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スパゲッティ日和

ボロネーゼではなくミートソース、パスタではなくスパゲッティ、そう謳っているような店がときどき無性に恋しくなる。

休日の予定が、急きょ欠席するわけにはいかない会議ができてしまいやむなく出勤した。こういうときは、ダラダラしていると余計な仕事につかまって泥沼にはまるのが目に見えている。そこでそそくさと帰り支度をし、銀座へとむかった。このまま帰るのもつまらないと思い有楽町で映画を観ることにしたのだ。

地下鉄の車内で夜の回のチケットを予約。あとは時間までぶらぶらしていればよい。

金曜日の夕刻の銀座には独特の匂いがある。たべものと排気ガスと、急ぎ足でどこかをめざすひとが身にまとった香水とが微妙に混ざり合った匂いだ。どうかんがえても奇妙な取り合わせなのに、ふしぎと気持ちをワクワクさせる。

交通会館の《旭屋書店》で先月出たばかりの文庫本を一冊買い求め、日比谷シャンテの《しまね館》で栗をつかった秋らしい和菓子を買う。松江の和菓子は気取っていないがとてもおいしい。日常の中にすこしゆとりを取り戻したいとき、ぼくは松江の和菓子を買うようにしている。たとえば、今日がそうだ。

上映時間までまだ一時間弱あったので、どこかで腹ごしらえすることにしてめぼしい店を探す。ファストフード以外で、この時間ひとりで気楽に食事ができるお店といって思いついたのが銀座ファイブ地下の《あるでん亭》だ。ひさしく来ていない。

学生のころ、こうしたイタリアンではないスパゲッティの店によく通った。銀座だったら《あるでん亭》、新宿は《ハシヤ》で渋谷なら《壁の穴》と行く街によって行く店も決まっていた。
ちょっと芯が残るくらいの茹で加減をアルデンテって呼ぶらしいよーーそんな豆知識を手に入れたのも、まさにその頃ではなかったか。

メニューを眺めてしばし悩んだ末に選んだのは「ツナと小海老のフレッシュトマト」という塩味のパスタ。銀座店オリジナルだという。

記憶の中の味というものは、ひさしぶりに食べると「あれ?」と戸惑ったりすることもないわけではない。だが、あるでん亭のスパゲッティは以前とおなじようにおいしかった。そして、安堵した。

松江の菓子もそうだが、とかく変わらずにいることが容易ではないこの時代にあって、変わらないことがいかに価値のあることか一皿の料理があらためて気づかせてくれたのだった。

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