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『アンチャーテッド』 ー映画の喜び、あるいは、エピゴーネンの美学

一人の男が、あるとき、不意にルーベン・フライシャーという映画作家の偉大さに初めて気付いたら、ハワード・ホークスとカイエ・ドゥ・シネマの関係に思いを巡らしてみる。かつてアメリカ映画に特別な絶望を覚えていたこの男は、現代ハリウッドにおける一縷の光明をこの作家に見出し、そして、まともに語らなければならないというある種の義務感を覚えることになる。

男は、映画を観ることの楽しさをしばらく忘れていたという。よくあることだが、フォードを観て、ゴダールを語り、カサヴェテスに心酔すると、映画とはすなわち研究の対象、真なる”映画”を求道することに価値を見出すようになり、そして、ゴダールを真似て商業映画を否定し始める。だが、何かのはずみにシネコンへと足を運び、とある冒険映画を観たときに、映画の喜びを思い出すしかなかった。

『アンチャーテッド』は、映画とはこんな大味でいいんだと思えるような楽しさがある。それは、ルーベン・フライシャーの作家性と深く結びついていて、それはすなわち、エピゴーネンの美学、オリジナルであることを平気で放棄するような事件であり、模倣であることを開き直る気持ちの良さを意味する。

フライシャーの作家性、それは「亜流であること」。既に確立されたジャンル映画を解体、そのエッセンスを抽出し、そして再構築する術は一流だ。『ゾンビランド』(2009年)では、ロメロ以来の全てのゾンビ映画をメタによって捉え直したしたわけだし、『L. A. ギャングストーリー』(2012年)では、既視感ありまくりのマフィア映画あるあるだけで面白い作品を作ったわけだ。今作は、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981年)などの冒険譚や『ミッションインポッシブル』シリーズのアクロバティックのサンプリングに徹している。しかし、フライシャーはまともな技術を持った作家なので、ちゃんと観られる作品になっている。続編やリメイクに溢れかれる現代ハリウッドで、この作家の貴重さはより際立っている。

技術の巧さを書けばキリがないが、例えば、「十字架の鍵」というマクガフィンの使い方、キャストの貌の良さ、ジッポなどの小道具の使い方、そしてその反復など。擬似兄弟(家族)を描くという点においては、『ゾンビランド:ダブルタップ』(2019年)の変奏であるし、フライシャー印の空中に表示させた文字など、この監督を追いかけて良かったなんて思ってしまう。瑕疵といえば、『ヴェノム』(2018年)のように、重力を無視したアクションだろうか。もっともこの監督はあまりCGやVFXを使うのが上手くないように見える。

原作ゲームを知らないので比較はできないし、もっとも比較論など毛頭語る気などないのだが、現代ハリウッドの映画としては十分な出来前だと思う。これはゲームの映画化などではなく、幾度と無く繰り返されてきた冒険・スパイ映画の亜流である。そんな大陸的なサンプリングは、タランティーノやデ・パルマをどこか想起させるようでいて、それはすなわち映画の喜びと言えよう。

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