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「北匈奴の軌跡 草原の疾風」第四章(2)

 その年、冬将軍の跳梁ちょうりょうは常軌を逸していた。
 雪は降りすさび、ものみなを白一色に染め上げた。吐く息すら凍るかというほどの極寒は、何日も居座ったままで、生きとし生けるものを恐怖させた。
 二十四時間火を焚き続けても、人間を凍らせないようにするがせいいっぱいで、家畜は一声悲鳴を上げると、斃れていった。
「春さえやって来れば……」
「もう二月ふたつきの辛抱だ」
 人々は暗い顔で天を仰ぎ、語り合った。
 だが、春が巡ってきても暖かくならなかった。人々は天を呪った。夏であるはずの季節に至っても、寒さに変わりはなく、秋へと一気に走った。
 冬を越すための食糧の蓄えが足りない。だれもが来たるべき飢餓の懼れを口走った。かつて、ジュアールの部族は飢餓に慣れていた。死ぬ瀬戸際までいっても、春につなぐ体力と忍耐強さを持していた。
 いま、人々は自分たちの先祖がいかなるものであったかを知らない。体力も忍耐強さも、とうの昔に失われている。
 冬将軍の再襲来はあまりに早かった。そのうち何とかなるかもしれぬとの淡い期待は、粉砕された。人々は、これほど酷薄な冬将軍に出合ったことはなかった。
 夜明け前、ジュアールは慎重に馬を駆った。雪はさほどでもないが、暗さと道の凍結に悩まされた。とうてい、全力疾走というわけにはいかない。が、何が何でも急がねばならなかった。
 夜が明けてしまうと、ジュアールの決死の試みも虚しくなる。両民族の境界に差し掛かった。柵や綱があるわけではない。ジュアールは、このあたりかと見当をつけて駆けぬけた。
 ゴットフリットとリンの眠る集落に着いた。
 何台かの四輪の荷車が円形をなして置かれており、いずれも木の皮で作った迫持せりもち(アーチ)状の覆いをつけている。ジュアールは二度訪れているので、ゴットフリットとリンの車がそのうちのどれかで迷うことはなかった。
 無理矢理、たたき起こして事情を話す。
「夜明けとともに、われらの襲撃がはじまる。君たちは、あの海への道をまっすぐ進んで逃げよ。運がよければ、対岸への道が見つかるはずだ。君たちアラン族の重装備戦士の突撃の威力はよく知っている。が、不意を襲われ、おびただしい矢を射られては、勝ち目はない」
 それだけ言うと、ジュアールは引き返した。遠くから見ていると、馬橇ばそりが意外に早く飛び出し、一台、二台と連続して去っていった。
( あのなかにリンがいるはずだ)
 ジュアールは暫時見送ると、すぐさま自分たちの集落に駆け戻り、集まってきた戦士たちの群れに何食わぬ顔で紛れ込んだ。
 ジュアールの部族は、先祖返りした。他民族を襲って食料を調達することは、遺伝子のなかに伝えられてきたに違いない。
 この日の早暁、フン族戦士は行動を開始した。
 アラン族重装備戦士の突進力には、向かうところ敵なしの評があった。それゆえ、ものみな凍らす季節を待ち受け、仕掛けたのである。
 フン族の馬は小さい割に力の強いのが特徴で、不意打ちによって相手を攪乱こうらんし、守勢に追い込んで反撃を許さないとする作戦は図に当たった。
 できるだけ多くの食料を確保するため、アラン族の民を捕虜にはせず、殺し尽くせとの命令が下されていた。
 女や子どもも容赦しない残虐ぶりに、後方待機のジュアールら少年たちは、みなが嘔吐し、みずからの出自を呪った。
 こうして、ジュアールの牧歌的な少年時代は、終わりを遂げた。
(何が起きたかを知れば、ゴットフリットもリンも、ぼくを決して許さないだろう)
 ジュアールは、リンへの思いを脳裏の片隅に封じ込めた。
 惨劇のすべてが片づいたあと、ジュアールは、寒風吹きすさぶあの海への道を再び辿った。躰が冷え切ると、下馬し、雪に埋没している枯れ木を掘り起こして、火をつけた。
(いまのところ、リンらの荷車の残骸はない。ここまでは逃げおおせたのだ。問題は対岸への道だ。ぼくの想像どおりであったとしたら、海を渡れたはずだ)
 ジュアールは何年も考え続け、ある解答を得たのである。躰が温まったので再び先を急いだ。いつ凍死しても不思議ではない極限の寒さに耐えて、ジュアールは、ついに海の見える突端に辿り着いた。
「来た。再び来たのだ」
 ジュアールは百八十度の景観を眺めた。なにゆえ、永劫の時を刻む波浪の音がしないのか。前面の海峡は氷っており、氷の道が対岸へと続いていた。
(ぼくの思ったとおりだ)
 ジュアールは、リンたちがそうしたように、敢然と馬を氷の道に乗り入れた。途中で割れるようなことがあれば、生を断たれる。それでも、ジュアールは馬を進めた。
 道の半分ほどに至って、ジュアールは馬をとめた。氷の道が盤石か否かは見当がつかない。身内から恐怖が湧き起こった。
「リンたちもそうしたのだから」
 ジュアールは勇気を奮い起こして再び前進を続け、とうとう海峡を渡りきった。
(この陸地はどこへ続いているのか。リンは大地を踏みしめて喜んだろうが、行く当てはあるのか)
 ジュアールはもう少し先へ進もうとしたが、思いとどまった。先にいかなる民がいようとも、自分たちの敵であることは間違いなかった。
 馬首を巡らせたとき、雪をかぶった灌木から青色の紐のようなものが顔を出しているのが目にとまった。
 馬から下りて雪を払いのけると、紐は木の枝に結ばれていた。切断して、半分を残したものらしい。
「この紐は、リンとはじめて会ったとき、リンの隠れ場所から顔を覗かせていたものだ。こうして木の枝に結びつけてあるのは、ぼくへの報せだ。ここまでは無事に着いた。いつの日か、自分の持つものと合わせて一本の紐にしようと。リンは、ぼくらがアラン族に何をしたかを知らない。知っていたら、おそらくもう知っているかもしれないが、ぼくを許さないだろう」
 ジュアールは、リンの残した青い紐を懐にしまった。氷の道を帰る。孤影悄然としていた。リンとの日々を思い出しながら馬を歩ませ、ふと恐怖感が舞い戻ったときには、海峡を渡り終えていた。
 これ以降、ジュアールは、青紐を首輪にしてつねにぶら下げるようにした。仲間は不思議がったが、その理由を知る者は、リンとゴットフリットのほかにはいない。
 ジュアールは、やがてフン族戦士として、通辞つうじとして、重要な場面での使者として、活躍するようになる。リンとゴットフリットの行方は、おうとして知れない。


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