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【エッセー】回想暫し11 ジラード事件

 
     一
 
 事件は、一九五七年一月三十日に起きた。所は、群馬県の県庁所在地前橋市から北西へ八キロほど離れた榛名はるなさん(標高一四四九メートル)東麓に広がる米陸軍相馬ヶ原演習地(相馬村。現しんとう村所在)。米陸軍名はキャンプ・ウィッティア(ウェアーとも)と言うが、事件の翌年、同軍はこの地を撤収している。
 その日午後一時五十分ごろ、米陸軍第一騎兵師団第八騎兵連隊第二大隊F中隊所属のウィリアム・S・ジラード三等特技兵(二一)が、空薬莢やっきょう拾いをしていた主婦坂井なかさん(四六)を射殺するという事件を起こした。
 当時、空薬莢はくず鉄としてかなりの収入になった。明治政府に土地をられた村人は、空薬莢拾いを生活の糧、あるいは生計の足しにした。米軍は空薬莢拾いを厳禁しなかった。危険は周知済みなので、かりに死傷しても関知しないとの態度を取った。
 さて、ジラード事件は、日米両国内で大問題になった。さまざまな理由があるが、要するに日本では真相が伝わったために、米国では真相が伝わらなかったために、センセーショナルな事件に発展した。
 当初から日米当局の間で、厳しいやり取りがあった。米側は公務中の事故死、すなわち、ジラードが公務中、薬莢拾いの日本人に警告のため空に向けて発砲したところ、誤って命中したと主張した。
 公務中ならば、第一次裁判権は米側にあり、日本側は手を出せない。また、事故死ならば、立入禁止区域で危険な空薬莢拾いをした被害者にも落ち度がある。これに対して、日本側は公務外の殺人ないしは傷害致死を主張し、裁判権を争った。
 米軍の出方は、ある意味で単純であった。いついかなる場合でも第一次裁判権を主張し、生半可な妥協は絶対にしない。罪を犯した米兵を軍法会議にかけ、さっさと刑を宣告して帰国させてしまう。日本側は毎度、地団駄を踏むが、犯罪兵当人がすでに日本にいないのであるから、どうすることもできない。

 一九五三年一〇月以来、ジラード事件の起るまで、法務省の受理した米軍要員の犯罪件数をみてみると、(中略)二万六七〇〇余件のうち、起訴されたものわずか三%という数字に、駐留アメリカ軍をとりかこむ日米行政協定という名のフェンスの高さが示されている。

井出孫六「W・S・ジラードの犯罪」

 井出の記述で分かるように、米軍は治外法権の上にどっかとあぐらを掻き、いまも掻いている。
 二月七日、米軍側はいつもどおりに、ジラードの上司、F中隊長カール・C・エリグッド中尉名で公務証明書を発行し、第一次裁判権の執行を主張した。公文書であるから、日本側が期限までに反証の存在を通達しない限り、それで幕引きとなる。
 日本側当局は、群馬県警および前橋地検であった。両機関は不利な力関係をものともせずに、ただちに米軍に対して疑義を呈し、裁判権を争う姿勢を鮮明にした。なにゆえ、蟷螂とうろうおのを振り翳したかといえば、あまりに事件が悪質だったからである。
 群馬県警が被害者の遺体を司法解剖し、目撃者証言を集めた結果、事故死や誤射ではないことが判明した。遺体から摘出されたのは、弾丸ではなかった。空薬莢だったのである。ふつう、空薬莢を弾丸代わりに撃ちはしない。これで流れ弾にあたったなどという説は吹き飛んだ。いったい、ジラードは何をしたのか。
 当日、ジラードは演習に参加した。この日、弾拾いの農民が多く、部隊は空砲射撃に切り替えた。空包を発射すれば、音と閃光でいかにも戦場の感じはするが、実弾は飛んでいかない。むろん、空包といえども、空薬莢は撃ち手の足もとに落ちる。
 午後、守備側に回ったジラードは休憩中、小隊長メイホン少尉から同僚のビクター・N・ニクル三等特技兵とともに、軽機関銃やその他を警備するように命じられた。
 ジラードの銃は故障していた。貸し与えられたのが、上官の持つグレネード・ランチャー付きのライフル銃であった。同装置は擲弾てきだん発射筒と訳される。ライフル銃の先にその長い筒を付け、手榴弾などを装着して発射する代物である。
 ジラードは、空薬莢をばらまいて弾拾いの農民を招き寄せ、擲弾や手榴弾の代わりに空薬莢を銃口に差し込み、これを空包で撃った。空包でもゆうに薬莢を飛ばせる。この威力はどれほどか。二月十一日に行なわれた合同の実地検証で、実弾並みの威力のあることが判明した。
 薬莢は、長さ六十二ミリ、直径九~十二ミリ。坂井なかさんは、弾丸よりも大きな薬莢を基底部を先端に、後方七、八メートルの至近距離から背中に撃ち込まれたのである。
 じつは、山本英政『米兵犯罪と日米密約 「ジラード事件」の隠された真実』によると、酷似する事件が前年、東富士演習場で起きていた。使われた武器はほぼ同じ。加害米兵は二発撃ち、一発が弾拾いの日本婦人の胸部に命中し、全治七週間の重症を負わせた。
 日本人、すなわち、数年前まで占領していた国の現地民を猿か猪かのごとくに撃った米兵の犯罪は、どのように処罰されたか。加害米兵は軍法会議にかけられ、無罪判決を言い渡されたあと、本国帰還命令を受けて、日本を去った。それでおしまいである。
 山本が、「まっ当な裁きの片鱗さえうかがえず啞然とするが、これは米兵犯罪への愍然びんぜんたる日本の無力を痛感させる典型的な始末記なのである」(山本英政前掲)と記述するように、日本人ならだれもが慨嘆を禁じ得ない哀しい話である。
 捜査機関は毎回、神経を磨り減らして米軍とやり合うのでは身が持たないゆえ、よほどのことがない限り、公務か公務外かを争ったりはしない。
 東富士演習場の事件を惹き起こしたのは、第三海兵師団第三海兵連隊に所属する兵士であったから、ジラードとは何の関わりも持たない。従って、二人の米兵が時と所をかえて、グレネード・ランチャー付きのライフル銃に空薬莢を装塡して撃ったというのは、兵士ならば、だれでも思いつくゲームの一こまだったと言えそうである。
 ジラードは事件当日、坂井なかさんを撃つまえにも、三人の弾拾いに空薬莢を発射していた事実がある。少なくとも、分隊長しか持てなかったその銃でそういった撃ち方をすれば、空薬莢がどのように飛ぶかを知っていた、と推定できる。
 坂井なかさんは、ほとんど即死であった。ジラードは射撃の名手であった。坂井を狙って撃ち、その当たりどころが悪くて死に至らしめたというのが真相に近いのではないか。相手が死ぬかもしれないとする未必の故意があったか否かは、何とも言えない。
 米軍側は、ジラードが、軽機関銃やその他の米国財産警護の公務中、薬莢拾いの日本人に対して警告のため空に向けて発砲したところ、誤って命中した事故死であるとの主張を再三再四繰り返した。ジラードに人を傷つける意志はなかったと。
 日本側は、ジラードの犯罪行為を公務とは認めず、空に向けて発砲したものが、弾拾いの日本婦人に当たるはずがなく、ジラードは婦人に向けて後方七、八メートルの至近距離から水平に撃って殺害した、と強硬に主張した。
 米兵犯罪に関して、日本側は度重なる屈辱を強いられてきた。今度ばかりは、ジラードを日本の裁判にかけて罪を償わせる、と大仰に言うなら日本国中が燃え上がった。


 
 群馬県警は殺人罪での送致を一時考えたが、警察庁から業務上傷害致死罪に落とせとの命令が入って、作戦を切り替えた。殺人罪では刑罰が格段に重くなる。警察庁は日米の力関係を勘案したのであろう。同県警は、ジラードの身柄を拘束できぬまま、傷害致死容疑で前橋地検に書類送検した。
 米軍側は、日本側の突然の強硬な態度に戸惑い、次いで真剣になった。が、如何せん、公務証明書発行済みである。従来、威力を発揮してきた公文書ゆえ、いまさら、あれは間違いでしたとは言えない。説得力のない事故死説を主張するばかりであった。
 日本側は日米合同委員会に持ち込んだ。同委員会は、一九五一年の安保条約に付随する日米行政協定により設けられ、一九六〇年の新安保条約にも引き継がれた。戦後七十年余を経ても、いまだに日本国憲法を超える絶対的な権力行使の源となっている。
 合同委員会刑事裁判分科会は三月からはじまり、どちらに第一次裁判権があるかを議論したが、結論に至らなかった。日本側は、「休憩中に、弾拾いを呼び寄せて空薬莢を撃つのが公務なのか」と、攻め立てた。
 だが、米軍側は引き下がらない。日本側はやむなく、「日本が主張を変える可能性はない。街頭行動が異常に高まっており、第一次裁判権をアメリカ側に認めれば、国会答弁のしようがなくなる」(春名幹男『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』)と、最後通告した。
 交渉の当事者とも思えぬ第三者的発言であるが、合同委員会もまた対等ではない。ふつうは米軍側が日本側に伝達、または命令するだけの関係であるから、日本側は、今回ばかりはそちらが折れないと、極めて厄介なことになりますよ、と状況の客観的な分析を武器に反論したのである。
 四月末、万策尽きた極東軍司令部は、本国陸軍省に判断を仰いだ。同省は、最終的に第一次裁判権を行使しない選択を極東軍司令部に認める代わりに、ジラードに最も軽い罪が適用されるように確約を取るべしと回答した。
 五月十六日、合同委員会は結論を公表し、在日米軍は裁判権を行使しないことを言明した。むろん、公務証明書やそれまでの主張を撤回していない。にもかかわらず、裁判権を放棄するという論理的に整合しない決定であった。
 今度は米国民がおこった。その主張はおおむね、
「米国の息子たちが、異国の地で命を懸けて任務を果たしているのに、息子たちがちょっとでも罪を犯したら、自分たちの裁判にかけると騒ぎ立てる。自分の国を守ることすらできぬ原住民が何を言うか。米軍もいったい何をやっているのか。ジラードを保護する義務を忘れて、裁判権を放棄するとはけしからん。陪審制もない日本のような遅れた国で、まともな裁判ができるはずがない」
 といったことに集約できる。
 当時、百万人の米兵が海外に駐留していた。とりわけ、米国民は真珠湾を忘れていない。かつての仇敵、日本と日本人に対する蔑視は凄まじかった。

アメリカ議会の議員たち、中西部の新聞、非常に口やかましい一般大衆は、ジラードを頭に血ののぼった忘恩の徒の犠牲者だ、とした。この事件の裁判管轄権を放棄したアイゼンハワー大統領は、正義の原則に背き、日本政府に迎合するものだ、と非難された。

マイケル・シャラー『「日米関係」とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで』

 五月十七日、陸軍省の上位機関である国防省のウィルソン長官が、ジラード事件に対する弱腰をたたかれ、第一次裁判権放棄の決定を保留にした。外交ルートに乗せたくなかったこの事件は陸軍省の手に余り、国務省が介入せざるを得なくなる。
 ダレス国務長官は日米両国政府の間に立って悩み、アイゼンハワー大統領は、最初のうち癇癪を起こして海外派兵の引き揚げを口走った。
 六月十八日、連邦地裁は、ジラードの兄の起こした弟の釈放と本国での裁判を求める訴えを認め、ジラードの日本側への身柄引き渡しを禁ずる判決を下した。
 このころが、ジラード側の、つまりは日本蔑視派の勢いのピークであった。やがて、事件の真相が明らかになるにつれ、ナショナル・ヒーローはちはじめる。
「ジラードってやつは、逃げる女を後ろから撃った卑怯者らしい」
 と。
 アイゼンハワー大統領は、ひとたび日本の第一次裁判権を認めると、その判断で押し切った。米国政府が起死回生の策として放った最高裁への上訴は成功し、七月十一日、最高裁は連邦地裁の判決を斥けた。これを機に、米国内の関心は、ジラードが日本の裁判でいかに扱われるかに移っていった。
 米国政府が国内の反日感情を抑え込めたのは、断乎とした姿勢を貫いたこと、それにジラード事件の真相が広がり伝わったことが大きい。が、米国政府がそういう姿勢を貫き通せたのは、じつは結論が見えていたからであって、密約が二月十四日に成立していたのである。

日米間には一九五三年の行政協定の改定時に交わされた「米兵を日本では滅多に裁判しない」という大密約があり、ジラード事件では例外として米兵を日本が裁きはするが軽い判決を下すという第二の密約が交わされたのである。

山本英政『米兵犯罪と日米密約 「ジラード事件」の隠された真実』

 行政機関の密約に、日本の司法機関がいとも容易に従うところが何とも虚しい。三権分立、司法権の独立なぞ形式的な装飾にすぎず、検察庁は求刑を軽めにし、裁判所も軽めの判決を下したジラード事件裁判の結果を見れば、行政の長が司法権の上に立つことは疑う余地がない。
 岸信介はこのとき、首相の石橋湛山が病を得たために、首相臨時代理と外相を兼ねていた。奇しくも密約が成立した同じ二月十四日、岸は、衆議院内閣委員会で社会党のあかね久保くぼ重光しげみつ議員に、
「今この問題を中心に全国民が民族的な怒りと申しますか、非常な悲憤の涙を流しておる現状に際して、やはり今後絶対にそういうことをさせないために、日本政府は日本国民の代表者として、国民に対してはっきりした確信を持たせるだけの決意をここにはっきりしていただくことがよろしいかと思う」
 と、発破をかけられた。岸はこれに対して、
「われわれ民族としてほとんど耐え忍ぶことのできないようないろいろな案件も過去においても出てきております。今回の事件もその一つであると思いますが、われわれはあらゆる方法によってかくのごときことをなくしなければなりません。もちろん根本的に申しますと、アメリカ軍に日本内地の駐留をやめてもらうということに一番のなにが出てくるでしょう。しかしこの問題につきましては、日本自身の防衛の問題があり、また国際的な環境の緊張の緩和の問題等、いろいろ大きな問題が関連をしておりますから、遺憾ながらある期間はアメリカ軍の駐留を認めざるを得ない」(国会会議録検索システム インターネット)
 などと、官僚的な答弁で切り抜けた。密約成立の詳しい報告に接していたなら、もう少し力の籠もった答弁をしていたことであろう。 


 
 同年八月二十六日からはじまった日本の裁判は、米国のマスコミをはじめ各界から、意外にしっかりしていると高く評価された。米国民に見せるための裁判という一面があったゆえ、当然と言えば当然かも知れない。
 密約以後、日米政府の高官が何を言い、何をしようと、シナリオどおりの台詞せりふや演技であることを疑わねばならない。

アイゼンハワー大統領、ダレス国務長官らは、米国内の世論も考慮しながら大所高所に立った、公正な判断を下した。ジラードの身柄を日本側に引き渡し、日本の法律の定めるところ従って裁判を受けさせることにした。

岸信介『岸信介回顧録 保守合同と安保改定』

  などという岸の叙述も、単純には頷けない。ともあれ、裁判を経て判明した事件の詳細はこうであった。
 ジラードの同僚のニクル三等特技兵が、自分の足もとの空薬莢をばらまいた。ハトが餌をついばむように農民が必死になってそれを拾う姿が面白かったという。ジラードは、自分の前にもまいてくれとニクルに頼み、ニクルがそうした。ジラード本人は、ばらまいていない。これは裁判ではじめて明らかになったことで、それまでの事実認定が誤りということになる。
 ジラードは様子を窺う農民に声をかけ、手招きして呼び寄せた。坂井なかさんと小野関英次(三〇)が駆け寄った。ジラードは近くの壕を指さして、「ママさんダイジョウビ タクサン ブラス スティ」と叫んだ。坂井さんは、空薬莢がたくさんあるよと理解したかして、壕に飛び込んだ。
 ジラードは、空薬莢と空包を装塡すると、坂井さんに続こうとした小野関に向けた。小野関が慌てて逃げると、ジラードは発射し、銃声とともに小野関の足もとで土煙が上がった。
 次いで、ジラードは、「ゲラル ヒア(出ていけ)」と叫びながら壕に走り寄った。坂井さんは驚いて壕から飛び出し、逃げた。ジラードは坂井さんを追いかけ、およそ十メートル後ろから発射した。これが坂井さんの背中に当たった。ニクル証言によると、ジラードは肩に銃をあてた立ち姿で撃った。
 ニクルはジラードを庇っていたが、やがて庇うに値しない人間と知って、真相を語ったのである。
 十一月十九日、前橋地裁は、ジラードに懲役三年(求刑同五年)・執行猶予四年の判決を下した。双方が控訴せず、判決は確定した。
 すぐに帰国するであろうジラードにとり、執行猶予なぞ何の意味もない。人を殺しておいていかなる咎めも受けず、日本とはそれっきりおさらばというのでは、殺された坂井なかさんに顔向けできぬ判決である。遺族はさぞかし無念であったろう。
 しかしながら、これが戦争に負けるということなのである。こういう悔しい思いをしたくないなら、戦争に負けてはならない。ところが、この世に絶対に勝てるという戦争は存在しないゆえ、結局、戦争をしない選択がベストなのである。
 戦争の背後には、戦争で一儲けを企む勢力が必ずうごめいている。こういった連中が愛国心を焚きつけ、前途有為の若者を戦場に送り込む。古今東西の歴史が口を酸っぱくして教えても、戦場に飛ばされる若者たち自身は真実を知ろうとしない。
 結局、日本側は、第一次裁判権を勝ち取って面目を施し、米軍側は名よりも実を取った。ジラードをほぼ無罪の形で事件を終結させたのであるから、文句なしに合格点を取ったのであった。
 十二月六日、ジラードは、新婚の日本人妻ハルを連れて横浜港から米軍用船に乗り、本国へ帰っていった。
 五ヵ月後のジラードとハルについては、松田ふみ子「ハル・ジラード会見記」がある。ジラードは、帰国してすぐに不名誉除隊となり、帰郷しても人々の視線は冷たかった。人の心の移ろいやすさは、いずこの国も同じらしい。
 ジラードは仕事探しに苦労し、ハルは英語を話せないため、ハルには決して冷たくない近隣の女たちとのつきあいに苦労していた。ハルは、ジラードの話す英語もよく理解できないのである。

ジラードはなかさんの身辺のすれすれか、もしくは検察の主張した身体の一部に当てるつもりで撃ったのではなかったか。自分たちが訓練する現場に、弾を拾いにやってくる日本人たちに、よしんば強い人種偏見をもたなかったにしろ蔑み疎んじる気持ちはあったであろう。二〇歳そこそこの、思慮を欠いた駐留米兵ジラードは抑えの利かない、いたずら心から、度を超した遊びに浸り、取り返しのつかない悪事を引き起こしたのである。

山本英政『米兵犯罪と日米密約 「ジラード事件」の隠された真実』

 日本におけるジラード事件処理は、おそろしく不明朗であった。吉見俊哉東大大学院教授は、次のように指摘している。

アメリカの支配は、相手国の自由を認め、そのナショナリズムを支援することを通じて、その支配体制を世界化するという屈折をずっともっています。それぞれの国のナショナリズムを認め、「民主化」を促しながら、アメリカを軸にした世界秩序を構築するという「国内」「国際」の使い分けというか、二重の構造がある。

吉見俊哉、テッサ・モーリス-スズキ『天皇とアメリカ』

 米国によって教え込まれた日本の民主主義は、結局のところ、米国の帝国主義に奉仕している。が、この姿は見えにくい。密約などは、現実を見えなくさせるテクニックの一つと言える。
 テッサもまた、「日本国内でも、沖縄以外の地域では、米軍再編についてほとんど問題視されてないことこそ、問題なのでしょう」、「沖縄は、そのための捨石とされる。米軍基地をほぼ一箇所に集中させることによって、アメリカの傘を「本土」の人間には不可視の領域に押し込めようとする」(同前)など、不可視の構造と沖縄の非情な運命を説いている。ジラード事件から六十余年も経つ。いまなお、何の改善も見られない現実がある。

 参考文献
井出孫六著「W・S・ジラードの犯罪」(『ルポルタージュ 戦後史 上』 岩波書店)
山本英政著『米兵犯罪と日米密約 「ジラード事件」の隠された真実』(明石書店)
春名幹男著『秘密のファイル(上下) CIAの対日工作』(共同通信社)
マイケル・シャラー著『「日米関係」とは何だったのか 占領期から冷戦終結後まで』(市川洋一訳 草思社)
岸信介著『岸信介回顧録 保守合同と安保改定』(廣済堂出版)
松田ふみ子著「ハル・ジラード会見記」(『婦人公論』一九五七年九月号 中央公論社)
吉見俊哉、テッサ・モーリス-スズキ著『天皇とアメリカ』(集英社新書)

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