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「男のメンツ」の終焉|映画『最後の決闘裁判(The Last Duel)』感想

「俺のメンツ(面子)が立たない」「メンツが丸つぶれだからやり返さないといけない」男からは、ときたまそういった「メンツ」が顔を出し暴れることがある。

「男のメンツ」。

それは何のことだろうか。


『最後の決闘裁判(The Last Duel)』は、中世フランスの騎士カルージュ(マット・デイモン)とその妻マルグリット(ジョディ・カマー)、カルージュの旧友で権力者のル・グリの3人を中心に展開される。
”ル・グリがマルグリットを乱暴し、その正誤の判断を決闘で行う”というのが大枠のストーリーだ。

作中、カルージュとル・グリは「男のメンツ」を守るための言動や行動を繰り返す。

・ル・グリの耳には、マルグリットが泣き叫んでいた声は聞こえていない。むしろ受け入れられていた面もあると認識している。
・ル・グリは、対外的には「乱暴などなかった」と無罪を主張する。
・カルージュは、「自分のような地位のある男の妻が乱暴されることなどあってはならない」とル・グリを断罪しようとする。
・カルージュは、真実を明らかにするということより、「決闘し(力によって)神に判断してもらう」ことにより真実を明らかにし、自分が正しいことを証明しようとする。

あげればキリがない。

要するに彼らは「自分が相手や世間の人々よりも力を持っていて”上であること”」しか考えていない。真実やマルグリットのメンタルは、極論を言ってしまえばどうでもいい。「自分(ル・グリ、カルージュ)が正しくて、力を持っていて、上であること」を証明できさえすればいいのだ。
その証明こそが、「男のメンツを守る」ということである。

また、「男のメンツを守る」際に女性の尊厳が損なわれることも多い。
本作のマルグリットもその犠牲者であるし、現代まで「男女格差の問題」として解決されていない。映画界からの告発を元に広がった「#Metoo運動」も記憶に新しいところである。


そして、カルージュと同じく告発する立場ではあるがマルグリットは違う。
真実を明らかにしようと告訴はするが、その結果カルージュが「決闘をする(負けたらマルグリットも殺される)」という主張をすると彼女は言う。

「そんなことなら告訴はしなかった。なぜなら―――」

彼女はメンツを保とうとはしていない、誰かより自分の方が上であると主張しようとはしてない。「生きる」「守る」という自分と周りの人間で完結することを重要視している。


ル・グリとかルージュの「男のメンツ」を重視する考え方、それとは異なるマルグリットの「他人と比較しない」考え方。
同じ場面を3人の視点で描くことによって、考え方の違いを明らかにしている点が、映像作品としての『最後の決闘裁判』が優れている点だと思う。


ここで終わってしまうと単なる対比で終わってしまうが、本作の異なる点は「男のメンツ」の敗北を描いている点である。
ル・グリ、カルージュ、最終的に2人の男は望まない形で敗北してしまう。対してカルージュは、彼らとは違う幸福な道を歩んだとされる。

『最後の決闘裁判』は、昔ながらの「騎士道」「武闘」作品、”強い男が勝つ”作品では全くない。むしろテーマ性としては真逆のものである。

自分と誰か、誰かと誰かを比較して、上か下かを考える。
上であろうとすることによって、誰かが犠牲になる。
犠牲になるのは前述のように多くは女性であり、映画界がまさにその温床だった部分もある。

そんな価値観を過去のものとし、映画の新しい方向、社会の新しい価値観を提示するのが『最後の決闘裁判』だったのではないか。

本作の監督は巨匠リドリー・スコット監督だが、脚本はマット・デイモン(ベン・アフレック、ニコール・ホロフセナー)。
リドリー・スコット監督は、過去にも決闘ものを多く監督しており、初長編作品は『デュエリスト/決闘者』という「男の決闘の愚かさ」を描いたものである。
その監督に、俳優を中心としたチームが(時代性を考慮したかしていないかはわからないが)批評性を持った脚本を持ち込み、自ら出演し、映画化。
その組み合わせで、良い化学反応が起きないはずがない。

舞台は中世ヨーロッパだが決して古い物語ではない。むしろ「男のメンツ」の終焉を描いているという点で、2021年の今観るべき作品だと思う。

Photo by Jonathan Kemper on Unsplash

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