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【駄文】自分ヤッツケ

 入院患者の少女は、病床に臥せりながら窓の外を見ていた。それしか娯楽がないのであった。
 ある時、少女はアスファルトの隙間から花が咲いているのを見つけた。種類は分からぬが、黄色く可憐な花であった。特に何を見るでもなく窓の外を見ていた少女は、その花を注視するようになった。花冷えの夜、大雨の後、人々が装いを変えながら雑沓を行き交う中、花は裸一貫でそこへ咲いていた。いつしか少女は自らと花を重ねるようになった。
 ある日、見舞いに来た少女の母が尋ねた。
「何を見てるの?」
 少女は答えた。
「花を見てるの」
 母は花を確認し、
「ちょっと待っててね」
 と病室から出て行った。
 暫くの後、母は
「これからは近くで見られるね」
 と花を花瓶に挿して戻って来た。少女は号泣した。母はただ戸惑うばかりであった。
 程なくして少女は亡くなった。

 さあ、これが基山瑣末とかいう馬鹿のよくやる手口である。説教臭いことこの上ない。含蓄を持たせようとするあまり、少女や彼女の母に全く焦点が当たっていない。
 少女は激昂すべきである。「道路へ咲く花だから意味があった」と言葉にせねばならぬ。そしてそれを聞いた母も涙を流し、愛娘を抱擁してこそ、物語である。
 基山瑣末とかいうバカモノ以外の何者でもない男は、人が死ねば全部有耶無耶になると思っている。何となく教訓めいた靄で以て、その先の話を煙に巻く癖がある。しかし、その靄は筆力の無さによる曖昧さに外ならない。
 第一、彼の文章では人が死に過ぎる。これまでに投稿した7つの文章の内、6つで誰かしらが死んでいる。人を動かす動機付けとして便利に使っているのである。だが、彼は死に対して何か特別な念を抱いているというわけではない。怖がっているフシはあるが。死は幻想などではなく、ただのまやかしであると思いながらこんなことをやってのけるのだから性質たちが悪い。
 死が死でしかないことを、彼は「自殺と桜」とかいう今の所最も説教臭い文章において書いているのだ。彼はこの文章にて、死の幻想を否定している。後半のくどくどと御託を並べる中にそう書かれてある。
 「自殺と桜」程ではないにせよ、「臨淵」の説教臭さも大概である。その上、ご丁寧な言い訳もよく見える。人の死で有耶無耶になるのは砂上とはいえまだ論理が成り立っている。死人は何もしないのであるから、死んだ当人とそれ以上関係が進展しよう筈もない。「臨淵」というのは、兄の遺した絵について考える話である。だが、結局絵の意味は分からぬまま終わる。情景描写で有耶無耶にし、兄も死んでいるから確認できぬという見事なイイワケ的論理が成立している。実は「臨淵」は当初、別の結末を辿る筈であった。海を訪れた主人公は、兄の描いた絵のモデルとなった青年と邂逅し、兄はただ見たままを描いただけだと判明して終わる。こちらの方が随分と据わりがいい。明らかに分かり易い。だが彼はそれをしない。彼こそが「芸術家気取り」である。
 どうせ人が死ぬなら、とそれを利用しようとした試金石が、「カラス」である。これは彼がミステリを書いてみたいと挑み、儚く、否、惨たらしく散った文章だ。全く稚拙である。オチの説得力も薄い。
 その次に書いたのが「混迷」という意味の分からぬ話だ。救いようがない。混迷しているのは書いたお前自身だ、と言わんばかり、不可解、その1言に尽きる文章である。その不可解さから何かを見出せるような類でもない。元々これは「雪女」という題で、大学の課題として提出した文章であるが、先程読み返したら「混迷」よりは読み易かった。題通り、雪女しか出てこない。彼の頑固さとテライ根性によって内容が変わってしまった。花言葉を題材にしようと取り掛かったはいいものの、やはり基山瑣末は愚の骨頂、加減を知らぬ。考えなしに次から次へと盛り込んだ。しかも何故か過去に書いた文章に追加する形で。挙げ句、自身の仕込んだギミックを手に負えず、あっぷあっぷする始末。
 じゃあ1つの花をテーマにしてはいかが、と「贖罪」を書いた。この文章は、いけないね。彼のストーリーテリングの下手さが露呈している。富士津西燭と主人公とのやり取りばかりが描かれて、母を蔑ろにしている。話の展開も見え透いている。もっと主人公の心情変化へ言葉を使うべきであった。書いてから悔やんでも詮方無い。
 その反省や後悔が如何に活きるか。文章より生れ出づる汚点は次の文章にて払拭すべし。さあ、どう改善するのか見ものである。と思えば、「或る1日」などという目も当てられぬ惨文を提出するのだから堪らない。あれは小説の体を成していない。思考の切れ端にコーヒーを足してどうにか筋を作っているだけ。文章も短い。
 最後に「蜃気楼を恋う」。これは何に影響を受けて書いたのか明白である。月へ昇天するかただ水底へ埋没していくか、あるいはその後ちょっとした戯作的展開があるかどうかの差しかない。これもまた、例に漏れず駄文である。これを読んで何が下敷きになっているか気付かなくとも、悲嘆するなかれ。それは彼の下手によるものであるから。どうもこの男、話の語り方に難がある。場面と場面の継ぎ目が急、かつ不自然で読み難い。最後の独白、全く要領を得ず。この文章においても発揮されるゴマカシ術、虫唾が走る。〆の1文など一入である。
 基山瑣末はどうしようもないバカモノである。前言撤回、バカモノでありオロカモノである。ロクな文章も書かず、何者にもなれない内から自分で自分を語りやがる。痛々しいことこの上ない。そういう自らに耐えかねて、彼は人を殺すのかもしれない。その死を幻想とか不可解とかいうベールで覆って飾り立てるのかもしれない。彼の文章中で死ぬ者は彼自身なのかもしれない、などとまた何かを気取って書いている。情けない。メタに次ぐメタ、イタチごっこの堂々巡り、ペンローズの階段を昇降しながらメビウスの輪を弄び、自己言及に次ぐ自己言及。こういうことを続けているからいつまで経っても瑣末なのである。

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