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罰則・引き締め・監視強化【学校編】(3)

当事者の出方は極めて重要

今回家庭内で話す中で、当事者であるということの難しさを強く感じた。まず、学校と家庭でお互いの最も大切にしていることが異なる中で、対立のリスクが高いと思った。

代替案2の個別の課題を長男のために設定すること1つとっても、学校の授業を正面切って必要ないと言いに行くようなことになりかねず、こちらにそこまでの意図は無く、単に長男の知的ニーズを満たすことを軸に考えていたとしても、不快に思われるだろうと思った。学校にどこまで求めるのかと。

学校からしたら勘弁してくれと思うことを、こちらはどうにかしてくれと言っている状態かもしれない。

夫が、ギフテッド児の親(当事者)の出方はこれから極めて重要になるよ、と言った。当事者の主張の仕方次第では、ギフテッドにとって将来がより生きづらい社会になると思っているようだ。

文科省が敢えて「ギフテッド」という言葉を使わずに事業を始めようとしているのも、それくらいギフテッドというものが対立を生みやすいものであることを分っているからだろう、と。

極端なことを言えば、いつかギフテッド当事者の中からも社会活動家のようなやや過激な主張をする人が出てくるかもしれず、仮に行き過ぎた行動があった場合、ギフティッドは全部まとめて悪にされる懸念だってあるわけだ。

ギフテッドはマイノリティであり、周囲からの理解さえあればという思いが湧いてきてしまうことも多いと思うのだが、そのまま暴走してしまってはいけない。

丁度こちらの件もあって、考えさせられた。目次だけ掲載させていただいた。

  • こりゃアカンやろ

  • ある種の成功体験の果てに

  • 権力者vs.フェミニスト

  • 弱者も時として立場を利用して嘘をつくこともある


そして、ギフテッドについて理解を求めたくても、それが社会全体に広がるためには、例えば成田悠輔さんのようなよほど好感度の高い人が話すか、あるいは逆に本当に悲惨なことが起きたりでもしない限り、無理だと思うと夫は言った。

成田さんについては、ご自身をギフテッドと公言しているわけでもなく、またギフテッドという言葉を使ってお話されたことがあるのかどうかも存じ上げないのだが、こうおっしゃっている。

「・・僕が問題だと思うのは、道が多様化するとか、それを支える社会の様々な仕組みを大事にするって事を言えば言うほど、ぶっちゃけ教育とか学校とかもう必要ないっていう事がどんどん明らかになっていくと思うんですよ。で、そもそもその勉強においても、学校とかって、もはや足でまといにしかなってないというか、できる人たちの足を引っ張ってる側面の方が強いと思うんですよ。で東大に来るような人達とかって、どうやって学校っていうシステムに邪魔をされないで、適切に勉強するかって事に人生をかけてきた人たちじゃないですか?で、彼らはそのできるだけその授業で頭の悪い先生に、変な教育を受けないようにするかっていう事を必死で考えていて、でそのためにその授業中にどう内職するかとか、学校にいる間に体力をできるだけ削られずに、適切に終わった後に塾に行くとかってことを考えるわけですよね。でそれがもう今どんどん広がっちゃっていると思っていて(18分40秒辺りのディスカッション書き起こし)。

※11/24追記。成田さんは、学校が全く必要ないものとはおっしゃっていません。学校が合う子たちももちろんいるとディスカッションの中でおっしゃっています。才能等々が中心のテーマでお話しされており、標準教育があわない子達について語り合う内容でした。


長男も特に勉強に関してはそうで、学校のルールに関しても邪魔されたくないという気持ちはあるのだろうと思う。

対策実行

それで対策案に戻って、代替案1の家から本を何冊か学校に持って行かせるという案を選択することとし、夫が急ぎ図書館で本を見繕って借りてきた。

物を無くしがちな長男に、図書館の本を無くされるのは面倒が増えるばかりなのだが、もう弁償覚悟で図書館の本を持たせる方が良いだろうという結論になった。過去に一度弁償したことがあるのだが、実際に無くす確率は低い。無くすことは過度に心配しなくてもよいだろうという判断に至った。

(4)につづく