方で少しずつでもよいから救われていくと良いなと思っている。

「ずるい」と言う子どもがいる場合は、「みんな顔や性格が違うように、学び方も人それぞれである」という共通理解を学級内に育てましょう。

ギフテッドへの合理的配慮に診断書は不要

ギフテッドは、正義感、リーダーシップ、頭の回転の速さ、周りに配慮して動く力など、学級経営や授業で、先生の力強い味方になるポテンシャルをもった子どもたちです。「どのように、この子と関わったら、この子と周りの歯車が噛み合うかな?」ということを、あらためて考えてみてほしいと思います。

ギフテッドへの合理的配慮に診断書は不要

粛々と行動する

我が家では、労力を割いて組織と戦うのではなく、粛々と勉強し、内申を必要としない学校に合格するよう努めることに尽きると考えている。

まだ長男は中学受験の過去問を解いたことがないため、解いてみたら箸にも棒にもかからないということで別の対策を考えなくてはいけない可能性もあるのだが、親としてはできるだけ長男の特性が受入れられやすい文化を持った学校を探してやりたいと思っている。

過去の通知表

久しぶりに長男が低学年の時の通知表を見てみた。

積極的に発言しようとする意欲が高く、手を挙げて発言することが多いです。発言をする前に、一度考えてから発言できるように支援していきます。

長男が低学年の時の通知表コメント一部

当時これを読んでどう思ったかの記憶がないが、今更ながら苦笑するしかなかった。低学年らしからぬ発言で先生を困惑させていたのだろうか。

以前に学習したことから考えをめぐらし、新しい方法を考えたり、友達の考えを受け止めて自分の考えを深め・・・(中略)算数では友達に熱心に教えている姿はとても頼もしく、図や数直線を使って自分の考えをどんどんノートに書き込んでいく姿は、クラスのみんなの手本となっています。

別の年の通知表コメント一部

こちらの先生には長男はとても可愛がってもらっていた。

まだギフテッドだと気付いて無かった頃だった。