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いかにしてわたしは俳句をツイートするようになったか

この文章は、ある夜、眠れぬままに書いた連続ツイートが基になっている。

noteへの初投稿がこんな文章でいいのかな、と思いつつ、加筆修正して投稿してみる。

こんなツイートをしています

寝る前にTwitterに近現代(明治期以降)の俳句のツイートをするのが、最近の日課になっている。

最近は有季定型の俳句が多い。たまに簡単なコメントも入れる。

選句の基準は、句集が手元にあること。あとはその時の気分で選ぶ。季感はできるだけ現実世界と合わせるようにしている。
気分で選ぶので、変な句も入る。

どさくさに紛れて、こんなヘボ句も混じる。

俳句専門のアカウントではない。だから、俳句以外のツイートもする。

では、なぜ俳句なのか。
話は30年以上前、大学時代に遡る。

俳句とのなれそめ

大学2年生の時、教養課程で俳句のゼミを履修した。
俳句とはどんなものなのか覗いてみよう、という軽い気持ちだった。

ゼミは句会形式で行われた。
先生も学生もOBも、対等な立場で自作の句を提出して、この句はいい、この句は問題句だ、などと意見を交わす。
問題句とは、「駄目な句」という意味ではない。無条件に優れた句という訳ではないが、何かコメントしたくなるような句を「問題句」として選んでいた記憶がある。
句作のごくごく基本的なことは、そこで覚えた。
吟行も経験した。夏休みに長野県で合宿した。自由時間に周囲を歩き回って、目についた風景や花、田の中のタニシなどを詠んだ。

大学には、学生による俳句のサークルがあった。俳句ゼミのOBが中心メンバーのようだった。
年1回、会誌を出す。ゼミのメンバーも誘われたので、10句、投句した。会誌になって戻ってきた。

3年生になって、わたしは文学部の国文学科に進んだ。
教養課程とは違うキャンパスだったこともあって、俳句ゼミにも俳句サークルにも顔を出すことはしなかった。

国文学科では、実作の指導はない。過去の文学作品を、徹底して読む。
近世(江戸期)のゼミでは、松尾芭蕉の『野ざらし紀行』を読んだ。厳しい先生にさんざんしごかれた。
近代のゼミでは、俳句は扱われなかった。先生は詩歌がご専門ということだったが、3年生の時は詩、4年生の時は横光利一の小説を扱った。

最終的に、卒業論文のテーマには内田百閒を選んだ。
百閒は俳句も詠むが、卒論では触れる機会がなかった。
何とか締め切りまでに卒論を提出して、大学を4年で卒業して、就職した。

俳句との縁はそこで切れた、と思っていた。
俳句のサークルに入るとか、俳句の雑誌に投稿するとか、卒業後も俳句と関わっていくという発想はなかった。

読めない、書けない

5年くらい前からだろうか。
わたしは、本が読めなくなっているのに気づいた。
原因は分かっている。病気のせいだ。発病してから今年で20年くらい。おそらく死ぬまでつきあっていくことになるだろう。

本屋や図書館は子どものころから大好きな場所。本を買うのも借りるのも大好きだ。
高校に進学して一番嬉しかったことの1つが、学校の図書館が充実していることだった。地元の小中学校の貧弱な図書室とは、質量ともに桁違い。放課後、図書館で何冊も本を借りて、帰りの電車で読みつつ帰るのが何より楽しかった。

でも、今は、本を1冊通読するのに、凄まじい気力、集中力が必要になっていたのだ。
開いてめくってはみる。面白いと思う。でも、その気持ちが、1冊読み終えるまで続かないのだ。途中で閉じてそれっきり、となることが多い。

いろいろ試した。
ネットでおすすめされている本には、書店で一応目を通した。
ジャンルも広げた。長編ではなく短篇集も手に取った。フィクションだけでなくノンフィクションも、ライトノベルも漫画も買ってみた。ヤングアダルト、児童書や絵本まで。
紙だけではない。電子書籍なら読めるかもしれないと思って購入してみた。でも、大半の本が、積ん読本と化した。

もう一つの重要な趣味、小説を書くこともできなくなっていた。
書きたいテーマはある。でも、どうしても文章にならない。言葉が浮かばないし、スピードも落ちている。
1年かかって、長めの短篇小説を1篇仕上げるのがやっとだった。
文学に詳しくない知人2人に読んでもらった。「面白い」とは言ってもらえなかった、
生まれて初めて文学賞にも応募してみた。一次選考で落ちた。

自分がプロの物書きとしてやっていけるとは思っていない。
ただ、子どものころからの楽しみ、読むことと書くことが思うようにできなくなったのが、苦しくて悔しかった。
この先、年を重ねると、もっと衰えるだろう。

野鳥が人間に捕らえられて、翼を切られて飛べなくなった時、こんな気持ちになるのだろう。
これまで自由に飛んでいたのに、もうそれができない。一生を籠の中で暮らすことになる。籠の中は安全で、食べものももらえる。天敵に襲われることもなく、きっと長生きできる。

でも、そんな風に一生を終えるのは、嫌だ。

悪あがきした末に行きついたのが、俳句だった。
5・7・5の17文字で完結する小さな世界。読むのも、書くのも、負担にならない。
句作の基本はまだ覚えているはずだ。

Kindleで歳時記を買った。PCでもスマートフォンでも見られる。検索もできる。
それが2019年の秋だった。

句作を再開してはみたものの、30年のブランクは大きかった。
季語は見つかる。詠みたいこともある。しかし、17文字にまとまらないのだ。
秀丸エディタの画面には、俳句とは呼べない、独りよがりな言葉のかけらばかりが並んでいく。

文章修行の一つに「いいと思った先人の文章を書き写す」というのがある。それを俳句でやってみようと思った。
ただ書き写すだけではつまらない。
日々、句集を読んで、いいと思ったものをTwitterに投稿する。基準は独断と偏見。いいねやRTがなくてもかまわない。詞華集というか、備忘録のようなものになるだろう。
一句だけそのまま書き写して、作者名もきちんと明記するのであれば、著作権的にも問題ないはずだ。

ただし、芭蕉や蕪村や一茶の時代まで遡る気はない。
近世のゼミでしごかれた先生に恨みがあるわけではない。何となく自分には合わない、というだけだ。
近現代、明治期以後の俳句にすると決めた。

書店や図書館で、俳句の本の棚を見た。
「初心者におすすめの1000句」というような趣の本が何冊も並ぶ。手に取ってみたが、正直、面白いと感じなかった。
あらかじめ誰かが選んでくれた俳句は要らない。解説も不要。玉石混淆の中から、自分だけの玉を見つけ出したかったのだ。

自由律俳句との出会い、そして疑問

何のとっかかりもないまま青空文庫を覗いていて、ふと目に止まったのが、尾崎放哉の選句集だった。

自由律の俳人だという一応の知識はあった。
一般的な俳句では「有季定型」が前提となっている。「有季」は季語が最低1つ入っていること。「定型」は5・7・5の17音に収めること。
初心者向けの俳句の本にも、基本事項として書かれている。
そういう暗黙のルールを一切無視するのが自由律俳句。無季、つまり季語がなくてもかまわない。17音にもこだわらない。

小さい火鉢でこの冬を越さうとする
烏がだまつてとんで行つた
雀がさわぐお堂で朝の粥腹をへらして居る
(尾崎放哉)

こんな感じである。
その自由さが、わたしの目には新鮮に映った。

青空文庫には、もう一人、種田山頭火の句集もあった。

ラーメン店ではない。この人も、自由律の俳人である。

生えて伸びて咲いてゐる幸福
花ぐもりピアノのおけいこがはじまりました
このみちをたどるほかない草のふかくも
(種田山頭火)

そのうち、青空文庫では飽き足らなくなった。もっとたくさんの作品を読みたくなった。
書店に行った。放哉も山頭火も、いい感じで文庫にまとまっていたので、購入した。


大きめの書店やネット書店であれば、このあたりが入手しやすいと思う。

放哉と山頭火の作品を読んでいくうちに、線上に別の自由律俳人の名前が浮かんできた。
荻原井泉水。放哉や山頭火の師であった人らしい。

お亡くなりになったのは1976年。まだ著作権が生きているので、青空文庫に彼の作品はない。
新刊本を探したが、見当たらない。
古書でこの本を入手した。当時の購入価格は3000円くらいだったと記憶している。

雀二羽で鳴く三羽で鳴くひとりで鳴く
水音梅開く
音といふ音の浪音のなかに日落つる
(荻原井泉水)

作品はこんな感じ。これで3句である。
放哉や山頭火と違って、定住し、普通の俳人(?)として生きた。でも、句は、凄い。放浪しなくても自由律の句は作れるのだ。

河東碧梧桐という人の名も知った。

この人の句集は、岩波文庫で見つかった。

伝記もあった。

この人は、正岡子規の高弟であった。高浜虚子と並び称されたが、後継者争いに負けた。

首里城や酒家の巷の雲の峰
ローマの春の青草に寝ころび得るよ
ペンの噛む原稿紙(カミ)をと心して書かん
(河東碧梧桐)

この人の作風の変化は凄まじい。有季定型の伝統的な俳句から新傾向俳句、自由律俳句、晩年にはルビを多用した謎の短詩へと変化していく。

他にも何人かの自由律俳人の作品を読んだ。
そして、疑問に感じた。
どうして、自由律俳句は日陰の存在なんだろう? こんなに自由で豊かな世界が広がっているのに。

井泉水の死後にも、自由律俳人は何人も現れている。
でも(失礼ながら)井泉水の跡を背負って立つような存在は、まだ現れていないように思えるのだ。

しばらく悩んだ。そして、ある言葉に思い当たった。

「型を破るには、まず型を身につけることが必要だ」。

誰の言葉かは分からない。芸事の世界の言葉だと聞いた記憶がある。
俳句の世界でも、きっとそうなのだろう。放哉も山頭火も、まず有季定型から入って、自分の世界を作っていった。
近道などない。有季定型から見えるものがあるのかもしれない。

ようやく、わたしは、正岡子規の句集を購入した。



有季定型へ、そして、これからは?

足を踏み入れた有季定型俳句の世界。
覚悟はしていたが、そこには、たくさんの俳人と凄まじい数の俳句が待っていた。

正岡子規。
子規の後継者にして俳句界の実力者・高浜虚子。
手元に全集があった内田百閒。
百閒の師で子規と親しかった夏目漱石。
百閒と同門の芥川龍之介。
過激な言葉を選ぶ金子兜太。
兜太の師、ツンデレ猫好きの加藤楸邨。
実は句集も出していた石牟礼道子。
やっぱり俳句も書いていた寺山修司。
「ホトトギスの4S」の一人である水原秋桜子……エトセトラ。

片っ端から読むうちに、我が家の俳句本のコーナーは大きく膨れ上がった。
図書館で借りた本も混じっている。
でも、積ん読本はほとんどない。

この先、どうなるのか、正直なところ分からない。
自己流の俳句修行はまだ始まったばかりだ。
有季定型を突っ走り続けるか、自由律に戻るか。

熱しやすく冷めやすいわたしのことだ。道半ばにして「やーめた!」と放り投げてしまうかもしれない。

ある日、南海トラフ地震が起きて、崩れ落ちてきた俳句の本に押しつぶされて死ぬのかもしれない。
それもまたよし。きっと、その時の死に顔は、安らかだろうから。

最後に、かすかな希望

こんなこともあった。

ある夜、眠れないまま、本名でエゴサーチしてみていた。
ヒットする記事のほとんどは同姓同名の別人。しかし、あるブログの記事に、目が釘付けになった。
わたしの俳句。
大学時代、俳句サークルの会誌に一度だけ投句した中の一句だ。

30年以上昔の、古い会誌である。
もちろん電子化などされていない。
国立国会図書館にも納本されていないようだ。
念のため、図書館でも調べた。一般人の句を集めた分厚い歳時記がある。そこに転載され、そしてブログに載った可能性も考えたのだ。でも、その歳時記にも、わたしの句は載っていなかった。

きっと、ブログの主は、大学の俳句サークルのOBなのだろう。

ちょっと嬉しかった。
20代の無名の初心者のへぼ俳句でも、何か光るものがあれば、見てくれている人はいるのだ。
そして、それがネットに投稿されて、わたしが生きていた証となる……

心の中に、小さな温かい輝きが、生まれたようながした。




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