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コーヒーと調律

年が明けてからというもの、ザワザワした気持ちを引きずったままここまで来てしまった。そんな気がする。


個人的に仕事が忙しいというのもあるが、ひさしぶりに風邪を引きこんだり、そこにきて馴れない雪にいよいよ調子が狂ってしまった感じ。


仕事からの帰り道、四方八方から吹きつける雪と雷鳴のなか来ないバスを待ちながら、雪だるまとは作るものではなく自分が「なる」ものだということをはじめて知った。


そういえば、コーヒーを淹れる時間すらここ最近はしょりがちだったことを思い出す。コーヒー好きの自分にとってこれは由々しき事態といえる。


コーヒーを淹れ、マグカップ一杯分のコーヒーを愉しむひとときは、せわしない日常を《調律》するうえで欠かせない時間である。


じっさいのところ、わずか20分ほどの時間を惜しむほど忙しかったのかと問われればそんなことはない。ただ、心がそれを自分に許していなかったにすぎない。


そこで、休日のきょうは心をほどく一日にしようと寝床の中でかんがえた。


まずは、起きて最初にやかんで湯を沸かしコーヒーをドリップする。朝食はシナモンシュガートースト。

食卓にくだものがないかわりに、スピーカーから流れるKozyPopの曲が甘酸っぱさを添える。


日々の調律ということでいえば、たとえば、こんなとりとめのない雑文を書くことだって自分にとっては調律のようなものかもしれない。


時間がないから書けないのではなく、時間がないからこそ書くべきもの。


オーケストラがわざわざ舞台の上でチューニングするのも、ただ音程を揃えるのとはまたべつの理由があるのではないか。


ざわざわした気持ちも、ひとつずつことばに置きかえてゆくうち徐々に整理整頓されてゆく。……だといいな。


ここのところ、なぜか有元利夫の絵がしきりに思い浮かぶ。旅先の、湖畔にたつモダンな美術館で回顧展をみたのはいつのことだったろう。


同じ時間は二度とやってこない。それは良いことでもあり、また寂しいことでもある。


ところで、来年2025年は有元利夫の没後40年にあたる。さらに、再来年は生誕80年。ひさしぶりにどこかで規模の大きな展覧会が開かれるかもしれない。


はたして、そのときどんな気持ちでその絵を眺めているだろう。

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