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癖と現状のあいだ:福岡都市開発篇

昨夜のこと。
トイレに入ろうとして、右足の薬指を壁にぶつけて悶絶した。
つい数日前にネイルを変えたばかりなのに、爪が割れでもしたらまたネイルサロンに行かねばならぬ、そしてまた怒られるんだろうなぁ、などと余計な考えが一瞬で駆け巡る。
不幸中の幸いで爪は割れてはいなかったが、おそらくネイルの下で打撲した爪はダメージを喰らっているだろう。
半年後にそのときの傷みがあがってくるはずだ。

歳を重ねると、知識が増え、できることが増え、経験が増え、しわも増え、といろんなものが増える気がするが、私の場合、どうしてもこの
「何かの角に足をぶつける」
という癖が治らない。

ベッドの角、扉の端、玄関のドアの間(玄関を出るときに右足が残るらしい)、デスクチェアのコロコロ…。

できないことをひとつずつクリアして身につけ、まぁなかにはできなくなっていくこともあるだろうが、少なくともすこーしは増えているはず、なのに。なぜ、私はいつまでも足を何かの角にぶつけるのだろう。

みなさんにも、そういう「治せない癖」のようなものはないだろうか。

そもそもの話、昨日よりも今日、今日よりも明日、と、成長していないと気が済まないのは委員会の娘だからこその思考なのやもしれない。
まぁこれはそうではない人からすると「生きづらそう」にしか見えないのかもしれないが、個人的にはその思考だからやっとこさ今を生きていられるんだぜ、と思っている。

と、チノアソビでももはや常識かのように「委員会」というワードが出てきているせいか、たまに委員会の娘・息子エピソードをもらうことがある。

それらを紹介しつつ紐解いてみたい気もするのだけれど、ただでさえ後藤しか更新していない「チノアソビ大全」が、「委員会大全」になってしまいかねないので、忘れた頃にまた書いてみたいと思う。

閑話休題。
「わかっちゃいるのに治せない癖」。
ある年齢を超えたら「それはもはや癖ではなく『そういう人』なんよ!」というセリフは華丸さんの最近のネタだが、すでに読者もご想像の通り、後藤はそうしたものを凌駕して克服しないと気が済まない性格である。

なのになぜ、いつまで経っても足を何かの角にぶつける癖が治らないのか。
ちなみに「足を何かにぶつけるのは空間把握能力がおかしいからだ」という説があるが、私の場合、それでもある変数が違えば確実に解決策を調べまくっているはずなのだ。

その変数とは。
ずばり、「ぶつけた足がずっと痛い」場合。
こうして書いていながらも、最初「どの指やったっけ?」と思い出せなかった程度に、すでにぶつけた痛みはどこにもない。
なんなら左足の小指が痛い。ぶつけてもいないのに。

そんなわけで、不快な状況、不便な環境など、「不」が続くことが一番嫌な性分らしく、5分後には痛みが治まってしまうこの癖に関しては、解決策を探すことも調べることも考えることもしない。
ゆえに、またそのうち足を何かの角にぶつけるはずだ。

この「不」が極まった瞬間がかつてあった。
それは、北部九州の人しか記憶にないであろう、西方沖地震のときのこと。
一度目は2005年の3月20日だった。マグニチュードは7.0。
その後、2005年6月末までに震度1以上が375回、マグニチュード3以上が265回記録されており、特に4月20日は最大余震を叩き出した。

当時、九大の大学院に進学するため箱崎に引っ越して間もなかった私は、午前中に起きたこの地震を「飛行機が落ちた」と思った。

昨日発表された箱崎キャンパス跡地の再開発のニュースでは住友商事チームに優先交渉権が渡されたということだが、ここ箱崎は、上空を飛行機が結構な低さで飛ぶエリア。
機内から自宅マンションが見えていたレベルで、とにかく低く、箱崎キャンパス内では電話の声が聞こえなくなるし、す〜さんのいた工学部には、飛行機の音が実験結果に差し支えるという理由から、防音の実験室もあったほどだ。

そんな3.20の朝。
飛行機の墜落ではなく地震だと気付いたのはテレビをつけてから。
実家から電話があり、お前大丈夫か、こっちはみんな家の外に出てきとるぞ、と父が言うので驚愕し、そんなに酷いのかと聞いたらテレビの上の人形が床に落ちただけだという。なんやそれ!

一方、引っ越ししたての我が家は惨憺たる状態で、本棚からはすべての本が落ちて床が本の山。
冷蔵庫が壁から50cmほど前に飛び出しており、当時お気に入りだったDURALEXのグラスがこれまた床に落ちて割れていた。

どうやら地震らしい、今日友達と逢う約束をしていたけど無理そうだ、そんな話を電話でしながら、ふと父が私にたずねた。
「ところでお前、いま何しよるんか?家の外か?」
「いや、本棚に本を戻しよる」
「は?余震があるかもしれんやろう!」
「いやいや、来るかわからん余震より、本が散乱したままのほうが気持ち悪い」
ガラケーを肩と耳で挟んで会話をしながら、娘はつい数日前に納めた場所に本たちを戻していく。

本が床に散らばっているという「不」の状態を1秒でも早くもとに戻したい。
たぶんそんなことをしている人が余震で逃げられなくなるのかもしれないとも思ったが、結局この日は割れたDURALEXへの懺悔のみを残し、あとはすべて元通りの生活に戻った。

これも現状維持バイアスと言えばそうなのかもしれないけれど、何をどこまで「現状」と本人が確定するか、たぶんこの差が世に言う価値観のズレのひとつなのかも知れない。
つまり、私にとって、たまに何かの角に足をぶつけるのは、もしかすると「現状」なのだとすれば納得がいく。
そんな現状は求めてないのだけどね。

さて、今日はそんな地震エピソードついでに、この西方沖地震でガラスというガラスが割れた「福ビル」の、「新福ビル記者発表」に行ってきた。

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Podcast「チノアソビ」では語れなかったことをつらつらと。リベラル・アーツを中心に置くことを意識しつつも、政治・経済・その他時事ニュー…

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