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【エッセー】回想暫し8 鳩山一郎とシベリア抑留者最後の帰国

 一九五六年六月二十二日、時の首相鳩山一郎が北海道入りした。私は札幌の小学校六年生であった。沿道を埋める大群衆が日の丸の小旗を一斉に振って、鳩山の乗る車を迎えた。尤も、その車は一瞬のうちに通り過ぎていった。日ソ国交回復を果たす少し前のことゆえ、国民の期待は盛り上がっていたのである。二日後、鳩山は北海道を去った。
  日本の敗戦直前の一九四五年八月九日、ソ連は日本に対して宣戦布告をした。待機中のソ連軍はいっせいに国境を突破し、満州に雪崩れ込んだ。精強を誇った関東軍は早々に満州の大半を見限り、朝鮮防御の戦術に切り換える。新天地の開拓を夢見た数多あまたの日本人は見捨てられ、ソ連抑留という過酷な運命にさらされる。
 
 一九五六年十月十九日、鳩山一郎は、モスクワでの日ソ共同宣言発表に臨んだ。米国政府の妨害に耐え、日ソ国交回復をやり遂げた記念すべき日であった。いまだ戦争状態にあった日ソ間には、捕虜の送還や漁業権の回復など、大きな問題が立ちはだかっていた。鳩山は部分的にではあれ、これらを解決した。
 その十年前の一九四六年四月十日、戦後最初の総選挙が行なわれ、鳩山の率いる自由党は第一党になった。鳩山は組閣構想をまとめ、首相の座をほぼ手中にした。ところが、鳩山にとって最も枢要な場面で、運命の歯車は逆回転をはじめる。鳩山は公職追放処分を受けたのである。読みが甘いというか、鳩山はおのれが軍部の言いなりにならなかったことから、公職追放の対象にはなるまいと高をくくっていた節がある。
 じつのところ、戦前の鳩山は人後に落ちぬタカ派であり、京大滝川事件のときには、文部大臣として言論の自由を弾圧した。鳩山が公職追放処分の有資格者であったのは間違いない。
 鳩山は政界を離れるにあたり、あとを吉田茂に託した。吉田は、敗戦後の東久邇ひがしくにのみや宮内閣、幣原しではら内閣で外相の職にあった。貴族院議員ゆえ、このときの選挙には出ていない。
 吉田は鳩山の懇請を受け容れ、以後、吉田はワンマン首相として絶大な権力を振るう。皮肉にも、鳩山は、生涯のライバル吉田の歩みゆく出世街道をみずからの手で整えたのである。鳩山の不運は続く。公職追放解除を目前にして脳溢血に倒れた。鳩山は病の克服に挑み、追放解除を受けたのちは、政治生命の復活に執念を燃やす。
 すっかり偉くなった吉田は、鳩山派の大政奉還要求に頑として応じなかった。鳩山が首相の座に就くのは、一九五四年十二月のこと。吉田が功なり名を遂げ、第一線を退くまで、凝っと待つしかなかったのである。
 奇跡的に復活した鳩山一郎は、依然としてタカ派の政治家であった。憲法を改正して軍隊を持つべきだと公言した。他方、吉田は大がかりな再軍備に反対している。
 鳩山のこのころの政治的言動の背後には、おそらく吉田に対する怨念があったに相違ない。ソ連との国交正常化、すなわち抑留者の送還や漁業権の回復等は、いずれも解決が焦眉の急であったにもかかわらず、米国政府に対してひたすらイエスマンだった吉田には、手をつけること能わずの問題であった。鳩山がこれに挑んだのは、ひとえに吉田への対抗心が与って力があったと見て誤りではあるまい。
 ただでさえ難しい日ソ交渉に、米国政府の妨害までが入り、鳩山は死ぬような思いをしてこれをまとめる。米国政府は、要するに日本国政府がソ連と交渉すること自体を嫌った。とりわけ、ソ連が北方四島のうち、歯舞はぼまい色丹しこたん二島の返還を提案したときには、苦り切った。それが、琉球列島の返還に跳ね返るのは、理の当然である。
──千島列島と南サハリンに対するソ連の主張は実質的に琉球諸島および小笠原諸島に対するわれわれの主張と同じだ。従って、ソ連を千島列島および南サハリンから追い出す努力をすれば、われわれ自身を琉球諸島、小笠原諸島から追い出してしまう恐れがある。(春名幹男『秘密のファイル(下) CIAの対日工作』)
 と、ダレス米国務長官は危惧した。米国務長官の本音がこれでは、日ソ交渉において日本国政府がいくら米国政府に助力を頼んでも、応ずるはずはなかった。結局、日本国政府は米国政府に義理立てし、歯舞、色丹、国後くなしりおよび択捉えとろふ四島全島の返還を強硬に主張して、北方領土問題を棚上げにした。
 歴史は、古来、戦争で失った領土は戦争で取り返すしかないことを教える。これは、あらゆる領土問題に通底する一大原則である。すなわち、領土が交渉事で戻ることは絶対ににない。加えて、ソ連には日露戦争で日本に負けた恨みがある。四島のうち一島たりとも手放すはずはない。
 米国は、多大の犠牲を払って太平洋戦争に勝った。琉球諸島および小笠原諸島はその戦利品である。使い道がなくなるまで、これまた絶対に手放すことはない。
 かくして、鳩山の手にした北方領土と平和条約抜きの果実は大きくはなかった。しかし、小さくもなかった。人の命には限りがあるとしてソ連との交渉に臨んだ鳩山は、日ソ国交回復を果たした。長年取り残されてきたシベリア抑留者の釈放、帰還の問題は、解決に向かって急速に動きはじめた。これは鳩山の大きな功績である。

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