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ニューヨークの桃太郎 銀座花伝MAGAZINE Vol.42

#ニューヨーク #桃太郎 #源吉兆庵   #フルーツ菓子 #魯山人 #蛍


店主との散歩はワクワクする。

先日も銀座柳通を月光荘の店主とそぞろ歩きをしていた。ニューヨーク暮らしを長く経験してきた店主は、

「自分の店は銀座8丁目にあるでしょ。この柳通りは1丁目。ショートトリップしたみたいな気分になるよね。雑踏の喧騒あふれるニューヨークも魅力的だけど、銀座は街路樹がおおらかでいいなあ」

などと思い出話をしながら、銀座の魅力を語ってくれる。

と、突然立ち止まり大きく振り向いた。

「嬉しいなあ、月光荘のバッグが、ほら・・・」と目を細めた。

視点の先を辿ると、イエローカーキのゼッケンバッグが歩いている。
ブランドロゴの「ホルンマーク」が楽しそうに揺れている。若者と思いきや、シルバーグレイのご夫婦が手を繋いで駅に急いでいるように見えた。

「街歩きって、これだから、やめられないんだな」と嬉しそうに呟く。

筆者も同感。

街には人それぞれの「ここだけの話」が溢れていて、その「気」が風に乗って人の心に感動を運んでくれるのだ、そんな発見に感謝したくなる。

ニューヨークにフルーツ和菓子の「道」を開いた創業77年「源吉兆庵」を特集する。創業者から4代に手渡された「美意識」の元に横たわるのは、「魯山人」「自然」「郷土岡山の風土」。銀座本店女将の語りを辿りながら、父から伝えられる「大切な教え」に、発展の道筋を発見して行く。
「ギンメシー銀座女将の昼ごはん」コーナーでは、源吉兆庵4代目女将の昼ごはんをご紹介する。


銀座は、日本人が古来から持ち続ける「美意識」が土地の記憶として息づく街。このページでは、銀座の街角に棲息する「美のかけら」を発見していく。


ミキモト牛乳パックビルと街路樹


1. 特集 ニューヨークの桃太郎                    ー創業77年 源吉兆庵「美」の社会貢献ー


プロローグ

コロナ禍前にニューヨークを訪れた時の話。
MoMAことニューヨーク近代美術館を後にして、セントラルパークの芝生に腰を下ろした。そして目を上げると、高い樹々の遥か先に摩天楼のビル群が見えるという、この街の世界観が迫り来るような宏闊な眺望に、眠りから覚めるような衝撃と驚愕を覚えたのを記憶している。

それは、大海原にも見える新緑の波(芝生と樹々)の彼方に、高い帆を揚げた華麗な船が浮かんでいるような景色に見えた。堂堂たるビル群の容態の美しさに胸踊らせながら、一方でこの街に巻き起こっているダイナミックで凄まじい競争を思い浮かべたからかもしれない。

この街で日本からやってきた芸術家たちは、大いなる挑戦をし、挫折を味わい、一握りの人間が成功を手にした。そんな人々の情熱、夢を具現化してきた力がこの眺望に込められているように思われて感動したのだろう。

ロックフェラーと魯山人と

腰を下ろしたところから少し高いところに上がると、ロックフェラー・センターが鮮明に見える。ロックフェラーといえば、石油王を経てアメリカの実業家として成功し、石油業から生じる利潤を鉱山、山林、鉄道、銀行に投資し一大財閥を作り上げた人物である。彼は事業をロックフェラー二世に譲って実業界から退いた後、ロックフェラー財団を設立し、教育、研究、文化などの慈善事業に傾注したことで知られる。
セントラルパークから見える天を衝くようなビルのフォルムは、栄冠を手にした成功者の生き様そのままに堅強で眩しい。

このロックフェラーが支援を申し出た芸術家といえば、書、篆刻、陶芸、美食等に秀でていた北大路魯山人だった。
1954年(昭和29年)、北大路魯山人はその当時日米協会(ジャパン・ソサエティ)の会長を務めていたロックフェラーの招聘で渡米し、ニューヨーク近代美術館での「魯山人展」をはじめヨーロッパ5都市巡回展覧会を開いている。「天上天下唯我独尊」を貫いた孤高の芸術家で知られる魯山人は、財団からの資金援助を辞退し、旅費から滞在費まで全て自己資金で賄い、それどころかニューヨーク近代美術館を初めとする世界各地の美術館に自身の作品を「寄贈」したという彼の強い芸術観と破天荒な人間性を表すエピソードは有名である。その上、魯山人にして、日本の「もてなし文化」精神を世界に示した最初の人物だった、という評価もある。

魯山人の「もてなしの心」

その魯山人のこんな言葉がある。

「今日本が世界の人々に見せ、自慢し、誇り得るものは何か。それは、祖先たちの残していった芸術だけではないか。しかも、日本が大切に自慢しているそれらの芸術品や文化は誰が造ったか。それを残してくれた人々は、貧乏と戦い、人々にのけ者にされ、国家からの何の援助も受けずに、それを残していったのだ。それらの人々は、迫害と貧困の中から戦いぬいて、立派な芸術作品を残していったのではないか」
          語録「芸術家の境涯」(「独歩 魯山人芸術論集」)

魯山人の矜持は、その後大きな借財を生むことになるのだが、日本人が創り上げてきた「美」に敬意を払って余りある心情を感じる。

その魯山人の精神性に強く惹かれ、魯山人の作品を蒐集して一般に公開する美術館を公開するなど、日本文化貢献に邁進する和菓子店がある。銀座中央通りに和風デザインのビルを構える「 源吉兆庵」である。この店は、創業者夫婦二人岡山の自宅の一角から商いを興し積年を経てから77年、日本国内におおよそ150店舗、国外30店舗を展開するまでに発展成長してきた。「日本の果物菓子」という新分野を創り上げ、2021年4月にニューヨーク・ロックフェラー・センターに程近い五番街に不動産を取得し、2023年2月には自社ビルを竣工、アメリカを初め世界に日本菓子文化を発信する聖地としてさらに羽ばたこうとしている。

魯山人のもてなしを心の範とし、創業の地 果物王国「岡山」の勇者・桃太郎伝説よろしく、自然の恵みを自家栽培で創りながら発展を続けている、この専門店の和文化貢献経営にはどのような美意識が育まれてきたのだろうか。

その物語を紐解いてみよう。



◆「源」と魯山人

今から15年以上前のことだ。その頃、宗家 源吉兆庵の銀座本店ビルは銀座7丁目の中央通り沿いに建っていた。(因みに銀座本店は2001年開業、この年は、魯山人作品を揃えた鎌倉・吉兆庵美術館が開館した年でもある)2019年に6丁目に移転するまでの間、、何度か筆者が企画する「銀座散歩ライブ」の一環として、銀座文化講座をその場所で開かせていただいていた。ある日、筆者はこの店で魯山人の作品と目を合わせる事になる。

当時1階には果物菓子を販売する直販エリアがあり、その5階には和食懐石などを味わうことができる白木造の見事な和室が設えてあった。14名ほどが座すことのできる部屋の一隅に、精強でありながらどこか暖かい「書」の掛け軸がそなえられていた。味のある良能の美書とでもいうのだろうか、嘘偽りのない書いた人間の姿そのものが照らし出されるような迫力があって、しばし息を呑んで目を凝らしたことを覚えている。

そこには、額墨書が一字、

「源」

とあった。

魯山人の書に出会うのはその時が初めてだった。稀代の陶芸家、美食家としての魯山人は実力相応に語られることが多いが、実は、彼が世に出た初めは書家だった。伝記によれば、幼年期に養子に出された魯山人は、丁稚奉公に出ていた10歳ごろ、使いの途中で仕出し料理屋「亀政」の行燈看板の一筆書きを見て「これが藝術だ」と幼心にも感嘆、そして描線の暢達さと垢抜けした絵の洒脱さに魅せられてそれに執心し、15、6歳の頃には京都で独学にて「書」をしきりに研究していたというのだ。魯山人が心奪われたその一筆書きを書いたのは、当時の京都画壇の総帥・竹内栖鳳(せいほう)だったというから、幼き頃より魯山人の審美眼は並外れていたものだったことが伺える。
養子家の生業であった木版の仕事を手伝いながら、「一字書き」に応募し続け書の腕を磨き上げ、次第に才能を見出されていったのである。

目の前の「源」には、貧しさや逆境にも負けない芯の太さと同時に、生気あふれる弾力が迸る人間力が溢れていて、観る者を魅了してやまないと感じる。

一字書き「源」にとりわけ心奪われた人物が、「源吉兆庵」2代目岡田拓士社長(現会長)だったのである。

それ以来先代は、魅せられた魯山人の書を皮切りに、自身の美意識の拠り所となる数々の作品蒐集に力を注ぐようになったと聞く。

因みに、「源」の語源には、「書」と「蒐集」それぞれに紐づく説があるという。「書」は、古代中国においては、地下水や、川の水が湧き出る場所を示す「」(ミャクあるいはきょく)に由来している。
一方「蒐集」に紐づく説では、「爾雅」(じが)にある「源」(げん)の記述によると、「古代の医療行為であった草木の蒐集」を指す言葉とされている。つまり、中国古代の考え方として「源」は、「水湧き出る場所」と「草木を蒐集する場所」を併せ持った意味を包含していたようである。

【豆知識】「爾雅」(じが)
中国最古の辞書。三巻。経書、特に詩経の訓詁解釈の古典用語を収集整理したもの。紀元前二世紀頃成立。現存の書は釈詁・釈言・釈訓など一九編に分類されている。十三経の一。


◆魯山人芸術の地・鎌倉で         ー吉兆庵 美術館設立へー


魯山人といえば美食追求の実践の場として、鎌倉に美食倶楽部・星岡茶寮(ほしがおかさりょう)を立ち上げたことは有名だ。明石の鯛を空輸させたり、丹波の鮎を生きたまま汽車で運ばせたり、昭和初期という時代では考えられない食材の運搬方法を用い、金に糸目をつけずに食材を吟味した様子ばかりが伝えられる向きがある。しかし実は、なるだけ手をかけずに持ち味を生かす料理法こそが彼の真髄であり、そして「捨てるような部位に美味を発見して大切にした」という。まさに、現代風にいえば食物の真の美味しさはSDGsにありと、当時から確信していたのである。

「料理する心」(雑誌/星岡62号/昭和10年)の中で魯山人は「ごみをだすな。すべて食べられる」と料理人に向けて繰り返し発しているが、その真意は吝嗇(りんしょく:ケチ)のなせる技ではなく、独自の味を大切に料理をしろという意味だったと述べている。隅々まで食材を使い切り、最高の料理を作る。そうやって生み出された料理にとって、仕上げの眼目は器である。「器は料理の着物」の言葉通り、自ら最適な器を創り上げて客をもてなす。それこそが「もてなしの心」だと魯山人は述べている。

そうした魯山人の陶芸、美食を実践を通じて芸術にまで高めた土地といえば鎌倉である。2代目に始まる「北大路魯山人」の作品の蒐集はやがて約20点に達し、常設展示ができる美術館を開館させるまでにこぎつけた。地域の人々と共に魯山人芸術の情熱を共有したい、その一念が実を結んだ。この美術館を訪れると、料理を装う「食器」をはじめ、花器・書画・漆工芸作品等、多岐にわたって才能を開花させた魯山人の精魂込めた作品を鑑賞することができる。

【鎌倉 吉兆庵美術館】現在公開中

生誕140年記念 北大路魯山人展 
-高級料亭「星岡茶寮」を訪ねて-


 


 鎌倉
吉兆庵美術館


◆店主がときめかせる 和菓子と器 美一点

菓子の元は、弥生時代に始まる。当時果実の甘味は特別なものとされ、間食に果物や木の実を食べる習慣が生まれ、「果子(かし)」が菓子となった。その謂れそのままに、果実の姿、形、味わいを丸ごと生かし仕立て上げた和菓子を考案し、自然の素材が生きる技を改良し続けてきたのが「源吉兆庵」である。

もてなしの心をのせる

魯山人の名言「器は料理の着物である」の言葉に寄り添い、高級和菓子に合う器を選び提供するのも、源吉兆庵の唯一無二の美意識である。
四季の風情を一皿の小宇宙に描く、そうした研ぎ澄まされた感動をお客様にお届けしたいという思いがそこにはある。 

源吉兆庵を代表する果物菓子の一つといえば、国産干柿を使った「粋甘粛」(すいかんしゅく)である。干柿を丸ごと一つ使うという贅沢さと、収穫から製法までこだわり抜いた菓子作りが貫かれている。(季節限定品)
筆者も大切な方への贈り物に選ばせていただくことが多いが、受け取った方はきっとまず菓子を切った時の果肉の美しさに驚かれるだろうと、密かにほくそ笑んでいる。食指が踊ること、干してなお残る飴色と瑞々しい肌合い、干柿が醸し出すもっちりした舌触りとふわっと鼻に抜ける甘味、これらは全て栽培土地の昼夜の寒暖差によって生まれるものだと聞く。
選び抜いた干柿にさらっとした白餡が絶妙に溶け合って、一粒で高級なデザートを食した時以上の満足感が得られる逸品である。

この「粋甘粛」が似合うのは、やはり日本の季節への賛美や深い色相を醸し出す魯山人の器だ。
果実は「自然美の命」を宿すということを実感する菓子と器の組み合わせ。果実の生命力、味わいを損なわずにそのまま残すその姿には、先人からの芸術に係る学びや遊び心までも感じられる。


          店主が選ぶ 魯山人器で装った果実和菓子                          「粋甘粛」/ 器「伊賀釉シノギ八寸 (北大路魯山人)」/ 所蔵先「岡山・吉兆庵美術館」        



◆人間力を育てる和菓子店 女将の奮闘
 ー「桃太郎」が生まれた土地からー


銀座7丁目から移転して銀座6丁目中央通りに、新たに「宗家 源吉兆庵」ビル(新本社ビル)が竣工したのは2019年頃のことだ。2015年に3代目源吉兆庵ホールディングス代表取締役社長として岡田憲明氏が就任し、建築からも日本文化を発信したいと願う心意気が、和紙クリエーター堀木エリ子氏による和紙の風合いと日本の吉祥紋を凝らした和文化ビルを生んだ。この間の2016年頃といえば、銀座では西洋レストランの数より和食店の数が上回るという転換期を迎えた時期。また、数寄屋橋に立つ「東急プラザ銀座」の「江戸切子デザイン」ビルや、銀座5丁目の「銀座プレイス」の「伝統工芸・透彫り」をモチーフにしたビル、そして、「GINZA SIXビル」の「日本のひさし」の建築デザインなど銀座の街全体に日本文化へ大きく舵を切る潮流が起きた頃のことである。

源吉兆庵が果物菓子を広めようとする姿を追っていて興味を持つのは、伝統が深く根付く老舗和菓子業界が多い中で、この専門店は実にフットワークが軽いことである。さらに、「自然の恵み」である「果実」にこだわり、自家農園を作りながら、その品質において妥協しない菓子作りを会社全体の精神性として保ち続けている点である。

一体その推進力の源には何があるのだろう。創業の地に残る、土地の記憶と何か関係がありそうだと岡山と和菓子店との繋がりを追うことにした。

源吉兆庵・銀座本店女将、3代目岡田社長の長女・岡田佳子さんは、日本から世界へ和文化を発信する担い手として日々奮闘している。2023年2月に開催した「美しく生きるー銀座三大女将の美意識ー」銀座五感散歩ライブでのお話やその間取材で伺ったお話を辿っていくと、この果物和菓子店の歴代店主の中に深く根ざした覚悟とそれを支えてきた「大切にしてきた教え」が浮かび上がってきた。


土地柄

少し話は脱線するが、創業地・岡山の風土を見てみよう。

岡山は、「晴れの国」と呼ばれる。日本でも有数の日照時間を誇り、風光明媚な瀬戸内海を抱いた気候は、温暖で穏やか、豊かな自然に恵まれ、四季を通じて様々な果物が収穫できる土地柄から「桃」に代表される「果物王国」として大変有名である。
加えて、古に「吉備」と呼ばれた岡山には、日本人ならば誰もが知るあの昔話が遺されている。


玄関口となる空港は「岡山桃太郎空港」、桃太郎伝説のゆかりのスポットが多いJR吉備線の愛称は「桃太郎線」、JR岡山駅から伸びるメインストリートは「桃太郎通り」と名付けられ、その通りには鬼退治を共に戦った仲間達の像が点在していることでも知られている。まさに桃太郎伝説が現代に息づく土地柄である。


「桃太郎」に学ぶ

桃太郎の話の原型は、室町時代以前、鎌倉時代初期の軍記物語『保元物語』(ほうげんものがたり)だという説がある。


【豆知識】保元物語                         保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦に端を発して、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変、「保元の乱」を扱った物語で,初めは保元の乱にまつわる逸話を集成したような形であったものが琵琶法師などの手によって語り物として抒情性の豊かな一貫した物語に成長したといわれる。なかでも源為朝の英雄ぶりが印象的で,江戸時代後期の滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』など後代の文学に影響を与えた。

古くから岡山県で語られる「桃太郎」の元になっている伝承をたどると、古代史まで遡る。吉備津神社(岡山県岡山市、備中国一宮)の縁起によると、第七代孝霊の皇子:『古事記』(712年)では大津日子命、『日本書紀』(720年)では吉備津彦命(キビツヒコノミコト)が、異国の鬼神百済(くだら)王子:温羅(うら、うんら又はおんら)を討ったとされる。

これが桃太郎のモチーフになっていると一般に考えられている。因みに記紀においては「吉備を平定した」旨の簡素な記載である。

桃太郎のあらすじ

日本人なら一度は聞いたことがある昔話「桃太郎」。あらすじを簡単にいえば次のようである。
「桃から生まれた男の子・桃太郎が成長し、悪い鬼たちを退治するために、おばあさんに作ってもらった吉備団子を腰に下げ、犬、猿、雉を仲間にして旅をする。 鬼ヶ島へのり込むと、鬼たちは酒盛りの真っ最中。イヌは鬼に噛みつき、サルは鬼をひっかき、キジは鬼の目を突き、桃太郎は、金棒を振り回す鬼の大将と刀で戦い、ついに鬼は降参する。鬼ヶ島を制して英雄になった桃太郎たちは、鬼に奪われた財宝を持って村へ帰り、家族とともに楽しく暮らした。めでたしめでたし。」


伝わる人生の道標 ー三つの教えー

土地の記憶からくる昔話が持つ象徴を辿るとそこに大切な教えが横たわっていることを発見する。
「桃太郎」は桃太郎をヒーローとした勧善懲悪の話だが、実はその中に人生の道標となる教訓が込められているという。起きた事柄や登場人物の意味を紐解くと次のようだ。
ここでいう鬼退治とは、「社会の厳しさに立ち向かう」ことを指す。社会の荒波に出ていく時に持たされるキビ団子は、社会に出るにあたって贅沢をしないで「質素」の心を大切にせよ、との心得。旅の途中で仲間になるイヌは、「三日飼われた恩を三年忘れない」(恩を忘れない人間)サルは、「猿知恵が働く」(知識だけでなく知恵を働かせることのできる人間)キジは「敵から家族を守る鳥」(勇気のある人間)。この三つの心得を身につけることでもたらされるとは、人としての「信用」である。長い人生の上で、信用さえあればどんな苦労も乗り越えられると教え、それを身につけて故郷に帰り親孝行をしたという物語である。

「桃太郎」の深底に潜むものを紐解くと日本人が求めてきた「人としてのあり方」に出会うことになる。筆者が、この昔話の紐解きの中で特に心惹かれるのは、一見役に立ちそうにないが、1人、3匹それぞれに特技があって、それを生かして戦うシーンである。

そこには「誰でも得手不得手があるが、それぞれ個性を発揮して足りないところを補い合い、協力して行こう」という仲間の尊重、信頼がある。

さらに物語の冒頭にお婆さんが川で拾うのが「桃」である。「桃」には邪気を払うという意味があるから、そこから生まれた「桃太郎」にどこか神性を感じるのにも合点がいく。その仕掛けも実に面白い。




◆創業者が始めた、菓子屋「桃乃屋本舗」


話を源吉兆庵の歴史に戻そう。

創業者岡田寅太郎は、元々は海外航路の船員だったという。太平洋戦争により海外航路の往来が縮小したため、終戦後、地元・岡山に戻る事になる。生きる糧を求めて興したのが和菓子店で、1946年に開業した。たまたま砂糖や小麦粉が多く手に入ったことで最初は饅頭などの菓子づくりから始めていったが、戦後の食糧不足の時代、干柿が貴重品とされるほどに人々は甘いものに飢えていたこともあり、この和菓子はたいそう人々に喜ばれたという。その後卸や土産菓子製造を手がけながら、「岡田製菓」から「桃乃屋本舗 」へと屋号を変え、次第に果物を使った高級菓子はできないかと知恵を絞り技術力を高めていった。


大切な父の教え

銀座女将の岡田佳子さんに、父である3代目岡田社長から学んでいる「心得」について伺うと、銀座本店の運営や新規の商品開発、情勢に鑑みたマーケティング等について課題を出され、それにスピード感と質を求められることから、まさに激走し続けているという毎日の状況です、と笑いながら話される。どの部署のスタッフも同様に日々進化するために自己鍛錬が強く求められる職場だという。

「父からの教えとしてよく言われるのは、

●健康であること 
●謙虚であること 
●質素倹約 
●世の中の情勢を見て、常に対応すること 
●自主努力を惜しまぬこと

ということ。
特に、健康と質素倹約は、自らの毎日の生き方に反映することなので、具体的に暮らしの中で自分に課す努力をしています」

コロナ禍の苦境を超えて

未曾有の被害をもたらしたコロナ禍、和菓子業界など専門店に及んだ被害は銀座でも甚大だったと聞く。逆風をどう乗り越えたのだろうか。

「あれはリーマンショックの1年前でしたが、他社の偽装問題の煽りを受け売り上げが3割もダウンした大変な時期がありました。その時に最も大事にしたことは、無駄な支出の見直し。それらを一つづつ最優先で克服することで、自分たちの経営の美意識の軸をずらすことなく、V字回復することができました。その後リーマンショックが起きるのですが、幸いその時の取り組みが功を奏して、大きく影響を受けることもなく乗り越えられたという経験があります」


「コロナでは約200店舗が休業に追い込まれたのですが、日本の文化を和菓子を通じて国内外に発信していくことが私どもの企業の夢なので、ニューヨークを始め、ロンドンや台湾、シンガポールなど約30店舗を展開し、和菓子の可能性を追求し続けることにさらに大きく舵を切ってきました」

ーコロナ禍では、嗜好品は「不要不急」と位置付けられ、菓子の価値観も随分変わりました。

「本当に、コロナによって、時代の変換を体感しました。コロナが解決しても菓子のあり方としてこれまでのギフト(儀礼的なもの)は減って、人々の生活に密着した暮らしのリズムに組み込まれるようなあり方を模索していく必要があります。
健康志向の中で、日常的に取り入れられる果実菓子、和菓子から展開できる新しいジャンルを今色々開発中です」

3代目の毎日は、研究開発された商品をチェックすること。そのためには健康維持が一番で、朝の朝礼でのラジオ体操、自らに課している筋トレ、ストレッチを毎日欠かさないというライフスタイルを続けているという。そんな父親の姿を傍で見ながら、佳子さんは健康に寄り添う果物のあり方、和菓子の新しい顔を生み出すアイディア作りに奮励努力されている。


海外での日本文化発信

ー海外店舗では「お茶会」を開かれているそうですね。

「ニューヨークやロンドン、東南アジアでは台湾、シンガポール、ベトナムなどでは、月1回「ティーセレモニー」(お茶会)を開催しています。実際に店内でお茶を立て、スタッフが全員着物でお茶の頂き方をレクチャーして、お客様にお茶を味わっていただくワークショプでもあります。海外の方にとって、日本文化であるお茶と和菓子をともに体験できる機会。手軽に店内で開催していることで大変喜ばれています」


宗家 源 吉兆庵 台北南京西路本店 お茶会の様子


社員一人一人が生きがいを感じる ー個性を発揮する職場

ーコロナ禍でも社員を一人も辞めさせることなく乗り切られたとか。

「この点はとても自慢なのですが、むしろ、多くの、働きがいを持って仕事に向かい長く勤め続ける社員から私自身が元気をもらいます。ですから今回のコロナ禍でも社員を減らすことはなく、なんとか乗り超えてこれたんだと思います。それは、自社で栽培から商品化、流通まで生産拠点を持っていることも大きいと思います。

例えば、愛媛宇和島工場は果実の一時加工を行い、自社栽培以外の提携農園では果実栽培、鳥取工場では主に鳥取県産物を使った菓子作り、鳥取・米子大山工場では、大山山麓の地下水を使った餡作り、築港工場ではベーカリー製造と、愛媛県に1箇所、鳥取に2箇所、岡山県に4箇所、そして自家農園。適材適所、社員の生きがいにつながる励みが生まれているんだと思います」

まさに、源吉兆庵には「桃太郎」の協力し合う仲間の大切さ、乗り切る力という教えが息づいている、そんな実感を覚えた話しの数々だった。


◆「自然」の恵み 自家栽培から生まれる「一粒」

「ぶどうの女王」

源吉兆庵では、果物が育ちやすい肥沃な土地と気候を背景に、果物をさらに和菓子に相応しい品質を求めて様々な取り組みをしている。中でも驚かされるのは、女将の話にも出ていた自家農園を作って、社員皆で栽培から商品化まで一貫して取り組むという挑戦である。
源吉兆庵、唯一無二の数量限定・夏の菓子「陸乃宝珠」(りくのほうじゅ)。翡翠にも喩えられるマスカット オブ アレキサンドリアは、エジプト原産でクレオパトラが好んだことから”ぶどうの女王”と呼ばれ、気品溢れる風味と上品な甘さには定評がある。特に温暖な気候の岡山県産は質の良さで評価が高く、それを一粒包んで和菓子「陸乃宝珠」は出来上がる。その一粒は和菓子に合うように特別に育てられ、糖度や大きさの基準をクリアしたもののみが使われている。マスカットならではの涼やかな甘味と酸味をうっすらとした求肥に閉じ込めた逸品である。


自社農園での取り組み


毎年3月中旬になると、たくさんの実を着けた「マスカット オブ アレキサンドリア」を選別しながら果物菓子にふさわしい一粒に育てるための摘み取り作業が始まる。4月には、実もしっかり育ち5月には収穫の日を迎える。使用するマスカットは温室で「早期加温栽培」をするため、経験と知識がものを言う世界。それもあって、これらの栽培工程も自社農園で行っている。
そこにも、働きがいを重視したスタッフ育成の気概を感じる。


源 吉兆庵農園 収穫時の作業風景



◆銀座から文化貢献 ー銀座で源氏ボタルー


店舗というのは、ブランドの顔であり店格を競うステージである。銀座という街は日本初のショーウインドウを生み出し、歴代の老舗店主たちはそこで発信するのは「商品」ではなく「文化」であるとする、「文化経済」を誇りとした街づくりをしてきた。

そんな銀座の街も驚いた、源吉兆庵の文化貢献が銀座の夏の風物詩「源氏ボタル観賞会」である。
平安時代、貴族が楽しんだ蛍狩は、江戸時代になって庶民にも広まった。蛍を追う姿や虫かごに入れて楽しむ光景が当時の浮世絵にも多数描かれている。

銀座は江戸時代には周囲を海に囲まれた日比谷入江に浮かぶ小さな島であった。家康が銀貨の鋳造所を作るにあたり、入江は埋め立てられ職人街が出現したものの、水路豊かな街並みは残り、初夏には街路の柳に蛍が飛びかったと伝えられる。


銀座で開かれる「源氏ボタル観賞会」は、源氏ボタル600匹を銀座本店内で放ち、今は昔に思いを馳せて頂こうという試みである。2004年スタート、今年で18回目を迎える。2019年には会期中2,000名以上が長蛇の列を作るなど、今や大都会銀座の風物詩となっている。
ここにも、源吉兆庵の日本文化発信の姿勢が表れている。


宗家 源 吉兆庵 銀座本店 源氏ボタル観賞会の様子(イメージ)



2023年「源氏ボタル観賞会」開催期間 6月5日(月)〜11日(日)


エピローグ

魯山人が「和の美を問い続ける」芸術家ならば、源吉兆庵は「果実の美を求め続ける」専門店であると言える。

双方の求める「美」の奥義は「生命」だ。

魯山人が自ら使うために生み出した美しい器は、吉兆庵の生活に密着した暮らしのリズムに組み込まれるような果物を活用した和菓子とともに、さらに世界へ受け継がれていこうとしている。

ニューヨーク・セントラルパークで眺めたビル群に心奪われたのは、改めて思うと、そんな人間の熱い営みに対する畏敬の念と感動だったのかもしれない。

銀座ではもうすぐ「源氏ボタル観賞会」が始まる。と同時に、6月上旬より自家製農園で一足早く収穫された貴重なマスカットの「テリーヌ」を食すチャンスもあるという。

菓子は確かに人にとって不要不急かもしれない。しかし、人の心にとってはいつもそばに置いておきたい、「命の源」である癒しの時間そのものに違いない。


「香り豊かなマスカットのテリーヌ」 カフェレストランK.MINAMOTO



2 .   ギンメシ 銀座女将の昼ごはん

働く人々誰にでも等しく訪れる、昼食の時間。銀座老舗店主たちはどんな昼ごはんで午後の商いの活力を生み出しているのだろうか。

筆者には、店主や女将の昼ごはんからその方の仕事の美意識や人生が見えてくる面があると信じているところがあるので、いつも必ずさせていただく質問がある。

「お昼ごはんはどうされているんですか?」

銀座の多くの専門店・店主が日々の商いに忙殺されて、昼休みを取ることすらできないという話はよく聞くが、それでも時間をやりくりしながらこだわりの昼ごはんの時間を大切ににしている姿に出会うことができる。

今回は、源吉兆庵 銀座本店・岡田佳子女将に、ご自身の昼ごはんについてお話を伺った。


「食を大切にする」女将ならでは

佳子さんは、源吉兆庵が目指す日本の「食文化」推進のための「食育」にも熱心に取り組んでいる。例えば、和菓子の主役とも言える「あんこ(餡子)」について、日本に古来から伝わる小豆など素材の種類や煮詰め方の調理方法を伝える教材制作を手掛けている。食生活がファーストフード化し、あんこを実際に食べたことのない子供が増える中、絵を駆使した冊子は子供たちに「自分の国の菓子文化」を伝える教材として大変分かりやすいと学校図書館などにも置かれ、大変好評だという。

ご自身の食生活について伺ってみると、旬の野菜、栄養バランスを考え抜いた岡田家の定番メニューは、祖母、母、ご自身と受け継がれている「朝食」にあるんです、と話される。

「野菜たっぷりの「スムージー」、胃腸に優しい「卵がゆ」、腸内環境を整える「ヨーグルト」の3点セットが我が家の朝食メニュー。特にスムージーは、酢とりんごをベースにケール(または小松菜)、ゴーヤー、にんじん、しそ、完熟トマト、レモンをアレンジしながら毎日摂取していて、運動とともに家族にとって欠かせない“習慣”となっています」

徹頭徹尾、「健康は毎日の心がけから」を実行している。


健康は、手作り弁当で

健康を大切にする食習慣を持つ佳子さんにとって、昼食はとても大切な時間だ。どんなに忙しくても必ず手作りする手間を惜しまない野菜中心の「弁当」に表れている。5月のある日のお昼ごはんを覗かせていただいた。

それは、お手製の弁当だった。彩り豊かな旬の野菜が、素材を生かしながら多様な調理方法で詰まっている。このほかにお手製の「鶏の唐揚げ」が添えられていて、タンパク質補給も忘れない。純朴で実直な人柄を感じさせるハンドメイド弁当である。決して量は多くはないが、ゆっくり咀嚼し野菜の新鮮さと栄養の調和をじっくり味わえる、そんな食事シーンを感じさせてくれる。

銀座女将 野菜たっぷり弁当



自然は繊細で美しい。その生命力を大切に扱い、美意識を持って生かそうとする源吉兆庵の志を継ぐ女将の地道さに頭が下がる。
そこには、「大地の命をいただく」という感謝の気持ちと、「体を労る」精神が隅々まで息づいていると感じるからだ。佳子さんの果実と向き合う商いへの真摯な情熱を実感した昼ごはんの一コマだった。


松屋通りの街路樹



3. 編集後記(editor profile)


銀座は、歴史の偉人たちが闊歩する街であると言われる。

北大路魯山人はその代表格である。これまでの「銀座五感散歩」では、魯山人デビューの名店「黒田陶苑」で、実際にその臨場感を手のひらで感じる体験をさせていただいた。名だたる料亭では、店主から魯山人との交流物語を直に伺う幸運にも恵まれた。中でも、鮨の名店「久兵衛」には、魯山人ギャラリーがあって、幼少の頃に魯山人に可愛がってもらったエピソードなどをユーモアたっぷりな洒脱な語りで楽しませていただいた。割烹「中嶋」では、誠実な語り口調のご主人から繊細な和食と器との数奇な出会いについて貴重なお話も伺った。これらの体験から参加者は魯山人を随分と身近に感じることができた。

共通していたのは、偉人を通じて、老舗店主たちは自らの美意識に磨きをかけているということである。

魯山人が自らの美意識について語った、ニューヨーク州立アルフレッド(陶芸)大学の講演の中での言葉に突き動かされる。

「私が作ります陶器は殆ど機械を無視して、心の芸として、心の美だけを頼りにし、常に美術眼から見た自然美を親とし、師と仰ぎ、それによって学び、美術価値を至上主義としての陶器を作り出さんとしております。
陶器におきましても、あらゆる芸術と同じように人の心を打ち、人の心に喰い入るのでなければ価値のないものと思っております。」

 今回の源吉兆庵の美意識の根幹にある魯山人「源」書と店主との衝撃の出会い。まさに、自然美を親としてフルーツ菓子の世界を創出する「道」を切り開いた道のり。そこには、地元岡山が産んだ歴史や風土と共に日本のソールフード和菓子の未来を感じさせてくれる心意気が感じられた。
  

本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

          責任編集:【銀座花伝】プロジェクト 岩田理栄子

〈editorprofile〉                           岩田理栄子:【銀座花伝】プロジェクト・プロデューサー         銀座お散歩マイスター / マーケターコーチ
        東京銀座TRA3株式会社 代表取締役
        著書:「銀座が先生」芸術新聞社刊
                              




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