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【引越しツバキ 10-後編】

椿は30歳の誕生日を迎えたが、それを桂介は祝う事は出来なかった。
2人はそれぞれ、実家で過ごしていたからだ。

そんな椿に「誕生日おめでとう」と、桂介が呟くようにLIMEを送って来たのは、誕生日の翌日だった。

椿は思った事をそのまま返信する。
「忘れていると思っていたよ、ありがとう。」
数分して、桂介の返信が届いた。
「忘れてたわけじゃないけど、何て言えば言いか分からなくて…ちょっと、話せる?」
「大丈夫だよ。」と返信すると、桂介の名前が、椿の携帯画面に映る。

数日前まで聞き慣れていた筈の声が、思い出のように懐かしくも感じる椿。
「はい…」
ただ、それを声色には表さない。
「…椿、元気?」
心配そうな、落ち込んだような桂介の声。ただ、椿がそれになびく事は無かった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

桂介は椿が今後どうしたいのかを聞いた。
仕事はどうするのか、今2人で住んでいるアパートはどうするのか…どこへ移り住むのか。

この時、椿は桂介に今後の自分の情報を開示するつもりは無かった。
お互いにその情報は、無益だと思っていたからだ。

今まで関心が無かったのに、何故、今になって関心がある様に振る舞うのか…椿は不思議に感じていた。

それを口にする椿に、寂しそうな声で応えた。
「ずっと一緒にいたんだし…それくらいは、気になるよ。」
桂介の言葉を聞くと、椿は仕事は辞めて、暫くは実家に身を置きリスタートするつもりだと言う。

椿の貯金は、既に雀のナミダ程度であった為、独りで生活する余力が今はない。
それに、独りで家にいる事が椿の精神衛生上、まだ良くないと思ったのだ。
――それは、お互い様。

そして、それを聞いた桂介も自分の身の振り方を考え、離婚届にハンコを押した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

3週間後、椿はアパートへ帰ってきた。
そして、それぞれの荷物をまとめ始める。
桂介は椿が不在の間から荷物をまとめ始めていたが、日中の時間にアパートへ来て、夜には実家へ帰った。
今まで家でゲームに当てていた時間は、別のゲームを始めて埋める。

一方の椿はただ、眠れぬ夜を繰り返す。
自分が空腹かも分からなくなり、空腹と気付いた時に何かを口に入れてた。何かをしていないと余計な事を考えてしまうと、部屋の掃除や荷造りを1人で進めて椿は過ごした。

そうして、2週間で荷物の移動も終わり、退居の最終手続きは桂介がする事にし――椿は明日から実家に帰る。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

最後の夜。
桂介と椿は久しぶりに、会話をした――

思い出を語るように、笑いながら。
それぞれの思い描く、別々の未来の話。

桂介は椿に、悩みや葛藤、自分の今後をどう考えているのかを話した。
仕事に対しても、今まで現実逃避してきたけれど、もう逃げないで考えると、椿に話す。

椿は、疲れた心身を少し休めたいと話した。
まだストレスに蝕まれた、体は本調子ではなかった…
それでも、椿は今までやった事がない事をやってみたいと桂介に話した。

どこか懐かしい雰囲気に、寂しさを隠すように、その日のリビングには2人の笑い声が響く。

TVもゲームもない部屋でする久しぶりの会話に、まで一緒に過ごした日々を思い出すと、自然と言葉は溢れていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

荷物の無くなった部屋をボーッと眺めると、まだ朝日も昇らぬうちに、椿は部屋を出た。
ドアの鍵を閉めると、それを仕舞う事はなくドアポストへ滑り込ませた。

アスファルトを擦るキャリーバッグの足音が響く――
もう見る事がないかもしれない、住み慣れた町の風景をゆっくり眺めながら空港へ向かう椿。
その道中で思い出していたのは、昨夜の会話で最後に交わした言葉だった。

「いままで、ありがとう。」

こうして、2人の最後の引越しは終わりを告げた。

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