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馬の目~奈良公園・荒池のほとりに佇む和食店


1976年
だったと思う。
午後2時を過ぎた頃、新緑の奈良公園を一人で散策していて、荒池のほとりに立つ古民家が視界に入ってきた。わくわくしながら近寄った。

  47年前と変わらないお店の佇まい
2023/10/24撮影


「馬の目」という看板にも惹きつけられた。

薄青色の秋の空に馬の目の文字がくっきり

もうすぐランチが終わる時間だったようで、とても上品で綺麗な女性が 暖簾のれんを片付けようとされていた。

古い大かめ
食事処  馬の目  と書かれた暖簾のれん
ちっとも変わっていない
2023/10/24撮影


「お一人ですか。どうぞ」と店内に招き入れてくださる。
この女性が主人で、料理もされるのだという。
そこからはもう夢の中にいるような心地で、ちょうどそのころ古伊万里など骨董品に興味を抱き始めた23歳の私にとって、馬の目はこんな風に暮らしたいという憧れの空間、理想の空間として輝く存在になった。

店内には古伊万里の蕎麦猪口そばちょこや骨董品の瀬戸大皿が整然と飾られている
2023/10/24

それ以来、夫や母や、母の友人、奈良を訪れた私の友人たちを誘っては食事を楽しんだ。

そのころ住んでいた狭い自宅でも
収集した蕎麦猪口そばちょこをずらりと並べて悦にいっていたものです
2014/09/27撮影

店名の「馬の目」というのは馬の目皿から付けられたそうで、大中それぞれの大きさの幾枚もの馬の目皿が飾ってあり、それは見事な景観だった。

馬の目皿は、江戸後期に庶民用の日用雑器として生産された瀬戸焼きの大皿

渦巻き模様の馬の目模様は、今見てもモダンで力強い

佐藤勝彦氏のダイナミックなお地蔵さんの絵
黒い絨毯 長火鉢 
根来ねごろ塗の座卓 二月堂机 千両箱 藍染古布
2014/09/27撮影

(写真を見ていると、いっとき我が家でも、四畳半の和室に黒い絨毯を敷いて長火鉢を置き、二月堂机を使っていたころもあったな、と昔が懐かしくなる)

奥の厨房からとんとんと包丁の音やしゅわしゅわと揚げ物の音がして、お料理が運ばれる。
丁寧に作られた料理が古伊万里や古いガラスの氷皿に盛り付けられ、口に運ぶとすべての料理がやさしく和やかな味。
名人の冴えわたる包丁の技、とか、和食の極み、とかいうのではなく、もっとほっこり気取らない、心尽くしの美しいお料理だ。

これが私と「馬の目」との出会いだ。

1980年に夫と娘たちと4年間暮らした奈良を離れ、大阪に転勤になった。1988年に大阪を離れ、海外転勤、その後は首都圏で暮らし始めた。
「馬の目」は記憶の中に温かい灯りとなって忘れることなく在り続けた。

2014年秋、夫とのセンチメンタル奈良旅に出かけた。
もちろん昼食は馬の目だ。

色づいた木の葉が寄り添う
古都らしい心遣い
2014/09/27撮影


長い長い年月が流れていても、変わらない佇まいがあった。
女主人ではなく、若いご夫婦。
息子さん夫婦がお店をやっていらっしゃり、料理は息子さんが作っていらっしゃった。

デザートは矢羽根やばね蕎麦猪口そばちょこ
紅玉りんごのデザート
昔から変わらない手作りスイーツに嬉しくなった
2014/09/27

「お母さまはお元気でいらっしゃいますか」
「はい、もう料理はしませんが奥にいて、隠居しておりますが、お花は必ず毎朝活けております」とのこと。

私は昔のシーンを話した。
「ちょうどお昼ごはんが終わるころ、きりりと制服にランドセルを背負った小学一年生ぐらいの少年が、ただいま!とお母様とにこやかに話していた、その少年が今こうしてお店を継いでいらっしゃるんですねえ」

自分たちの思い出と共にあるお店。そういうお店がいくつあるだろうか。
馬の目は私たちにとって、そういう貴重な存在のお店だ。

そして2023年10月。


大阪で久々に夫の同期入社の友人夫婦計6人と会うことになり、ならば奈良にもと足を伸ばすことにした。

江戸三えどさんと遠い親戚筋という縁で
以前江戸三えどさんの離れだった建物を馬の目としてお店を始められたそうだ
2023/10/24


午前10時ごろホテルを出て近鉄奈良駅コインロッカーに荷物を預け
奈良女子大の辺りや奈良公園を歩いて
奈良ホテルを右向こうに眺めてから荒池のほうへと曲がると
変わらない光景が見えてきた
2023/10/24

部屋は以前のような座卓ではなく
テーブル席に変わっていた

蕎麦猪口そばちょこも佐藤勝彦氏の書画も変わらず在る

鹿のオブジェと兎のポシェット


「本日は予約でいっぱいなので、奥の個室をお使いください」と女将。

襖絵も佐藤勝彦氏の作品
外から射し込む光の陰影がはんなり美しい

「最高に贅沢なお部屋だね」

目いっぱい取られた窓から光がさんさんと降り注ぐ
イギリスのアンティーク ドローリーフテーブル&チェア

荒池のほとりの雑木はまだ紅葉していない

奈良ホテルの甍が見える

椅子に腰を掛けるとちょうど
窓から奈良ホテルが見えるという素晴らしい部屋

佐藤勝彦氏のほとけさん
絵付けの壺

琉球グラスのおひやさえもが美しいのです
古裂こぎれのコースターも懐かしい

「やはりお酒をいただくことにしよう」
いつもお昼は飲まない夫、こういう日は特別だもの。
迷わずに白鷹はくたか、夫の一番愛着のある銘酒。
熱燗。

白子の醤油焼き

焦げた醤油の香ばしさ
むっちり濃厚な白子が熱燗にぴったり!

盃を傾けると正午の鐘が聴こえてきた。
元興寺がんこうじさんの鐘です」とご主人。

ああ、熱燗が染み入ります!


せこがにの蒸し寿司
蟹の身の蟹味噌和え

「白鷹、熱燗でもう一合!」
どんどん進みます

佐藤勝彦氏の作陶皿
ちょうどのお酢加減 蟹味噌和えをのせて口に運ぶ


小蕪のクリーム煮
「ちょうど小蕪が出回り始めましたので」


「お造りです」

天然真鯛

もう一品は戻り鰹

ぐじの焼物
紅玉りんご煮物


日本の建築意匠のお洒落なこと
襖絵は佐藤勝彦氏

「よろこぼ たのしも」

お一人で厨房を仕切っていらっしゃるので、かなり忙しいらしく、焼物のあとの食事が用意されるまでずいぶん待ったけれど、まったく急ぐわけでもなし。

「ほんとうにお待たせして申し訳ありませんでした」
とご主人が、香の物、お味噌汁、栗ごはんを並べてくださる。

見るからにおいしそうな秋ごはん

古伊万里染付変形なます皿に盛り付けられた香の物のきれいなこと!

おひつにたっぷりの栗ごはん

秋の幸せを絵に描いたようなお昼ごはんです
しみじみおいしい!

「勝彦さんはいかがお過ごしでしょうか」と夫がご主人に尋ねると
「もう亡くなられました。ちょうど6年前です」と教えてくださった。
奈良に赴任していたころ、何度も取材でご自宅に伺ったことなどを夫が話し、しばらく勝彦さんの思い出話をする。
季刊「銀花」第24号の第24号「佐藤勝彦現代仏道人生」特集号に挿入するため8万5千枚の肉筆画を描かれたその本を、今も大切に持っていること、骨董品の収集家でもあり、よく「棚買いの佐藤」と骨董屋から呼ばれていたことなども、懐かしい。

ババロア キャラメルソース添え
やっぱり矢羽根やばねの蕎麦猪口です


帰り際に女将に「お義母さまはお元気でいらっしゃいますか?」と訊ねた。
「はい、もう91歳ですが、とても元気にしております」とおっしゃる。

夢の中にいるような、まだ1976年ごろの時間にいるような、ただただ懐かしい時間が過ぎた。

奈良公園を歩く。

浮見堂

奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺きひわだぶ、八角堂形式のお堂

観光客を避けるように、高畑方面に歩く。

ささやきの小径こみち

「娘たちが幼かったころ、友達とピクニックにも来たね」
春日大社の境内を横切る。

長女のお宮参りは春日大社だったね」

なるべく観光客の少ないエリアを二月堂に向かう


まだまだ日没には時間がある。
もう一時間以上歩き続けている。

何度眺めただろうか、この絶景を
春、夏、秋、冬
午後、夕暮れ、日没のころ


近鉄奈良駅に着いた。
特急で京都に向かい、伊勢丹でお弁当とビール、日本酒を買って新幹線で帰路につく。

忘れられない店がある。


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