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同じブログでも、書き手の得意分野によって、そのジャンルは様々だ。 基本、ブログは「特化型ブログ」と「雑記ブログ」に分けられていて、その名の通り、前者は分野を絞ったブログであり、後者はそれに縛られず多種多様な内容が含まれているブログである。 が、どんなブログでも、その核心となるコンテンツがある。 「特化型ブログ」の核心は比較的分かりやすい。 例えば投資や語学、スポーツやグルメに特化したブログであれば、そのトピックス自体が核心となる。 一方「雑記ブ
大人になってから、 学生時代に比べ、 指摘してくれる人が圧倒的に減ったということに気付いた。 最初の頃はさほど気にせず、「自分はこのままでもオッケーなんだ」なんて思っていた(なんと愚かな!)。 が、ある時になると、とうとう付けが回ってくるようになった。 いつの間にか孤立されていたり。 陰口を言われるようになったり。 話しかけると目をそらされたり。 そして困ったのは、 こうなってしまった 原因が分からないことだ。 教えてくれる人なん
子供の頃から、私は身体が弱く、精神不安定だった。 体調不良はしょっちゅうあって、ちょっとしたことでパニックになったり、癇癪を起したりした。 随分と周りに迷惑をかけたものだ。 一時はこのままだと社会生活も出来ないだろうと悲観的になっていたが、訓練しながら出来る限りのことをやり、何とか無事就職出来た。 経済的にも安定し、身の回りの整理整頓や、自分自身の世話も出来るようになった。 私は、自分を愛してくれた人々に恩返ししたいとずっと願っていた。 そしてようやく
学生時代に見ていたアニメに、「他の人にはそっけないが、主人公の前だと優しくなる」というキャラクターがいた。 そのキャラクターは普段物静かでクールだが、とある出来事をきっかけに主人公に心を許すようになる。 それで主人公を特別扱いしたり、主人公と二人きりになった時にだけ素直になったりと、普段と違う一面を見せるのだ。 私は当時、「あなただけ」といったそのような関係が素敵に見えて、「自分も誰かの特別になりたい」なんて夢をふくらませていた。 けど今は、それはなんて
叱るって難しい。 ただどこがどう間違っているかを指摘するだけなら簡単だが、相手に納得してもらい、受け入れさせる為にはそれだけでは全然足りない。 もちろん緊急時やとんでもない過ちを犯した等、怒鳴らざるを得ない場合もあるが、大抵の場合、 相手がどうしてそのようなことをしたのかを把握する必要があるし、 自分自身の表情や話し方に気を付け、なるべく感情をぶつけないようにしなければならない。 時と場所も考慮しないといけない。 これらの要素をバランス良く調整し
どんな機械も、長く使い続ける為には定期的の点検が不可欠である。 部品が正常に動作しているか、動きにガタがあるか、どこか汚れていないか、傷がついていないか…… それら一つ一つを細やかにチェックし、メンテナンスをしなければならないのだ。 燃料をチャージしたり、摩耗しやすい部位には潤滑油等をさしたり等してエネルギー満タンにし、動きを滑らかにする。 そうすると機械が元気になって、またしばらく作動することが出来る。 逆に、これを怠ると機械が故障してしまう。
あまり信じてもらえないかもしれないが、私がしっかりとした「感情」を持ったのは、ほんの最近のことである。 長いこと、私はしきりに「感情が無くなれば良いのに」なんて思っていた。 自分自身の為にも、感情なんてあってはならないと信じていたのだ。 きっかけは、10代の頃。 家庭不和、いじめ、仲良かった友達の裏切り…… 不安定な思春期の心に、これらは嵐のように激しく襲い掛かってきた。 私には逃げ場が無かった。 そして、もちろん現実を変えることも出
私は感情発作の常習犯だった。 グルグルと考え込んでしまう悪い癖があるだけでなく、体調が非常に環境に左右されやすいのもあって、常にいつもクラクラのクタクタで、それ故気持ちも不安定だったのだ。 うつ期は特にそうだ。 被害妄想がひどくなり、ちょっとしたことでイライラしてしまう。 ダメだと分かっても、つい周りの人にきつくあたってしまう。 幸いその後、私は理解ある仲間に恵まれ、身体も徐々に改善し、次第にうつ症状も無くなった。 それからピタリと発作が
「なぜ勉強しなければならないのか」。 誰でも一度は疑問に思ったことがあるこの問いに対して、 選択肢を広げられるから という答えを一番良く聞く。 「学んだことが多ければ多い程、将来の道に対する自由度も高くなる。」 私はこの答えに賛成だ。 しっかり勉強出来れた人ほど、束縛が少なく、より自分らしく生きていける。 学習や経験等を通して脳内に蓄えられた内容を「知識」という。 そして、それらを実際に活用するスキルのことを「知恵」と呼ぶ。
「何かをやり遂げたければ、それを周りに宣言しろ!」と、ある自己啓発書で読んだことがある。 その本の言い分によると、周りに「自分はこうする!」と伝えれば、「言ったからにはやれずにいられない」というプレッシャーが湧き、怠けたくても続けられるようになるのだとか。 確かに一理あるかもしれないが、余程その夢や目標に対する熱情が無いうちは、こういった宣言は逆効果でしかない。 宣言をすればする程、 皮肉や非難を浴びさせられるからだーー 「その目標何の意味があるの
「あ~もう!ダメ!全然ダメ!」 なんとも発狂寸前の叫びである。 「私には出来ない、decoちゃんが代わりにして!」 こう嘆いているのは、私の韓国人の友人、S氏である。 教会の牧師先生から、動画に日本語ナレーションを入れるお手伝いを依頼されたが、未だに満足いく発音が出来ないのだそう。 学習を始めて、10年近くになっただろうか。 熱心に日本語の勉強をしているS氏は、語学研修の為日本にしばらく住んでいたこともあり、すごく流暢に日本語が話せる人だ
打たれ強く、何があってもめげずにいられる人はどんどん大きくなれる。 立ち止まらずに突き進んでいけるので、成長が止まることはないからだ。 そんなタフなメンタルを持ちたいと憧れてはいるが、残念ながら私は何かあればとことん凹んでしまう性格なので、立ち直り力が育つまでは、まだまだ時間がかかりそうだ。 辛いことがあると、大抵の場合、私は閉じこもってしまう。そして思う存分落ち込む、泣く。 そして気が済んだら涙を拭いて「よし、また頑張るか」と、ようやく再出発する。
「ゲシュタルト崩壊」というものがある。 「全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。」と、Wikipediaでこのように定義されている。 誰もが一回は経験したことがあると思うが、一つの漢字を長時間見つめていると、まとまっているはずの字が突如バラバラになり出す。 しまいに「これって漢字だったっけ?」と、そもそも漢字として認識出来なくなってしまう。
限界まで頑張る人達がよく「偉い」と称賛されているのを見てきたものだから、ずっと力を出し尽くして働くことが美徳なのだと思っていた。 それ故、私も長い間随分無茶をしてきたものだ。 発達障害の故か、私は鈍感で、疲れてもそれを感じにくい。 限界の限界まできて、ようやくそれに気付くので、 「なんかだるいな…」を感じた時点で、 既にオーバーワークしている。 それでも「まぁこれぐらいなら」と踏ん張り続けるのだから、心身ともに大ダメージを受ける。 身体が動かなくなり、