ハムレットって面白い

ローレンスオリビエ監督のハムレット (1948)、フランコゼフィレッツ監督のハムレット(1990)、蜷川幸雄演出の舞台ハムレット(2003)を観劇した。世界的に有名な作品でありながら長丁場であって言葉や設定も難しく、遠ざけていたが今回の授業を通しシェイクスピアの生い立ちや歴史的背景など学ぶ中で興味がわき、なぜ400年以上の作品が色あせること無く現代の我々をも魅了しているのか考えていきたい。
まず、ハムレットと言えば独白で語られる『To be, or not to be that is the question』の名言だ。作品を観たことがなかった私でも、この言葉は聞いたことがあるほど、有名な台詞だ。「生か死か」と思い悩むハムレットが心の内を滔々と語りだすこの独白こそハムレットの最大の難所であり、魅力であると感じた。
独白は劇中の具体的な出来事に言及しているわけではない。ハムレットが自分自身に語り掛けているだけでストーリーの進展が見込めない時間が長く、言葉も難しい。そこで挫折したくなった。けれど、そこを超えていけば、大きな魅力だと気づくことができる。2003の舞台ハムレットでは派手な演出がなく役者が生身で観客と対峙していた。独白は役者と観客だけの空間になるので照明、音響などはなくセットは必要ないので有効な手段だったよ考える。今でいうナレーションみたいに、観客に状況説明や、次に何が起こるか想像させる役割もあったと思った。一般的に一国の王に対して復讐をたくらむ主人公を描くのは『悪』『外道』のイメージがあるが、ハムレットに対してその感情はあまり湧かなかったのは独白があったからだ。独白を通して、ハムレットの悩み、葛藤を観客が感じ取っていたからだ。
1948年版のハムレットでは崖の上にいて海や空が映し出され広い世界の中での孤独のイメージがあった。1990年版では地下の階段の中で薄暗い中で独白が始まり、閉じ込められている孤独のイメージだった。有名なセリフであっても、演出の方法が対照的で興味深いものがあった。ハムレットを演じた役者も、1948年版は顔が薄く低身長でハキハキ話すのに対して1990年版のハムレットは無精ひげを生やし、高身長でぼそぼそ話す印象がありキャラクターも相反するのはおなじ脚本なのに演出と役者が違うと全く別のハムレット像が出来上がっていくのは見ごたえがあった。どちらも共通したいるのは
何もしないことの言い訳を自分の心の中で、しかも自分に向かっていつまでも繰り返すことだ。悩みを登場人物の誰かに打ち明けるのではなく、葛藤する過程の自問自答を観客だけが共有できるのは引き寄せられる。
映画を見る前までは『生きるか、死ぬか』の明言はクライマックスや感情がピークの状態で放たれた言葉なのかなと思っていたが案外あっさりと出てきて驚いた。けれど、これから身近な人の死が立て続けに訪れる予兆だったのかと思う。いく
生と死は普遍的なことでどんな生き物にも共通することだ。その背景に『生と死』という永遠のテーマがあり、その中でハムレットが抱える家庭崩壊、死別、自殺、鬱など、現代にも通じる本質的な部分を事細かく描くことで共感を呼ぶのではないかと考えた。

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