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お客様は神様か∶営業篇

何の前置きもなくて恐縮だが、後藤は長年
「世の中には営業する人と営業しない人の2つの種類の人がいる」
と思って生きてきた。


「営業なんかになって」のカウンターパンチ

その昔、「広告の事ども」でもしゃべったが、後藤はサラリーマン時代、営業職以外にまわしてもらえない人間だった。

新卒でリクルートに入社した際、
「国立大学の大学院まで行かせたのに、なんで営業なんか…」
と親に言われた。
ここまでくるとブレなさすぎてハラショーなカウンターパンチなのであるが、とまれこうまれ、「リクルート」でもあぐりーとならず、「営業」であるという部分減点が存在したことに驚愕した。

全国の営業職の方にこの親の非礼を詫びたいのだが、オイルショックからバブル前夜までの間に娘が生まれた親の中には、少なからずこのマインドがあったのは致し方ないとは思っているが、後藤はただひたすらに
「有名な会社に入社するのに、それでも言われるんか」
と思ったものだ。

親はおそらく、しっかり勉強していい会社に入り、その職務は営業のように人に頭を下げてまわる仕事ではない何かになってほしいと思っていたのかなと思っている。が、元来主体性があるようでないのに反骨精神の塊みたいな娘は、何かいけない選択をしたのかもしれないが、自分なりに「違う」といえるものを見つけて親をぎゃふんと言わせてやろうと思った記憶がある。
(委員会二世としてのバイアスと生まれ持った反骨精神がミックスされると、主体性がないのに目の前にある疑問に目を瞑ることなく挑むという変な娘が育つ、という実験の結果が後藤である)

いずれにせよ、「営業をしなければならない人」の側に入ってしまった、というような感覚だった。

リクルート一年目の苦悩

実際広告をもらう仕事は苦痛だった。目標に対し、ため息をつく日々。なかなか「頭を下げる」ということができないプライドの高い娘は、あるときチームリーダーに半日営業に同行されて物凄い叱咤激励を食らう。

「お前、そもそも営業する気ないやろう」
「売る商品を、本人が高いと思っていたら売れるはずがない」
「だいたい、飲食店が月10万の広告費もかけられんなら、その店は販管費の考え方がないわけで、遅かれ早かれつぶれる」

この最後の一文が後藤の何かを瓦解した。
非常に説得力があり、事実翌日から広告営業はその店のためにいいことをしているわけで、何も申し訳ないと思う必要はない、逆にいうといいことになるくらいの結果を出すまで徹底してそのクライアントのことを知り、ともに考えて提案することが仕事なんだ、というマインドにぶっ飛び、あっという間に営業目標を達成したのだった。

このリーダーの前任のリーダーと、退社して数年後に再会した際、
「後藤みたいな『この広告に意味があるのか』『もっとほかにいい方法はないんか』から考えたい人間からすると、うちの広告はデータを出してその効果を疑うことなく営業できる人間じゃないと合わんけん、なかなか苦痛な仕事やったやろうなと、今になって俺も思うよ、そのことに気づいてやれんで申し訳なかった」
と半ば謝罪に近い言葉をもらった。が、結局どんな環境であれ、ある程度習熟し結果を出せてなんぼだということを教えてもらったので、最初の会社がリクルートでよかったと思っている。しかし、元リク(リクルート出身者のことを「元リク」という。出身者の間では、社名は「R」と記述される)のなかにはこのあたりをわからず、会社のリソースを自分の力と勘違いして卒業する者も多く、ゆえに元リクの評価が二分していると思っている。

親の見立てとは少し違うが、結果として覚醒前の後藤にはやはり営業はむいていなかった。しかし、残念ながら覚醒してしまったのだ。
(おそらくリーダーの手をここまで焼かせたのは後藤の中に反骨精神の芽があることを感じてもらえたからだと思っていて、結局自分がそのフェーズアップを引き寄せたと言える楽観的な性格を、す~しゃちょーには「不遜」と言われたことがある。誉め言葉だと思っている)

そんなわけで、それ以来営業がさっぱり苦にならなくなったし、とはいえよくわからない水を売ったり一過性の売上に盲目的に走ることもない、「真に自分がいいと思えるもの」だけを売り続けて、今にいたる。

そして現在は、「営業」すらしなくなった。
こう書くと、「営業しなくても仕事が来ますアピール」とか「上から目線」とか思われるかもなぁ、ともう一人の自分が考えてしまうあたりが相変わらず委員会二世の「正しさコンプレックス」なのだが、そういうことではなく、日々の仕事が営業になっているだけで、直接的な「仕事ください」という営業をしなくなっただけの話。

これが結構塩梅として表現が難しいのだが、メディアのデスクやライターとしての仕事、中小企業の広報やブランディングの仕事において、営業視点を持っていることは強みにしかなっていない。

ただ、独立していまのスタイルになる前、リクルートから転職した後の話だが、雑誌とフリーペーパーで営業職としてくたくたを通り越してどろどろになるまで走り回っていた結果、辞めてからも3年くらいは広告を見ると「代理店はどこか」、「予算はどのくらいか」、「なぜうちの媒体にはこの広告は出なかったのか」、という「広告営業フィルター」が取れずに苦労した。

自宅の郵便受けのポスティングチラシを見ても、電車の中吊りを見ても、とにかく広告が目に留まって仕方ない、という病におかされていたのだ。
今でこそ、新聞各紙のチェックも純粋に読者として楽しめているが、それでも広告枠は気になる。日曜版や夕刊の全ページ広告の単価もだいたい予想がつくので、
「あぁ、この旅行会社のこのツアー、あんまり集客芳しくないんだな」
と思いながら眺めていたりする。

どんな職業にも、大なり小なりこの手の病はあるのではないかと思う。

お客様は神様でいい

ここで、営業目線でよく語られる「お客様は神様か」論争について勝手に考えてみたいと思う。

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