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冬の和歌9・定家絶唱

これは絶唱というのに相応しい和歌でしょう。日本の和歌史にも燦然と輝く新古今和歌集の精神を代表する名歌。

駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ

まあ言葉もないよね。完璧な歌。解説も要らないか、という気もするんですが。

まず、この歌には難しさがない。捻った言い回し、複雑な掛詞等もなく、漢文や古典の知識も必要ない。技法としてはせいぜい体言止め程度です。
本歌はありますが、本歌がないと意味が取れないタイプの歌ではありません。
「佐野のわたり」の解釈で多少諸説ありますが、鑑賞に難をきたすほどではありません。
非常に簡素で平明な姿の歌です。余計なものが何一つない。


まず「駒とめて」。とめて、と言うことはここまで馬に乗って歩いてきたのです。この一句に旅人が歩んできた時間が含まれており、一時停止ボタンが押されたように時が止まります。

「袖うちはらふ」。冬、馬に乗ってきた人が袖を払うといえば雪。袖に降り積もるほどの雪ですから、厳しい寒さを感じさせます。

「かげもなし」。この三句目で急に転換する。袖を払う物陰はないのです。景色は辺り一面隙もなく雪に覆われていることがわかります。それどころか「影もなし」と重なって主人公だったはずの旅人すら雪の中に消えてしまっているのです。
馬を止めて袖を払うかげがないのですから、旅人はそれが出来ずに忽然とここで姿を消します。

「佐野のわたりの雪の夕暮れ」
下の句ではもう人も馬も気配はありません。この「佐野のわたり」がどこなのかについては諸説あるので難しいことは置いておきます(すみません)。
「佐野」が都から遠く離れた場所であることをわかっておけばとりあえずいいと思います。
「わたり」については素直にとれば「渡し場」ですが、丸谷才一の説に従って「辺り」ととるのもなかなか良い気がします。
地名すら雪に降り籠められてぼやけていくのです。
ちょうど「さのの」と「の」が重なりその後も「の」が続いてちょっと縺れたような音韻になっているのと合うと思います。
声に出すと「の」の重なりもいいけど「雪の夕暮れ」の「ゆ」もいいんですよ。

最後にあるのは雪の夕暮れ、ただそれだけ。真っ白な無の世界が顕現する。

これが中世和歌の辿り着いた一つの境地でしょう。幽玄、余情とはこういうことです。
かつて「見渡せば花も紅葉もなかりけり」と詠んだ定家の絶唱です。

一応本歌があるので紹介します。

苦しくも降り来る雨か三輪が崎狭野のわたりに家もあらなくに(長忌寸奥麿)

万葉集なので素直です。雨に降られた旅人の嘆きです。比べると、雨から雪に変わっただけでなく主観が排除されているのがわかると思います。


完成された歌ってあるんですね。こういうのがあるからやっぱり定家様なんだな。

さて、もうすぐ立春。冬も終わりですね。






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