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【エッセー】回想暫し 14 金沢の坂

 六十余年前、城のなかに大学があるというので金沢にやって来た。大学の寮に住んで学生時代をおくり、その地は第二の故郷となった。卒業後、愛知県や三重県で暮らした。就職、結婚、子育て、退職と、人生の三分の一余、最も変化に富む時期の舞台は三重であり、第三の故郷になった。
 晩年、義母の介護のため金沢に舞い戻った。街は緑が多く、どこを歩いても綺麗であり、町並みや疏水には昔と変わらぬ情緒が漂っている。平々凡々であった人生の終わりに第二の故郷に再び住むことになったのは、よき巡り合わせであった。
 雪の降る日、傘を差して歩く人々を見る都度、ここは第一の故郷とは違うなといつも思う。札幌では雪の日、傘を差さなかった。玄関前で防寒着についた雪を払い落とすだけですんだ。金沢でそれをやると、雨の日、傘なしで歩いたのと変わらなくなる。
 子どもたちが幼かったころ、年末年始を金沢の妻の実家で過ごすべく名古屋駅へ行くと、晴天にもかかわらず、北陸本線のプラットフォームで待つ人たちはみな長靴を履いている。思わずにやりとした。三重や愛知では雪は滅多に降らない。金沢駅に着くと案の定、雪であった。金沢の冬はそれなりに厳しいが、他方、風情に満ちている。
 学生のころ、晩秋から春を迎えるまでの悪天候にはずいぶん悩まされた。雨と雪と雷ばかり。おまけにあられみぞれまで混じる。いい加減にしてくれよ、とくろな雲の垂れ下がる天空を睨みつけたものである。
 昨今、その鬱陶うっとうしい天気が変わった。何が何でも傘だけは忘れるなのはずが、傘を忘れてもさほど困らなくなった。雨も雪も、昔に比べてずいぶん少なくなったように感ずる。根雪になることはまずない。もはや雪国ではないのではないか。各地に散った友人たちにそれを力説すると、
「おお、そうか。だが、雪が降ると相変わらず大変だろうな」
 と、こちらの説をちっとも聞かない。
「ちっ。だからその雪が少なくなったと言っているのだ」
「ふうん。しかし、天気予報じゃあ北陸はいつも雪なんだがな」
「その北陸ってのは越後であって、加賀じゃない」
「おまえさん、そこまで頑張ることはないじゃないか。雪国に雪がないのは、京都見物に清水寺や金閣寺がないのと同じだ。国境の長いトンネルを抜けると雪のない雪国であったでは、ちと困る」
 と、にべもない。はなはだ面白くないが、この話題に勝ち目はない。早々に退いた。彼らにとって金沢と言えば雪、雪と言えば金沢なのである。
 この土地の日常の暮らしにも、けっこう通じるようになった。出されるお茶の美味いこと。それに付随するのか和菓子屋が滅法多い。客人が出されたお茶菓子を自ら持ち帰る風習のあること。お盆が七月十五日と一ヵ月早いこと。とりわけ香典に対する当日返しの徹底していることには驚かれぬる。戴いた額の多少にかかわらず、その場ですべて一定の額で返してしまう。葬儀後の香典返しという気苦労がなくなるだけでも、どれだけ助かることか。ガチガチの保守的風土の土地柄なのに、意外に合理的な面がところどころに見られて感心頻り。
 
 先年、まだ三重県の津市に通勤していたころ、長崎県庁の人の訪問調査を受けた。仕事が片づいて雑談に転じると、長崎の人が、
「今朝、ホテルから外を眺めていたら、女子高校生の乗る自転車がひっきりなしに通りすぎていったのですよ。滅多に見ない光景だけに感動しました。若い女性のああいう躍動感溢れる姿って、素晴らしいですね」
 と、笑みを見せながら語った。
「えっ。貴県では高校生の自転車通学は禁止されているのですか」
 と、私のじつに間の抜けた反応。
「いえいえ。自転車に乗りたくても乗れないのですよ。坂道ばかりなので」
「えっ。そんなに坂が多いんですか」
 と、再び私の間の抜けた反応。
「はい。全国で坂の一番多い都市はどこかなんてランキングがあるんですよ。ちょっとした聴き取り調査から地図を駆使しての全国比較まで、さまざまな手法のものがありますが、どんなランキングでも、長崎市はトップから二、三番手くらいまでの常連です」
「そうなんですか。長崎へは高校の修学旅行で行きましたし、オランダ坂も歩きましたが、そんなに坂が多いとは気づきませんでした。すると、尾道や函館よりも上なんですね」
「はい」
 彼は、比べるまでもありませんよと言わんばかりの表情で答えた。
「いやあ、滅多に見ない光景の意味が分かりました。それぞれのお国ぶりってものがあるのですね。津市も日本一短い名で知られています」
 話はずいぶん盛り上がった。さて、金沢に住むようになって、長崎の坂のことを思い出した。金沢も坂が多い。全国坂道ランキングのどのあたりに位置するかを調べてみたが、問題外であるらしかった。
 金沢城は、三つの台地丘陵(寺町台地、小立野こだつの台地、卯辰うたつ山)とそれらに挟まれて平行に流れる二つの川(さい川、浅野あさの川)とで構成される地形を背後に、小立野台地の先端部に築かれた。中心市街地は両川に挟まれた平地に形成され、それで十分であったのが、時代の推移とともに市街地は川を越え、JR北陸本線を越え、北へ西へ南へと膨張していった。このため、三つの台地丘陵は拡大した金沢の一部でしかなくなり、寺町台地や小立野台地に坂がいくらあろうとも、全体的に眺めると、坂の多い街とは言えないということになるらしい。
 数年前、寺町台地から犀川堤防へ下りる幾つかのルートを探険した。友人が犀川に架かる雪見橋の近くに住んでおり、自転車で彼を訪ねるには寺町台地越えが最短コースであった。このため、どのルートが安全かつ早いかを探ったのである。すぐに判ったのは、いずれも途轍もない急坂であることで、大仰に言うならば無事に生還できるのはどの坂かを必死になって探り出さばならなくなった。
 下流から上流へ順番に桜坂は桜橋へ、長良ながら坂は下菊橋へ、不老ふろう坂は上菊橋へ、御参詣ごさんけい坂は雪見橋へとつながっている。桜坂ルートは桜橋がやや下流で遠回りになるので、長良坂ルートからの探査開始と相成った。
 まず犀川下菊橋であるが、その南詰めから広い車道は左へ大きくカーブして寺町一丁目交差点へ登ってゆき、歩行者と自転車族は車を避けて寺町台地へ直進する坂道を選ぶようであった。これが長良坂である。勾配がおそろしくきつい。自転車を押しながら登ってゆくと、息が切れた。登り終わって坂下に目をやると、まるで崖のごとしである。しばらく休んでいると、自転車を押したおばさんが呼吸も荒く登ってきた。
「いつ登っても救急車のお世話になりそう。だれがこんな坂を造ったの。もう登るのは無理」
 と、大きな声で訴える。引き続いて登ってきた仲間二人が加わって坂談義がかまびすしい。
「形を変えた井戸端会議か」
 と、呟く私。聞くともなく聞いていると、何のことはない。彼女たちは毎日、この坂を登っているのである。もう登るのは無理と言いながら、じつは登山家が高山の頂きを極めて悦に入るがごとく、急坂登攀の達成感を大いに楽しんでいるらしい。
 そこへ二、三人の女子高校生の自転車部隊が逆の方角からやって来た。次々に走り下りてゆく。自転車で崖を下るといった意識は全然ないようで、じつにあっけらかんとして急坂に突入した。坂下を覗くと、彼女たちは早くも下に着いて信号待ちをしている。
 女もすなる鵯越ひよどりごえの逆落としをしてみんと、私も自転車で下ってみた。あっという間に下界に到達。別にどうということはないが、友人宅を訪れるにいつもこの急坂を下りねばならぬというのは、気分的に重い。坂は一直線で、しかも下界の空間が狭い。これが怖さを惹き起こすのであろう。
 片隅に自転車を寄せて上を眺めると、今度は数台の男子高校生の自転車が走り下り、青信号に連動させて猛スピードで下菊橋を渡っていった。
「ひょっとして度胸試しでもしているのか。あんなのに巻き込まれたら敵わないな」
 私は溜め息をついた。長良坂ルートを選択肢からあっさり消去した。
 次は不老坂である。まずその名が気に入った。坂を上り下りすれば老いないというのであるから、毎日上り下りしようかという気になる。急坂ではあるが、中途で一般道路へ折れて雪見橋方面へ行ける構造になっているので、長良坂を下るときのような怖さは感じない。このメリットははなはだ重要で、不老坂ルートを選択肢のトップに置くことにした。
 残るは御参詣坂である。その名が厳めしい。坂道はきっちり整備されており、雪見橋に最も近い。坂の半ばで一休みできるように造られてもいる。人生、上り坂あれば下り坂あり。立ち止まって上を眺め、下を眺めて、来し方行く末を想うのも一服の清涼剤というもの。問題は長良坂並みの勾配である。しかも、坂道を下りての一般道路との交差点に信号がない。御参詣坂ルートも選択肢から消去した。
 ほかに名のない坂もあったが、無名の坂では面白くない。結局、不老坂ルートによる友人宅訪問がベストということになった。帰路の不老坂の登りに不安はない。わが電動アシスト自転車は登りには威力を発揮する。
 
 金沢の旧市街には、ちょいとした景観を提供する坂が少なくない。城内には甚右衛門坂、いもり坂が、兼六園とその周囲には兼六坂、上坂、下坂、紺屋坂、随身坂、真弓坂、桂坂等があり、もう一つの観光スポットである東山界隈には卯辰山に近いだけに観音坂(男坂、女坂)、子来こらい坂、帰厚きこう坂等が、また小立野台地には八坂、大乗寺坂、鶴間つるま坂等々がある。子来坂や観音坂(女坂)、八坂は長良坂よりも急らしい。金沢観光にはさまざまなポイントがあるが、坂道を歩いてみるのも一興ではなかろうか。


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