たべることあいすること 1

性食考 - 岩波書店 https://www.iwanami.co.jp/book/b297922.html

 今読んでる本です。

 割とこういうタイプの本を読むのですが、どういうジャンルなの? って聞かれるとさっぱり分からなくて、なんていうジャンルなんですかね。学術書でいいんですかね。学術書だとして何学の本なんだ……?
 とか言ってしまうマンなので、こんな小難し気な本を読んでも得るものと言えばホモに応用できそうかなとかホモじゃないのに応用できそうかなとか、そんなことばっかりだったりします。申し訳ない。申し訳ないですが大変楽しませていただいています。ありがとう。面白い。

 まだ全部読んでいない本の紹介というのもアレなのですが、一応おおまかな内容の説明をしておくと、「食べることと、愛すること、交わることの深層的な繋がりについて、民俗学者である筆者が様々な方面から考察、思考する本」的な感じになると思います。いや待てそれならコレは民俗学の学術書なんじゃないか……? 民俗学の学術書です。すげぇ頭良さそうなモン読んでるみたいな字面ですね! ヤバイ。
 いえ勿論頭の良い本なんですけど、頭の良くない私が読んでも楽しめるくらいには面白い本です。あと表紙が可愛い。


 先述した通り、もしくはタイトルの通り、この本は「食べることと愛すること」を主題に置いています。腐女子の好きな奴です。すみません、勝手に主語をでかくしました。私が好きな奴です。
 好きなので買ったのですが、読み始めてみたら予想以上に好きな奴過ぎて読んでる途中でちょっと考えを纏めたくなってきたので一旦noteにばーってやってみることにしました。ばーっ

 まず最初に思い出話を一つ。
 多分小学生の頃の理科の授業だったと思います。
 食物連鎖という言葉を習って、教科書に載ってるピラミッドを見て、ふと疑問に感じた事がありました。
「これ人間おらんくない?」
 一番下には虫や草、小さな生き物が居て、その次に少し大きな動物。段々と大きくなって行って、一番上にちょこんとライオンとか鷹がいる図の、何処にも人間の姿はありませんでした。人間居なくない? いや確かに鷹とかライオンとか、食べないけど。食べないし食べられないけど。
 不思議に思ったことは割と積極的に解決するガールだったので、ハーイっつって先生に聞きました。先生ー、人間はどこに入りますかー?
「人間はそこにはおらへんで」
 なん……だと……?
 理科の池田先生言って曰く。
 人間は食物連鎖から外れた存在なので、ピラミッドには存在しません。人間が何を食べて、どういう風に生きているかは、理科じゃなくて社会で勉強するでしょう、と。
 確かにそうなんです。
 人間が何を食べてどうやって生活しているか、はたまた何を生産してどうやって歴史を歩んできたか、は、理科ではなく、社会で勉強することです。理科(というか、この場合は生物学)が、「いきもののこと」を学ぶ学問だとすれば、社会という教科はそのまま「人間のこと」を学ぶ学問の入り口なのだと、その時初めて知りました。
 社会というのは人間の営みを指す言葉なので当然なんですが、あまり言葉の意味とか考えない子供だったのでびっくりしました。あと今「びっくり」って打ったら「⁉」って変換されたことにもびっくりしました。びっくりだわ。
 さて翻って。本の話に戻ります。
「性食考」では、前半部で動物と人間の「愛することと食べること」の関係について、後半部で神話における「愛することと食べること」の関係についてを述べています。(後半まだちゃんと読めてないんですけど)
「愛すること」と「食べること」の共通点とはなんでしょう?
 それについての詳しい話は勿論「性食考」で詳しく詳しく述べられていますが、それらをさておいても一つ挙げるとすれば、それは「私と誰かの間で起こることである」です。
「私」と「誰か」との関係性というのは、突き詰めていくとその二つへと収斂されるように思われます。さらに突き詰めればその二つさえも融合していくのではないかというのが本書のお話なのかもしれませんが、まだちょっと全部読んでないので分からないです。


 自分を愛することが出来るかどうかはともかく、物理的な問題として、己を食べることは不可能ではありません。
 自分の体が毒になる訳でなし、色々と長期的な問題はもちろんあるでしょうが、言ってしまえばこの体は肉です。あと水とかです。肉は有機物なので、切り取って口に入れれば勿論消化できます。栄養になります。
 しかしそれをしない理由は何でしょうか? いや普通に考えてしないですけど。気持ち悪いですしめっちゃヤバイと思いますし。ただ、何でこんなにもヤバイと感じるのでしょうか?
 私たちの本能というのは本当に物凄く「(自分の)体だったもの」に対して強い忌避感を持ちます。それは肉や血といった、生死にかかわる部位ばかりではありません。
 例えば、髪の毛や爪、フケなどの老廃物、広く見れば排泄物も含まれるかもしれません。今の今まで自分の体だったもの、体の中にあったものなのに、切り落とされ、抜け落ち、排出された途端にそのカテゴリは「ゴミ、汚物」にジョブチェンジします。排水溝に溜まった髪の毛の塊とか何かの妖怪のできそこないかなみたいな扱いをしてしまいます。
 排泄物や老廃物に関しては理解できます。垢では死なないとは言いますが、生き物は不衛生にしていると結構死にがちです。特に排泄物は「体の毒素になる物質」を多分にふくんでいるため、それを避けるのは当然の本能です。
 けれど、髪の毛はめっちゃ絡まっていても割と死にはしません。ハゲで死ぬ奴はいません。また髪の話してる……。
 それなのに私たちは「バレンタインのチョコに髪の毛が入っていた」という話でギョエーッとなり、「お父さんが爪切りするときにめっちゃ爪が飛び散ってる」という話でお父さんゴミ箱の上で爪切れよ! となり、いやまぁ確かに衛生的には良くないんですけど、正直言うと結構過剰反応をしています。
 お店で食べている料理に髪の毛が入っていたら不衛生ですが、「髪の毛が入っていたぞ! 黴菌が入っているかもしれない! 体に悪い!」って気持ちよりも「髪の毛が入っていたぞ! 気分悪い!」っていう気持ちの方が強くないですか?
 このたとえは恣意的ですが、とにもかくにも、人間は「人間の体、および体だったもの」に対してとても強い嫌悪感を抱きます。
 それは、「己を消費してはいけないから」なのかもしれません。
 人間は社会で生きる動物です。人間についての学問の名前が「社会」になるように、社会の中でなければ生きていくことが出来ない生物です。自分を自分で消費することは、この「社会」からの切断を意味します。本能とか遺伝子とかいう物は割と極端なアピールをするので、ほんの些細な切った爪や抜け落ちた髪さえ「食らってはいけない己である」と警告するのではないでしょうか。お前はそれを食べては生きていけないぞ、お前はお前自身のみを食らって生きることは出来ないぞ、と。この場合、自分で消費してはいけない「己」には、自分自身の肉体だけではなく、家族や属するグループといった共同体を含んでもいいと思います。もっともっと大きな目で見れば、「人間」という生き物全体も指して問題はないでしょう。だって人間は基本的に人間を食べたくないです。
 それでも「食べちゃいたいくらいに大好き」なんて言葉が、どの国でも愛情の表現として使われるのはどうしてなのか。これが「性食考」で述べられている大きなテーマです。


 生きていく為には、「私」は「私」を消費できない。してはいけない。「誰か」を食べなければならない。その「誰か」というのは、「私(=人間)」以外の動植物となります。
 さて、考えたいのは、「食べること」はイコールで「害すること」になるのか? という点です。
 勿論、害することではあります。殺さなくては動物も植物も食べることは出来ません。ただ、理科の話しではなく、社会の話として。食べることというのはそのまま害することのみを指し示すのでしょうか。 

(1ってナンバリングしたしめっちゃ中途半端なんですけど続くかどうかはちょっとわかんないです)

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