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新しい宗教を創ろう #10

 今の職場に就いてちょうど1年になる。沖縄に越してきてから、たくさんの生き物を見てきた。路上を駆けるのはシリケンイモリ、オキナワキノボリトカゲ、空を橙に切り裂くアカショウビン、イネの多い土地では巨大なイナゴが飛翔していて、池には交尾しながら風に泳ぐベッコウチョウトンボ、マンションの廊下にはコワモンゴキブリ、海にはガジュマルが至るところで根を伸ばし、他にもごく当たり前にバナナが木に生っていて、浜辺の穴にはヤドカリが静かに顔を見せる。書き出せばキリが無い。
 これまでに幾つかの土地を訪れたけれど、例えばいわゆる都会として語られる東京でさえ、どこまでも自然的であった。ネズミがマック裏にいる、ゴキブリが路地にいる、鳩がやたらにいる、カラスが無数にいる、アナグマがたまにいる。新宿の雑居ビルの通路でオニヤンマが飛んでいたこともある。府中の深夜に蝉がただ1匹だけ鳴いていたこともある。多摩川にはカワセミが鮮やかな青い姿を現して、時には中州をキジが走り抜けることもあった。

 「自然」とは何か。
 それはあるがままの姿のことであって、例えば森林が多いとか、水が綺麗だとか、それは環境的「綺麗」の意味であって「自然」とはあまり関係しない。逆に言えば、無菌状態を「綺麗」と捉えることに疑問を覚えない人達のその「自然」は異常な状態であると言える。
 人体は菌によって支えられている。日々の糧は当然として腸内細菌はもちろん、そもそもミトコンドリアと共生を始めて現在に至っている点で、人間とは人間だけによって生きているわけではない。

 「人間」とは何か。
 よく言われることだけれど、地球がこのように生物にとって住みよくなっているのは奇跡的であり、これには神の意思が関連しているに違いない、という考え方がある。これはインテリジェント・デザインに直接に関係する思考だけれど、私は支持することが出来ない。
 「人間」とは、「生命」とは、おそらく偶然である。
 この宇宙に広がる星々に、いったいどれだけの奇跡が起きているのか。どれだけの無機物が重力を引き寄せてブラックホールになり、あるいは核爆弾数億個の威力で爆発しているのか。それぞれの土地でどれだけ高密度の岩石が周回していて、それがあるいは合体し、あるいはのちに惑星として成立するとして、そのためにいったいどれだけの時間がかかるのか。数億年規模のそれらの現象は、それでも、完全に断続的な化学反応の内で繰り広げられている。

 これらを踏まえたうえで「宗教」とは何か。
 宗教とは「勇気」の言い換えだ。

 人間に生きる価値などそもそも無く、だから生命とは単なる偶然。何もかもが虚無に直結していて、幾ら呼吸を続けようとそんなこと、誰のためにもならない。少し冷たいかもしれないけれど、この言い方は決して残酷では無いと私は信じている。なぜならば、シリケンイモリもオキナワキノボリトカゲもアカショウビンもイナゴもベッコウチョウトンボも、自身の「生きる意味」など考えているはずが無いからだ。さらに言うならば、人間が考える「生きる意味」など果たして「生きる意味」に到達出来ているのかどうか。単なる言葉遊びになってはいないか?
 軽はずみに「生きる意味」を語る人達に共通する間違った思考がある。それは「意味」と「価値」を混同しているという点。意味とは物事の実際の事由を言語化したものであり、価値とは個々人の主観であって実際の事由に依拠しない場合が多いので、言語感覚が乏しい人は意味を価値と取り違えて大袈裟に語ることが多い。
 そして、「宗教」とは何か。
 生きる意味が無いと自覚すること、価値なんてものは個人的なものでしかないこと、そもそも人類なんて今すぐ消滅してしまっても地球にとっては何の関係も無いこと。これらすべてを自覚した上で、それでも「生きていることに価値はある」「あの人の命には、あの人の歴史には意味がある」「守るべきものは此処にある」と信じること、信じた上で裏切られるかもしれない「神様」をそれでも信じるという「勇気」という生き方の選択。それが宗教なのです。

「信じる」ことに必要なのは信じるに足る理由ではなく、
ただひとつ「勇気」だけ。

 聖書が神の言葉だなんて、ごく当たり前に考えてそんなわけは無いのです。だって人間が書いてるんだから。日本に伝道された仏教の経典なんて、インド時代からはかなり改編されているし、解釈も多すぎて実際のところ間違いだらけの宗派もある。だって人間が書いてるんだから。

 けれどそれでも、それを信じる価値はある。
 信じる、ということは、勇気の証明なのだ。

 だからこそ気を付けて欲しいことがある。
 人が信じるものを否定する時は、それなりの覚悟を持つべきだということ。私はたくさんの宗教人と話し合ってきたけれど、一度も納得した終わりは無かった。私は宗教人を認めているのに、彼ら宗教人は私を認めなかった。
 お互いを認めるという態度を正式に示すことでしか「会話」は成立しない。私が語り合ってきたカルト宗教の方々の何が最も悪かったのか。それは「相手の話を聞かない」という、ごく初歩的なコミュニケーションの間違い。
 まぁ、伝道そのものが修行なので伝わるかどうかは度外視している場合も多いので仕方ないのですが、だとしたら論争をしたいのです。
 路上で話しかけてくる宗教の人達を私はいつも断っています。
(ついでなので断り方を書いておきます。
「今ちょっと気分が悪いので」
「ごめんなさい 連絡を待っていて」
「用事があるので」
などが使えます。
私は普通に
「ちょっと今きついっすw」で断ります)
なぜならば、論争になった場合に彼らの哲学を完全に否定しまう可能性があるからです。

 日本には信教の自由があり、彼らを否定する権利が私には無い。
 なので否定に繋がることをしないために勧誘の拒否程度はしていますが、御近所に顕正会の婦人部の方々が活動されていまして、あの団体に関しては「宗教のこと何も知らないんだろうな」という印象を受けます。全員ではありませんが。
 ほんの少しでも宗教について学習したことがあれば、あの団体を盲目的に信じるはずが無いのです。もちろんこれは宗教法人への否定ではありません。

 けれど、仏教を信奉して、あまつさえ政治活動に似たことをするならばそこには社会的な責任が生まれます。人間ひとりの命を壊す可能性があります。その責任が取れるかどうかはべつとしても、せめて他の宗教について学習すべきです。
 実際に何時間もかけて論争してきた方々は決して何も知らないわけではありませんでしたが、それは信仰を選び取った一握りの人達であって、ひとつの宗教しか知らない妄信家ではありませんでした。

 私が今も顕正会の方々の思想を否定していないのは、確かに宗教として人を救っている姿を見てきたからです。それとは別に、創価学会から転向してきた人の登壇のスピーチも見ました。大宮だったかな。とはいえ、あの人に関しては「何を信じようと救われないんだろうな」という感想でした。同じ日蓮仏教にも関わらず創価学会の教義も否定。宗教に於いて「選び取る」ことと「洗脳される」ことはまったく違います。創価学会で満足できないような人が顕正会に鞍替えしたとして、それで長続きするわけがない。教義が同じ出発点なんだから、本来ならば自分ひとりで究明すれば良い。それが出来ずに組織に存在理由を頼りっぱなしで脳の中身を任して、以前の所属組織の批判を意気揚々と語る。とはいえどんなカルト宗教でも、一時的でも人を救えるならば、歌舞伎町のキャバクラ程度の価値はある。つまり、出会い系程度にしかならない。そしてそれで良いのだ。

 キリスト教系の教会でも出会ったことがありますが、
 転向した人間が以前の所属宗教の愚痴を言うのはあまり綺麗なことではありません。
 実際に聞いた限りですが、あまり人格的に褒められないほど以前の所属組織のことを悪く言います。

 2世や3世が宗教批判をするのは当然のことです。巻き込まれたんだから仕方ない。
 けれどそうではなく、自ら選びとったにも関わらず「前の宗教は異常だった」みたいなことを言う奴は、私の経験的にですが、元カノの愚痴を周囲に言いふらすのと同じ印象です。









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