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ギフテッドへの理解を当たり前と考えるのはNG

二学期が始まったということもあって、長男に、今、他の子が授業を受けている中で、自分だけが読書(勉強に関する本)を許可されていることについて、当たり前と思ってはいけないよ、という話を夫と一緒にした。

ギフテッドと言われる子たちの困り感の一つとして、学校の勉強が簡単すぎて苦痛が生じている状態があると思う。

苦痛に耐えられず、自分の知的好奇心を満たそうと授業とは別のことをしてしまうと、通常は、周りと違うからと注意を受けることになる。これが繰り返されると自尊心まで低下してしまう。

そして、こういった問題の解消には、周囲の人々の理解と環境整備が欠かせない。文科省が取り組もうとしている支援も、こういった実態を踏まえてだと思っている。

長男は、この点で、担任の先生からの理解が得られている。読書は、長男の苦痛緩和も目的としているが、苦痛なまま放置しておくとじっとしていられなくなって授業の妨げになる可能性があり、それを未然防止することも目的としている。そういった苦肉の策の面があることも忘れないようにさせたいと思っている。

それでも、長男が自分の特性を担任の先生から認めてもらえていることは大きい。

ギフテッドについては、知れば知るほど、また、文科省も動き出したということもあって、学校で大変な思いをしていることは、しっかり伝えていかなければいけないことだと思っている。

一方で、この思いが強くなりすぎたり、環境整備が進んで行くと、そのうちギフテッドなのに配慮されないのはなぜだ?などと、強気の変な意識を持ってしまう危険があると思う。

授業が辛いのは何もギフテッドに限った話ではない

また長男には、授業が辛いと思っているのは、何も長男に限ったことではないのだという話もした。例えば塾に行って先取りをしている子達は、少なからず授業で退屈している可能性はあるのだという話をした。それでも、特別な配慮がなくても、自分で工夫するなり、我慢して静かに邪魔にならないように授業を受けていると。

正直なところ、私の基本感としては、大多数の子は学校の勉強が楽しいのだろうと思っていた。だから、上記は想像でしかないが、ギフテッドだけが辛いと主張するのも違うだろうと思っている。辛さにせよ、楽しさにせよ、グラデーションのイメージでいる。

だから、長男にも、理解してもらえていることに甘えるのではなくて、例えば授業でノートを取ることが本来は必要なことなのであれば、ノートを取ることが楽しくなるように、板書した上で疑問に思ったことや仮説をメモしたらどうかと提案した。持ち帰って家で調べてみないかと。授業から発展させて考えたというのはポジティブだろうし、授業態度としても一人読書をするより良いと思っている。

いつか「ギフテッド」と言わなくても良い時代に

ギフテッド児の凸や、学習意欲、メンタルは、一人の人間として守られるべきものであり、まずは理解と環境整備が必要だと思っている。

そのためにはギフテッドについて、一括りにするのは雑かもしれないが、まずは知ってもらう必要があると思う。

凹について、これが本当にあるのかどうかは正直わからない。納得するまで動かない特性で結果的に協調性が低くなりがちなことについては、長男にも一理ある事がほとんどだ。ただ、それでも尚、我慢して大人な行動が取れることが発達であるならば、それができないことは凹なのかもしれないと思う。

今はギフテッドの困り感について知られ始めた段階だが、ギフテッド本人にも周囲への理解を促して、良い相互理解につながり、いつか「ギフテッド」とわざわざ言わなくても良い時代が来れば良いなと思っている。