「ゴブリン研究会at東北大学」設立の宣言とその意義

なぜゴブリン?

そう思った人も多いだろう。文学研究会とまでは言わずとも例えばファンタジー研究会などであればより広範な事例を扱えるのだから、わざわざゴブリンに限定する意義を見出だすのは確かに難しいかもしれない。そこでこのアカウントでの記念すべき第一回のnoteでは当団体がなぜゴブリンを名を冠し、それを主題として扱っているのかを明確にしたのち、当団体の設立の宣言を行おうと思う。


早速本題に入ろう。読者諸賢はゾンビ学というジャンルをご存知だろうか?

これは以前からアメリカを中心に社会学やメディア論、表象文化論の一端として行われている学問であるが、近年確実に盛り上がりを見せているものである。

日本で読める学術書としては
・岡本健『ゾンビ学』(人文書院)
・遠藤徹『ゾンビと資本主義』(工作舎)
・福田安佐子『ゾンビの美学』(人文書院)が挙げられる。福田氏が翻訳した
・マキシム・クロンプ『ゾンビの小哲学──ホラーを通していかに思考するか』(人文書院)
も本邦での一般向けのゾンビ学本として数えられるだろう。

ゾンビは、確かに面白い。それもinterestingな面白さである。なるほど、アフリカの民間信仰を源流に持ち、ハイチのヴードゥー教で「生きる死者」としてその性格が形成された。そしてそれがアメリカを始めとした西洋社会に輸出され、パニックホラーの花形役者として不動の地位を獲得したこの存在を探究することは、とどの詰まり人間研究そのものである。

生と死や社会的規範の醸成とその逸脱、日常が崩れ去りあらゆる規範が崩壊していくとき、そこで表れるのはより強固な規範かそれとも……

このような思考が渦巻く中、感染という形でもって人間/ゾンビという区分はなされるわけだが、それは端的な生者/死者の区別ではない。ゾンビは「生ける死者」なのである。

この曖昧さは人間/ゾンビの境界をぼやかしていくと同時に矛盾するが燦然とその差異を露呈させる。人がゾンビに、ゾンビが人になると語るまさにその時点で分かたれていなければならない「人」、「ゾンビ」の区別。世界中にあらゆるゾンビ表象が蔓延るなか、私たちはゾンビたちにどのような視線を向け、どのようなことを欲望しているのか、そして私たちは既にゾンビに感染しているのではないか。と、この学問が持つ意義は上記のように豊穣なものだろう。

しかしゴブリンはどうか?


当たり前だがゴブリンはゾンビと違って人間ではない。元人間でもない。ブリテン島やアイルランド島の民間伝承を基本としたいたずら好きの妖精、悪霊である。

ヨーロッパ各地にも似たような存在の伝承が見られる。
・ケルト系を起源に持ちイベリア半島で主に受容されているトラスグ
・オランダのカブター
・スコットランドのブラウニー
・残忍な種であるレッドキャップなども近縁種として含まれることもある。

またドイツのエルクニッヒはエルフの王としての品格を持っており(シューベルトの魔王も原題はErlkönigである)一般的なゴブリンのイメージである粗野で小柄、華奢な体躯からは離れた存在であるが悪さをなすゴブリンとしても見なされる場合がある。

ゴブリンと特徴を一部共有したような存在はヨーロッパに留まらず世界中に見られる。
・アメリカ先住民ウォムパノアクのプクワジ
・アンデス神話のムキ
・南アフリカのズールー神話におけるトコロシェやウーラカニャナ
・超常的な力を用いる韓国のトッケビ
あるいは満たされない欲望の具現化そのものでもある仏教の餓鬼にもゴブリン的なものを見出だせるかもしれない。
日本においても天邪鬼などいたずら好きの小鬼の民話は多い。

さてこのように列挙したわけだが、当然各民話はそれぞれが独自のアイデンティティーを持ち、類似点が見出だされたとしてもそれを全てゴブリンと称してしまうのは先行研究に対する侮辱に留まらず、文化の侵犯に他ならない。

しかし、これほど多くの類似種が古今東西のあらゆる神話、民話に表れているというのに、先のゾンビ学のような盛り上がりは私が観測した限りでは確認できない。それぞれのゴブリン的なものが、各地の伝承における一キャラクターとして紹介される程度である。

なるほど、ゾンビはエンターテイメントとして近代以降に形作られたものであるのに対し、ゴブリンは古来からの民間伝承を基調としているから少なくとも表象文化論として扱うには古すぎるという指摘が考えられるかもしれない。

しかし否ゴブリンは決して古くない。


『王女とゴブリン』のアニメーション映画で知られるジョージ・マクドナルド原作の小説は、その後現代ファンタジー文学の金字塔とも言うべきJ・R・R・トールキンに影響を与え、トールキンのゴブリン像や近縁種のオーク、ホブゴブリン像は本邦での彼らのイメージの基盤となっている。

それを基にして多数のファンタジー作品が日本でも組まれており、ドラゴンやゴーレムといった上位種とは異なった低級で一体一体は弱いザコキャラとしてクリボー的な親しみやすさを持っている。その弱さを転倒させる形で一大ジャンルを形成しているアダルトコンテンツにおけるいわゆる「ゴブリンもの」、あるいは「女騎士もの」の竿役として人口に膾炙している側面も無視できない。
その橋渡しをしつつ、ゴブリンの生態を主的に扱っているライトノベル作品といえばやはり蝸牛くもの『ゴブリンスレイヤー』だろう。

しかし、それでゴブリンが「大人向け」の存在になったかと言われればそうではない。

少し時代は下るが、イギリスのコーンウェール地方の民話を基にした絵本『ダフィと小鬼』はアメリカで最も権威ある児童書の褒賞であるコールデコット賞を1974年に受賞している。

またこれは最近になるが、BBCが設ける児童書の褒賞、ブルー・ピッター・ブック賞を受賞したアンディ・スタントンも一連の『ガムじいさん』シリーズの三作品目として『ガムじいさん、ゴブリンの王様になる!?』を書いている。

本邦においても『ざわざわ森のがんこちゃん』の脚本を手掛けた末吉暁子は『ぞくぞく村のおばけシリーズ』四作品目として『ぞくぞく村の小鬼のゴブリン』を書いている。

そして図録は現代の妖精絵画の巨匠であるブライアン・フラウド氏が『いたずら妖精 ゴブリンの仲間たち』の作画を担当しており、ゴブリンに対してわざわざ一冊分のページが割かれているのである。


ここまで列挙すればゴブリンがいかに現代においても新鮮であり、児童書からアダルトコンテンツに至るまで多くの読者を獲得していることは言うに及ばない。(無論、アダルトコンテンツが含む性加害助長の側面は決して無視も矮小化もできないが)それでもゴブリンはゾンビに勝るとも劣らないエンターテイメント性を有しているのだ。

その証拠として、コロナ禍の2022年のイギリスで流行ったgoblin modeという言葉が挙げられる。

社会規範を度外視して堕落した生活を行うことを指すこの言葉は、オックスフォード・ランゲージーズ(オックスフォード英語辞典を編集する団体)が選出する「今年の単語」の一般投票で、なんと全体の9割以上の票数を獲得して選ばれている。

流石は伝承の本国イギリスであるが、これが選ばれた背景には当然ゴブリンが怠惰、ずぼら、暴食といったイメージでコモンセンスとなっているためであろう。


さてエンターテイメント性はゾンビに引けをとらないことが明かされたゴブリンであったが、その思想的豊穣さはいかがなものであろうか、それがなければゾンビ学に並ぶことはできないだろう。

ゾンビとゴブリン、その最たる違いは冒頭で記した通り人間(元人間)か否かである。ゾンビは人間がゾンビウイルスや奇怪な力によって理性と代謝機能を完全に失った「生ける人間の死体」であるのに対し、ゴブリンはあくまで妖精や悪霊、怪異の一種である。

そうゾンビが人間/非人間として考察される手前にゴブリンは位置している。

つまりゴブリンは非人間であることが前提であり、非人間の中に人間との比較における人間性が見出だされるのに対し、ゾンビは人間の欠如態として機能している。

人間とゾンビの区別はHe is not dead.とHe is undead. の違いである。

それに対し、人間とゴブリンの区別は端的にHe is a human. He (It)is a goblin.の違いである。

そこでは異常の設定が恣意的に策定されているのではないだろうか。

異常とはある形態の否定(not)ではなく欠如(un)である。人間の正常性は社会的動物としての相互認識と成員の生存を担保する目的として醸成されるわけだが、ここにおいて差異を規定する純粋な否定性(not)はその正常性から外れることを意味しない。

なぜならその差異を通じて私たちは相互の成員を認識するからである。

生者と死者の関係性は生が正常、死が異常なのではなく、互いが互いの差異として相互に承認するための一つの場が既に設けられておりその中で正常性は醸成されるのである。
葬式の祭儀や誕生日のお祝いはこうした正常性を、つまり人間の平時のライフサイクルを反復することによってより強固なものにする一つの儀式である。

もちろん死は生者にとって超越している。しかしその超越は「遠くて近いもの」として表れており、遠いからこそ一定の距離を持って接せ、意味を安定させることができる。

それに対し欠如はそうした安息を許さない。

欠如が示すのは差異ではなく差異以前の情動である。それは同一なものがその同一性を指し示せば示すほど「同一」という自体、すなわち二つのものを一つとして扱っているという状況において既に「二つのもの」が存在してしまっていることに端を発している。

確かに欠如は正規品と異なっているが、それは事後的に策定された差異である。
まず何か違うという情動があり、その情動によって差異の定立が欲望され、強固な差異がまるで先験的に存在していたかのようにこの欠如という事態は捏造する。

これは一般的に領域内の少数民族への差別という形で顕現しやすい。その領域内の少数民族と多数民族の差異はある/ないという純粋否定性で表させるものではなく、グラデーションである。しかし、そうしたグラデーションは情動によって差異以前の差異性の認識を生ませ、その違いが絶対であるかのように誤認させてしまう。

あちらとこちらの区分がまずあちらとこちらに明確に分けたいという欲望から発し、その欲望を理論武装するかのごとく事後的に理由が付け足される。そしてその理由は「付け足された」という事態を忘却し、理由があるから区分するのだという反復構造を生じさせる。

ここに異常は作られる。

正常と異常は超越的規定によってなされるのではなく、正常と異常に分けたいという欲求に起因し、それはさらに同一性が持つ用語の矛盾性に端を発している。

その矛盾性こそが欠如に他ならない。

undeadは死んでいないという純粋否定的なもの(死んでいる/死んでいない)ではない。それは「死でないもの」である。

「死でないもの」は純粋否定的なものがもつ純粋性そのものを放棄する。ここでは死んでいる/死んでいないにはどちらも死があるが、「死でないもの」は「死」で「ない」のだからそもそもの土台を持たない。

しかし、それでもなおそこで「死」は語れてしまっている。ここが同一性の次元である。

つまりゾンビは死を放棄するというまさにその態度によって死を保持しており、この死の同一性(死の保持)があることによって生じる居心地の悪さが異常性の策定の欲望に繋がる。結果としてゾンビは異常な存在となるのである。

He is dead. とHe is not dead.の純粋否定的な差異は「遠くて近いもの」だったのに対し、He is not dead.とHe is undead.はその同一性を始原とする言わば「近くて遠いもの」である。

さてここまで難解な章であることは私自身書いていて自覚しているが、もうしばし続くことをご了承願いたい。

今問われているのはゾンビとゴブリンの異常性の扱いが実は恣意的であるではないか?ということである。

ゾンビの異常性は「死でないこと」あるいは「死を放棄するというまさにその態度によって死を保持する」ことによって事後的に生み出されたものでありながら、それが先験的であるかのごとく振る舞うようなものであることが分かった。

しかし、問われている異常性の恣意性というのは異常性が先験的な存在ではなく、そのような異常性を策定したいという欲望によって事後的に作られるものであるということを

意味するわけではない。

そう、これを意味するわけではないのである。むしろさらに手前の次元が存在し、そこに恣意性があるのではないかと言いたい。

そしてそれを暴くのがゴブリンである。
どういうことか、先の図式に戻ろう。

ゾンビと人間は曖昧である。特に噛まれてから一瞬でゾンビになるタイプの作品でなければその感染過程で徐々に徐々にゾンビ化していく。まさにグラデーションである。

しかしまた、ゾンビと人間は明確に区分される。理性/非理性、規範/逸脱、生産/破壊、この二項対立は、まさに二項対立として保持されることで両者の移動を可能にする。

街中にゾンビが蔓延する中で生き延びようとする人々はゾンビというトリックスターの絶対的破壊的関係性(あるいは超越論的なんちゃってビリティーの親類かもしれない)を媒介項にしてその二項対立を行ったり来たりする。その意味でこれは三項的である。
ゾンビはただ人を無計画に追いかけ回し食べる。あらゆる社会的常識は通用せず、自身の体すら腐敗し定型を持たない。
そんな存在に対峙しながら、生存者は生きるためにタンクを破壊して水を得たり、あるいは産業資本主義から逸脱してバリケードを作るなどの仕事を行う。
しかし、逆にこの事態が希薄化されていた規範を強固なものにすることもある。
ジェンダー規範などがその最たる例だろう。戦士とヒーラーという区分がより鮮明になり各ジェンダーがそれに割り当てられる。

二項対立の規定は第三者(この場合ではゾンビ)によってなされその移動を保証する一方、同時にそれを固定させる。

ゾンビという表象はその意味で、曖昧であることと明確であることが重ね合わされており、さらに明確さの中に移動の自由と定住が重ね合わされている。


ではゴブリンはどうか?

ゴブリンはそもそもHe(It) is a goblin.である。そこには曖昧さもなければ、異常性を作りたいという欲望もない。曖昧さなき明確である。

ゴブリンはゴブリンでしかない。ゴブリンの社会形態は作品によって多岐に渡り、森の妖精あるいは古城の異形、洞窟の怪物としても扱われている。また伏瀬の『転生したらスライムだった件』では定住という極めて社会的な動物としても描かれている。
児童書でもゴブリンたちのその性格から悪い人の抽象化として描かれていることが多く、盗賊や王国を組織して悪事を働く様は人間そのものと言ってもよい。

そのときの彼らはもはやゾンビ以上に人間らしい。

しかし、それでもゴブリンはゴブリンである。そこで営まれているのは極めて人間的な生命体の何かである。どれだけ人間的であろうともそれは人間ではない。人間ではないから異常も何もあったものではない。それは純粋否定性とも異なっており断絶と言っていいだろう。

何をしようとゴブリンは人間に対して「イイセンイッテルネ」なのである。

断絶しているから同一性もない。あくまで類似である。テーブルトークRPGにおける「やさしいゴブリン問題」もあくまで類似にすぎないことの証左である。もし断絶していなかったとしたらそこに躊躇いは存在しない。なぜならそれは人間なのだから。(そこには当然人を殺すことはなぜ悪いことなのかという倫理的問題が存在するがここでは割愛する。)その類似は人間とゾンビの類似とは異なり、人間的なゴブリンは人間とコミュニケーションが可能な断絶した存在である。ゾンビは断絶していない。

異常性の恣意性はそこにある。

そもそも私たちは人間中心的な見方をしてしまっており、異常性の策定欲望に先立つ形で、何に異常性を付与するか、またはしないのかを選別しているのではないだろうか?

ゴブリンはずる賢く、小心者で臆病で傲慢で、性欲が強く……とおよそ七つの大罪に類するマイナスな属性を付与されがちである。(それを踏まえて初めて善良なゴブリンが規定される。)それは人間の目から見れば劣った存在なのかもしれない。そうした劣ったものへの眼差し、あるいは強者の余裕(これはゴブリンによって自身の生命が危機に瀕したとしても変わらない。なぜなら殺人、強奪、姦淫は愚かなことなのだから。)が既に前提とされており、そこでの行為は何であろうとイイセンイッテルネでしかない。

異常性なんかそもそも欲望する必要がないという形で表される蔑視の欲望。この次元が恣意的なものである。

ゾンビだけではこの次元に至るのは難しい。ゴブリンという存在によってこそ、この思考は生まれるのだ。

長くなったが、ゴブリンの持つ思想の豊穣さをわかっていただけただろうか。このようにゴブリンはゾンビだけでは明かせない思想の次元を有しているとてもブルーオーシャンな存在である。そして古今東西のゴブリン的な民話はそれぞれ勝るとも劣らない文化的価値を有している。それらを探究し日本の、ひいては世界の人文社会科学を牽引していく活動をゴブリンとともにしていきたい。

さてここに、「ゴブリン研究at東北大学」の設立を宣言する!


令和6年4月7日
代表者   屈折誰何

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