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今日のぼくの良かったところどーこ?(4)

次男の学習に付き添ってみることに

きっかけは、確か、勉強をみてやるなら私の方が似たもの同士で巧くやれるだろうという話になったからだったと思う。

私のほうがどちらかというと、”分らない状態”への共感力が高く、次男に対しては十分な導火線が装備されているはずとの思いもあって、取り組みを始めた。しかし、これがそんなに巧くいっていないことは(1)の冒頭に記した通りだ。

あとは、大雑把に言って、問題文を読むことにときめきを感じる人と、逆に面倒くさいなと思う人がいるとした場合、夫は前者で、私は後者だった。

だから、次男が問題によってはときめかなくても、それは理解できたし普通だと思えた。大体ときめかない問題を出すのがいけないのだ、くらいの感覚でいる。

私の場合は英語が好きで、Newsweekや英語の記事を読むのは楽しいし、TED Talksも好きで聴く。しかし、検定試験のような試験問題の形式になった途端に英語ってこんなにつまらなかったっけ?と思うことも多かった。

そんなこともあるだろうと思うため、必ずしも問題文を見てアドレナリンが出なくても、その時点では人によってはそうよね、と構えていられる。

つまづきにパターンがあるかもしれないと気づく

私自身はあまり子供に勉強を教えたいと思っていなかった。それでも次男に付き添ってみると、色々見えてくることもあった。なんとなく次男がつまづきやすい箇所なども分るようになってきた。

例えば次男は時々珍回答をする。

実例で、「絵に合う言葉を見つけましょう」とあって、帽子を被った犬の絵が描いてあり、使って良い文字として「う・し・し・つ・っ・ほ・ぼ・ぽ」が書かれた問題があった。

次男は1つ目は「ぼうし」と回答したが、2つ目は「しっぽ」が正解のところ、「うつぼ」と書いた。

これは可愛くて私も夫も笑った。こういった珍回答は子供ならではのもので可愛い。しかしあまり頻発するようだと、それはそれで心配になる。もしや大人になってもこのまま珍回答をし続ける気ではないだろうな?と一抹の不安を覚える。

大体分ってきた傾向として、複雑な指示の問題があると、情報が途中で抜け落ちてしまうらしい。「左に4マス進んで、そこから下に7マス下がる」という問題があった時も、初めてやったときは左に4マス進んだら終了してしまっていた。

後半の指示をリマインドすると、今度はスタート地点からそのまま下に7マス降りてしまった。ステップがいくつかあるときの情報整理や保持が課題なのかもしれない。これは所謂ワーキングメモリーが一杯になってしまっていることが原因なのではないかと推察している。

ウツボと回答してしまったのも、もしかすると、問題文で聞かれていた内容を留めておけなかったのではないかと思っている。本来だと「ぼ」の字は1回しか使えないが2回使ってしまったり、絵に合う言葉という部分も忘れていた。

悩ましいのは、こういったことに気づいたときに、年齢と共に出来るようになっていくはずのことを、親が介入すべきか否かということだ。下手な介入ならしないほうが良いため難しい。

1つ気になるとしたら、こういった問題文に関わらず、読書も同じで、どこかを取りこぼしていると、全体の理解の解像度が下がるのではないかということ。もしそうであるなら、少し意識して取り組むようなことも必要ではないかと思っている。

よって、一応習慣として家で学習するようにして、次男にはステップを一つずつ線を引いて確認したり、抜け漏れがないか再チェックをかけるように声かけをしている。最終的に自分で気づけるようになれば進歩だ。

それで時々、このようなステップを踏んだ問題の場合、問題文に書いてあること以上の何を教えて良いかが分らないことがあって、毎回ではないのだが時々、「書いてあるでしょ、問題文をよく読みなさい。声に出してごらん!」とイライラして怒ってしまうことがある。

なるべくそうならないようにしているが、夫は次男と私のやりとりを遠くから見ていて、そろそろ私がこらえ切れなくなるぞと察知するや、ひゃっひゃと笑いながら床の上を転げまわっている。なるべく声を荒げまいと頑張っている妻の姿が腹がよじれるほど面白いらしい。

最近はそれでも、あることに気づいた。1回目はつまづくものの、2回目以降、また翌日以降に類題をやった時にはよくできるようになっているということ。なので、初回でピンとこなくても、そんなに私の方も焦らなくなっている。

それに次男は、複数ステップあったとしても、保育園時代にはまっていた将棋は、駒の動きも覚えて戦略を立てて対戦していたし、バスケも私には無理と思えるような複雑な動きも頭に入れてできる。

(5)につづく