見出し画像

「橋63」で行く

しいたけ氏いわく

ひさびさに「橋63」に乗ろう。そう思い立ったのは、しいたけ占いに

今週は自分なりの「逃げる時間」や「逃避行タイム」を計画してみてください

と書かれているのを見たからだった。


とりわけ占いを信じるほうではないが、「いま○○な状態ならこんなことしてみるのもいいですよ」スタイルのしいたけ占いは、つい毎週チェックしてしまう。

占いというよりは、一回立ち止まって現在地をたしかめる、たとえて言えば里程標のように読んでいる。


たしかに、年明け以降ここまで、今月末のイベント準備でずっと忙しくしていた。最近など仕事の夢まで見る始末。

(ここのところずっと)けっこうプレッシャーがかかるようなタスクやチャレンジを手掛けている

と言われればその通りなのである。


頭では息抜きが必要とわかっていても、だが、いざ「逃避行」などと言われたところでなにをしてよいものか迷ってしまう。

迷ってしまうというか、困る。

これといって息抜きにつながるようなことが思いつかないのだ。

それどころか、脳みそが疲れきっていて楽しいことを企画するのさえ面倒くさい自分がいる。


けれど、しいたけ氏いわく、そこまで大それたことでなくても

自己満足&現実から一瞬だけ逃れられるようなファンタジーの時間

でありさえすればよいという。


そういうことなら、そうだ「橋63」があるじゃないか。そうかんがえた。


それはともかく「橋63」とは

ところで、おおかたのひとは「橋63」と言われたところでそれが一体なんの話かさっぱり見当つかないだろう。


「橋63」とは、じつはJR新橋駅と中野区にある小滝橋車庫のあいだを結ぶバス路線のことである。

所要時間は約50分。停留所はぜんぶで26ある。都心を走るバス路線としてはそこそこ走行距離の長いほうだろう。


路線バスマニアというわけではないが、たまたま乗車したところすっかり気に入ってしまい、以後ひとりでただぼーっとしたい時、なんとなくこの「橋63」に乗るようになった。今回は3年半ぶりくらいの乗車か。


この「橋63」のチャームポイントは、なんといっても車窓越しにくるくると変わり玉のように表情を変える東京の街並みを感じられるところにある。

じっさい、中野区から新宿区、さらに千代田区を経て港区へ、東京の山の手を縦断するバス路線はめずらしい。あるいは、戦前、東京の庶民の足だった路面電車の名残りかもしれない。

目的は移動ではなくて

さて、いざ「橋63」に乗るとなると、新橋駅をめざすか、それとも小滝橋車庫をめざすかで悩むことになる。

目的地への移動ではなく、ただ余計なことをかんがえず時間を過ごすために乗るわけだから、まあ、正直どちらでもかまわない。

個人的な好みで言えば、小滝橋車庫前から出発し新橋駅をめざすルートの方が好きだ。

ダウンタウンに繰りだそう、ダウンタウンに繰りだそう――そう歌にもあるように、きらびやかな都会に到着したときの、気分がパチンと音を立てて弾ける感覚が好きなのだと思う。


そこで今回も、高田馬場駅で下車し、だらだら15分ばかり坂を下った先にある「小滝橋車庫前」から新橋駅をめざす。


が、せっかくの「逃避行」なのだ。なにか気分をもうちょっと上げていきたい。

そこで、停留所へと向かう途中にある《LIWEI COFFEE STAND》に立ち寄ってゆくことにした。

こじんまりした、だがとても感じのよいカフェだ。天気もいいし、カフェラテもおいしい。さあ、出発だ。

そしてバスは行く

起点となる小滝橋車庫前の停留所には出発時間の10分ほど前に着いた。

バス停だから道路わきにあるかと思いきや、その名の通り都営バスの車庫の敷地内にあるので知らないとちょっと分かりづらい。


到着してみると、すでに7、8人の乗客が手持ち無沙汰にバスの出発を待っている。みんなどこに行くのだろう。


そうこうしているうちにバスが到着。なんとか最後部の窓側に陣取ったところで、そろそろと新橋めざして動き出した。

よくある停留所からの出発とちがい、車庫から慎重に歩道を横切って大通りへと出てゆくあたりはなんだか大型客船の出航を思わせる。


わずか10分で異国情緒

神田川を渡り、三叉路を右手に進むとバスは10分ほどで総武線の大久保駅に到着する。


大久保駅から山手線の新大久保駅に近づくにつれ、建ち並ぶ店の看板が中国語からハングルへと変わってゆくのが興味深い。


新大久保の駅前には若い女性があふれ、いまや原宿の竹下口をもしのぐにぎわいだ。

編集者の友人に連れられて参鶏湯を食べにきたのは20年くらい前のことだった。

あの頃もたしかにコリアンタウンではあったけれど、いまはまるでテーマパークの様相。それはそれで楽しそうである。そしてDuolingoを続けている成果でけっこうハングルが読めるのがうれしい。


突然ですが、

ところで、こういう記事の場合、ほんらいは車窓からの写真などたくさん載せたほうが親切なのだろうが、バスが混んでいてあまり撮れなかったのと、なにより興味をもって乗ってくれたひとに自分だけの眺めを切り取ってもらいたいという理由からあえて中途半端に載せないことにした。

東京の、雑誌やテレビには映らないさまざまな顔を見てもらいたいと思う。

新宿の尾根を縦走する

明治通りを越え、ここから先は武蔵野台地の尾根を伝うようにバスは進んでゆく。


進行方向の右手は抉れた谷底のように低地が広がっている。この高低差、タモリがよろこぶやつだ。


そしてその右手には、かつて永井荷風や坪内逍遥が暮らした余丁町、内田百閒が暮らした市ヶ谷仲之町などがある。

その荷風に「矢はずぐさ」という作品がある。余丁町での短くも幸福だった結婚生活をほろ苦い思いとともに回想したエッセイだ。


腸の弱かった荷風のために、妻の八重は矢はずぐさという薬草を煎じて飲ませてくれる。

その頃は、東京でもちょっとした土手のような場所でかんたんに見つけられる雑草だったが、宅地化が進むなかいずれなくなってしまうとかんがえた荷風は、その植物を一束持ってきて余丁町の自宅の庭の片隅に移植する。

その後、矢はずぐさを煎じてくれた妻は家を出て、いまとなってはすっかり生え放題になっているというちょっと切ないエピソードだ。

荷風の父が手塩にかけて育てたこの大久保余丁町の庭は、荷風にとって父の美意識を象徴する特別なものだった。

若き日の荷風は、厳格な父に反抗しつつも漢詩人であった父に親しみを抱いていたのだと思う。そんな荷風が、父への敬慕の念を素直に表明できる唯一のものがこの父の遺した庭の存在だったのだろう。

じっさい、荷風の小説や随想にはこの余丁町の庭がよく登場する。

この「矢はずぐさ」についても、持田叙子は「多分、この『矢はずぐさ』から庭の叙述を取ってしまったら、三分の一くらいになってしまうのではないかと思います」(『永井荷風の生活革命』)と述べている。

荷風にとって、庭を描くことは「父」を描くことだったのかもしれない。

そしてそこには、父の期待に応えることのできなかったことへの後悔の念や、でもそうするしかなかったのだという苦渋の思いが入り混じっているようにみえるのだ。

家に帰ったら「矢はずぐさ」を読み直そう、などとかんがえる。


東京に空はない、が

車窓から見える街並みは、新宿といってもまだ昭和の気配がうっすら漂っている。

町名にも箪笥町、細工町、納戸町といった昔ながらの名前が生き残っているのがうれしい。


よく、東京には自然が少ないといわれる。そもそも空がない(©智恵子)。

それでも、ごく平凡な街並みのむこうにその土地に暮らしてきた市井の人びとの息づかいが思いがけず感じられる瞬間がある。

そういうとき、ぼくはなんだか都会という場所が愛おしく感じられるのだ。


「矢はずぐさ」しかり、都会にはそこに暮らした人びとの記憶や思いが薄い層をなしてちょうどミルフィーユみたいに重なっている。


山の手から下町へ

やがて、神楽坂の手前で右折した「橋63」は、アトラクションのように一気に坂を下ってゆく。

下りきった正面は市ヶ谷の外濠。桜の季節は、運転席越しに見るソメイヨシノが壮観だ。

だから、もしこの「橋63」に桜の時期に乗るとしたら、坂の先に臨むお濠と桜の取り合わせが楽しめる新橋行きのルートをおすすめしたい。


さて、外濠を渡ればそこはJR市ヶ谷駅。ここからバスはかつての「下町」へと入ってゆく。

戦前ほどではないにせよ、「山の手」と「下町」を覆っている空気はどこか異なる。

バスから街を眺めていると、なんとなくそれがわかる。地下鉄で移動していたらおそらく一生気づくことはないだろうけれど。


ここでバスは番町と呼ばれるエリア、麹町界隈を進んでゆく。

かつて旗本屋敷が建ち並んだ番町も、いまやびっしりビルが建ち並ぶ都心のオフィス街である。大きなお屋敷が多かった場所ほど再開発の手も入りやすい。早々にオフィス街に変貌したこの麹町界隈はそのわかりやすい例と言えそうだ。


さらに新宿通りを越えて紀尾井町、平河町と進んでゆくと右手に現れるのは旧「李王家」東京別邸(現赤坂プリンスクラシックハウス)。

昭和5(1930)年に竣工したマナーハウス風の建物はいまなおじゅうぶん美しく、優雅なたたずまいを見せている。いつか入ってみたいものだ。


初めて「橋63」に乗った日

バスが右折する際、視界にちらっと弁慶橋が見える。

初めてこのバスに乗った日は、よく晴れた夏の夕暮れ時だった。

そのときのぼくは、まだ結論にまでは至っていなかったが、すでに離婚は避けられないような状況の中にあった。

家に早く帰るのがどうにも憂鬱で、地下鉄に乗れば一本で帰れるものをわざわざ路線バスに乗って大久保へと向かったのだった。かんがえる時間を必要としていた。

バスの車窓から弁慶橋が見えたとき、遠回りして家路につこうとしている自分の姿がなんだか愚かしく、不甲斐なく感じられたことを思い出す。

それから10年ちかい時間が経ち、いまはそうした気分もまた景色の上に薄く重なって東京という街の一部になっている。


沈没船の街

そしていよいよ「橋63」は(沈みゆく)日本の中心、霞が関へ。


ここで毎日、沈没しそうな船から必死で水を掻き出すどころか、逆にせっせせっせと水を注いで沈没のスピードを速めているのだ。どうしたものか。もうあきらめるしかないのだろうか。ため息が出る。


左手に国会図書館を見ながら、「橋63」の路線バスはそんな国会議事堂の敷地に沿って走ってゆく。


国会議事堂を見るたび、いつも小学校の社会科見学を思い出すのだが、よくよくかんがえたら熱を出して社会科見学には行っていないのだった。人間の記憶なんていい加減なものだ。


阪神タイガースの国旗

それにしても、日曜日なのに、というか、日曜日だからかもしれないが、このあたりまったく人影が見当たらない。キリコの絵のような異空間に迷い込んだ気分になる。


霞が関にさしかかると、日の丸とともにどこかの国の旗があちこちに掲げられているのが目につく。

たぶん、来日中のどこかの国家元首を歓迎するものだろう。だが、それがはたしてどこの国のものかわからない。


その旗は、白、黒、そして黄色のストライプに紋章がついたもので、どう見ても「阪神タイガース」にしか見えない。いつ独立したんだ?阪神。

そこで、手元のスマホで「阪神タイガースみたいな国旗」とググってみるもわからない(当然)。

こんどは、「白、黒、黄の国旗」でググったところ、「それはブルネイの国旗です」と一発で表示されたので思わず「おお」と小さな声で唸ってしまった。

そうか、阪神みたいな旗の国はブルネイ、なのか。これで覚えたぞ。

並べてみたらぜんぜん似ていなかった。


終点「新橋駅」~そしてまたいつか

そんなことをしているうちにバスは日比谷公園を過ぎ、内幸町を抜けいよいよ終点「新橋駅」へ。渋滞に巻き込まれることなくオンタイムで到着したのは休日だからだろう。


おなじみサラリーマンの聖地「新橋」も、さすがにスーツ姿のひとは見あたらない。ここからはぶらぶら銀座に出てもよいし、天気がよければ虎ノ門ヒルズあたりまで足をのばすのもよさそうだ。ぼくは体力温存のため、きょうはちょっとだけ散歩して帰ることにする。


SNSもチェックせず、もちろん仕事のことも考えず、ただぼんやり車窓からの風景を眺めて過ごす50分の小旅行。路線バスマニアでもないのに、こんな目的でバスに乗るなんて他人の目にはずいぶん酔狂なものと映るにちがいない。

けれど、ぼくは知っている。

何カ月、いや何年後かはわからないけれど、なにかの折にきっとまたこの「橋63」の厄介になるであろうことを。


そのときまでごきげんよう。

LIWEI COFFEE STANDのラテ

この記事が参加している募集

休日のすごし方

私のストレス解消法

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?