車椅子とオルタナティブスペース あるいは私は避難できるのか


※この話には出口もないし希望もない避難所もない

 「すべての人が」とか「みんなのための」「(リアルの)場所」って嘘じゃんっていつも思う。多くのオルタナティブスペースはそうした謳い文句を持つ。たいていの場合、「すべて」は「その場所が掲げる理念に賛同する人」という括りがつく。それはいい。
 私が求めているのはまさにそういう場所だ。様々な理由によってある場所に集う、オルタナティブな場所を私は求めてる。マイノリティとして切実に求めている。
 私はセクシャルマイノリティで安心して喋れる場所が欲しい。アクティビスト的でもあるし、美術に関わり研究し作家活動をしている。オルタナティブな場はたくさん欲しい。参加したい。私が二丁目とかに遊びにいくのもそういう理由だ。


 でも、けれど。私はいけない。そういう場に行けない。


 やっぱり「すべての人が」とか「みんなのための」っていうのは嘘だ。
 私はCFS/MEという病気で体力が極度に衰弱している。だから普段は電動車椅子を使う。そして、オルタナティブなスペースは大体階段の上にありエレベーターはなく、入口は小さくって中は狭い。車椅子で入ろうと思うと事前に連絡して持ち上げてもらってあるいは路上駐車してさもなければ諦めないといけない。小さな劇場では車椅子席はないし、あったとしても最前列の右端とかになる。勿論えいがだったりするとスクリーンは著しく歪み鑑賞は難しい。私は体力がないからリクライニング車椅子じゃないと長時間の鑑賞は厳しいため、椅子を移動するのもなんだかなというところがある。
 当然、中でできることも限られる。あちこち移動して話しかける事はできないし、展示を自由に観て回ることも困難だ。知り合いと一緒じゃないと安心して動けず、結果的にそういう場所に行く事の準備の重圧に私は折れる。人間、お願い事をするのには限界があり、私はお願いを日々普通に暮らすだけで使い果たしている。余分なんてない。
 多くのオルタナティブな場所は、そのカルチャーやマイノリティへの姿勢を誇示する。だけど、カルチャーに関わる人間もマイノリティは健康で標準的な身体を持つ人間だけではない…。場所は常に、意識しない形で人を選別している。繰り返すけど、場所が人を思想で選別する事はある。極度に差別的でない限りそれはある。だけど、健常/障害という選別は多くの場合、意識の外におかれ無視される。
 広く身体的にマイノリティであったりするような人間は多くの場合アクセスできるのは「公的な性質があり莫大な資金が投入された場」に限られてしまう。しかしそうした場は"マイノリティ“にとって居心地がいい場所では無く、必要とするのは資金が乏しくアクセスが悪いオルタナティブな場になる。
 このエアポケット。この矛盾。私はいつもうんざりする。だって、それは制度の問題であり同時にオルタナティブな空間が資金に乏しいという当然のことだ。そうした"障がいがある身体"に対応するには、莫大なコストがかかる。障がいがある人間はオルタナティブな場にアクセスできない。場所を責める事はできない。
 資金ギリギリなオルタナティブスペースに「すべての障がいに対応してほしい、車椅子で行けて腕が使えない人の補助ができて、視覚障がい聴覚障がい感覚過敏、そのほか無数の障がいに対応して」と言う事は難しい。それには莫大なコストがかかる。行政や大資本の場所でさえできてなく抗議のエネルギーはそっちで使いたい。
 だけど、こんな世界にうんざりする。心底うんざりする。いちいち行けますか?とお伺いを立てて感情を消耗していく。うんざりする。アーティストとして研究者としてライターとして、これは大きな機会損失であるということもよくわかっている。


 私はだからめちゃくちゃ嫉妬するし時々本当に悲しくなる。そこには健常で連帯できそうな人たちがたくさんいて、私は声をかけたいけど、大きな壁があってそうできない。壁はマジックミラーで、相手は壁があることなんてわかってない。気付いていない。私は口をパクパクさせる。
それは吐き気がする日常で、出口がない。
 多重するマイノリティ属性を持ち、カルチャーに関心の高い私にとってこの「オルタナティブな場へのアクセスできなさ」は、本当に致命的だ。
東京の多くのイベントスペース、ギャラリースペース、とにかくスペース、には私を受け入れるスペースが多くの場合ない。もちろん、私は色々な人の力を借りてそういうところの幾つかに行ける。それはとってもありがたい。ただそのために「力を借りないと」いけないということがもはやどうしようもなく苦しい。力を借りるたび、貸しが増えていく。無限の借金のように思える時がある。それは気力と一緒に少ない体力を削いでいく。ただ生きてるだけで炎症だかなんだかのせいで具合が悪いのに、そういう調整の負荷を余計に背負わないといけない。面倒だ。
 あるいは、がんばって出かけたのに、色々な不都合が積み重なって入れない、ということもある。嫌になる。

 私はアーティストで美術研究者だと書いたけど、多くの場合私は満足な鑑賞体験が得られない。体が常に苦痛を訴えているから、というのもあるけど、多くの展示は健常な身体を持つ平均的な身長の人間を対象にしている(ところでこの平均的な身長には微妙な性の問題が絡むのだが)。そしてまた、対象は二足歩行する人間で車輪で移動する人間のことは考えられていない。
これは大きな美術展も小さな画廊でも展示も変わらない。車椅子の視点からでは絵の表面は鏡面となって激しく光を反射する。展示台は高い位置にあり、大抵作品を見ることさえ叶わない。仕方がない、けどだからただ悲しい。

 最後に少しだけ希望的な話をしてみる。

2020年8月2日追記
以下ではカオスラウンジの展示について触れていますが、カオスラウンジおよび黒瀬陽平氏らを支持する立場ではないことを強調します。
http://chaosxlounge.com/wp/archives/2655

 2020年のカオス*ラウンジが開催した展示『3月の壁 ──さいのかわら』では東日本大震災の復興の過程で消えていった景色にまつわる展示が行われた(アーカイブなどが見つからないので記憶で書いている)。
 展示会場の入り口にはHouxo Queによるディスプレイの作品が床に敷き詰められていた。震災後、復興の過程で消えることになった東北の賽の河原の洞窟の地面と共鳴する作品で、鑑賞者はこの上を踏みしめ、鎖を頼りに歩いていく必要がある。足場となるディスプレイはミシミシと音をたて、踏まれるたびに複雑な模様を水面として描き出し、割れて砕ける。
 当然ながら、私はそのような形で鑑賞をしなかった。車椅子を先に運び入れてもらい、私は両肩をスタッフや在廊アーティストに支えられて、ちょうど有名な宇宙人のような感じで運び入れられた。
 そこの多くの人が見た鑑賞体験はなく、私は作品を遠くから眺めることしかできなかった。
 ただ、私はその疎外感も作品の一部として受け取ることができた。震災において私はそのような経験をするだろう。そしてそのような経験の帰結として命を落とすかもしれない。作品がもたらす特定の人間への疎外は、作品が描くものが持つ疎外と重なり、大きな音を立てる。見立てられた空間そのものが、作品を通して見える光景そのものが、私を阻害している。車椅子という身体が、そこでは作品と私という狭い関係の間にあるものではなく、より大きなものと私の間にあるものになり、この構図自体を作品は包み込んでいた。
 この鑑賞体験は絶望的で、けど私たちにしか聞こえない。それはある種、絶望感のある希望だと思った。(本当はもっとしっかりこのことを語りたいけどファンタジックポエムになってしまった)


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