見出し画像

ものごとの両面性

昨日投稿したnoteの引用部分を一部カットした。いつも使わないようにしたいと思っていた言葉が入っていて少し気になったからだった。

Ted Talksから引用した訳文であるため躊躇せずに引用すれば良かったのかも知れないが、ユーモアのあるトークとして引用させていただいたにも関わらず、このnoteで扱うテーマが発達に関わる物が多い故に、ユーモアとして受け取られない可能性もあるかもしれないと思った。

気にしすぎかもしれないと思いつつも、これまで「障害」という言葉は使わないようにしてきた。まず、誰の視点からして「障害」なのかと疑問に思うことがあったのと、この言葉を本当に使わなければいけないのかと度々疑問に思うことがあったからだった。

自身が中学生の時に視覚障害について学ぶ機会があった際、先生が、「自覚はしていない人が多いと思いますが、視力が悪いということも障害として捉えることができるわけです」と、障害を身近に感じさせようと発言されたことがあった。

確かにスペクトラムとして考えると、全く目の見えない状態から、少しは見える状態、そして眼鏡が無いと困るが有れば困らない状態まで、「不便さ」という意味では共通している部分があることに気付いた。

私はド近眼であるため、眼鏡を外すとテーブルの上に置いたはずの眼鏡が目視では探せない。明るければまだ良いが、暗いときは家族に声をかけて探してもらうこともある。自力なら、手で机の上を触って眼鏡に当たれば見つけたことになる。

それで自分がどこかに避難する必要があった時に、うっかりコンタクトレンズにしていて避難先に眼鏡を持って行き忘れたりすると、もうコンタクトレンズを外した途端に身動きが取れなくなる。こうなると、自分だけで無く周りの人にも影響があると思う。

しかし、日常では眼鏡やコンタクトレンズがあるおかげで目が悪くてもほとんど意識することはない。それでも「眼鏡がないと生活できないなんて、身体の一部を失ったに等しい」というようなコメントをもらったこともある。

さすがにそれは大げさだとは思ったのだが、正常な視力ではないことは確かで、目が悪くなったことが無い人からすると、そのように感じるのかと改めて思ったのだった。

この自覚していないのに周りから同情されるちぐはぐ感は何とも言いがたい。

また、難しいと思うのは、少し視力が悪い人まで自分には障害があると主張し始めたら(そしてこちらは分布上、数が多い)、「障害」という言葉から連想されるものが非常に軽いことのように印象づけられてしまって、本当に困っている人が同じ言葉で訴えた際に、その声が届かなくなる恐れもあるのではないかと思う。

天気の話ですら

正確な書きぶりは覚えていないが、どこかの本に、「良い天気で嬉しい」と言うと、別の人が「農家の人は雨が降らずに困っているのに不謹慎だ」と返したというやりとりが紹介されていた。

私のように個人的な日常の出来事を書いている場合でも、様々な立場の人がいることを気にしながら書いてはいる。でも考えすぎると手が止まるのも事実だ。

天気の話のような展開を恐れて当たり障りのない文書を書いたとしたら、それは読む価値はない。

天気の話に戻ると、私の実家には農家をやっている親戚がいるのだが、毎日雨に降られたらそれはそれで困る。晴れの日もないといけない。

そう思うと、変に気を遣いすぎたり、勝手な判断で可愛そうなどと思うことも慎まなくてはいけないなと思う。

天気の話を検索してみたら、こちらに同様のストーリーがあったのでリンクを張らせていただいた。

せっかく書くからにはできればエッジのある内容を、恐れすぎずに書けるようになりたいと思う。