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僕が安住の地を手にするまで [1] 人生最後の引っ越しを考えている

僕はこれまで日本・アメリカ・ペルーの三ヶ国を彷徨うようにして生きてきた。

26歳のときにサラリーマンをやめて、日本を飛び出し、大学院で人類学を勉強するためにアメリカに渡った。途中、三年間の休学を挟んで、その間に出来た家族とともに再渡米してからは長いことアメリカで暮らした。専門がペルー海岸地帯の考古学であるため、フィールドワークでアメリカとペルーを何度も往復する生活となった。大学院で二つの学位を修めたのち、43歳のときに日本に戻った。

アメリカにいたころ、それまでの引っ越しの回数を数えたら、驚いたことに10回を越えていた。その数はその後も着実に増え、45歳のときに山形にある大学で専任の仕事を得たあとに、大学近くの貸家に24回目の引っ越しをした。これから定年までの20年間、ずっと山形に暮らすことになった。つまり、ノマド生活にようやく終止符を打つときが来たということだ。

中学一年生のときに両親が離婚した。僕は父が残してくれた東京の西の外れにある家で、母と祖母と弟の四人で暮らすことを選んだ。大人なんて勝手なものだ。子どもはそれを受け入れるしかない。嫌なら自分で道を探すしかないのだ。だから、比較的早くから精神的には完全に独立していたように思う。僕は15歳で家を出たが、それ以来、つい最近まで肉親を恋しいと思ったことはない。

あとで知ったことだが、僕がアメリカ留学中に父が事業に失敗し、いずれは長男である自分が受け継ぐと言われていた持ち家を取られた。以来、僕には実家がなくなった。帰るところがないというのは、とても静かだが、決して消えることのない不安を与えるものである。若いころは、根なし草であることは身軽であることと同義であると自分に言い聞かせ、その地味な不安を封じ込めていた。いまだからこそ、はっきりとわかる。あれは間違いなく強がりだった。実際には「生家に暮らし、いまでも幼稚園時代からの友人たちと仲良し」みたいな人生に強く憧れていたのだ。

そしていま、25回目の引っ越しを考えている。

自分と妻にとっての安住の地であり、子どもたちにとっては帰るべき実家となる場所を作りたい。すでに人生の半分以上を根なし草として生きてきた者のないものねだり。その想いは強い。ここ山形に根をはるのだ。山形は、人々は穏やかで、水も空気もきれい。米も酒も山菜もそばも、大好物がみんなうまい。若いころを過ごした東京に比べると、文化的な楽しみは圧倒的に少ないが、災害も少なく豊かな土地だから、きっと根をはるには良いはずだ。

幸いにも僕には借金がない。実家も財産も何もないが、同時に借金もない。研究者仲間のなかには、奨学金という名の学生ローンをいまでも返し続けている人がいる。しかし、アメリカの大学院は学内で仕事をすれば、給料をくれるだけでなく授業料も免除してくれたので、血が出るほど貧乏だったが、借金を作る必要はなかった。安住の住処を手に入れるためなら、人生初の借金をすることも厭わない。

これまでずっと借家に暮らしてきた。アメリカの大家さんは比較的自由にやらせてくれるところが多いが、日本では絵を飾ろうにも「壁に釘は打つな」と言われるし、ましてや床材を張り替えたり、壁の色を変えることなんてありえない。アパートでは階下の隣人に気を使って、好きな音楽もボリュームは最小限で歌詞も聞こえやしない。四六時中、抜き足差し足で暮らし、ちょっとはしゃいだ子どもに怒鳴るとか、ちょっとした地獄だ。

これまでは「借りてる身分でおこがましいですよね、すみません」でやってきたけれど、「おい、ちょっと待てよ」となった。「こんなこと、人が生きるうえで当たり前の権利なんじゃないのか」と思うようになった。借家ではその権利が認められないのなら、別の方法で勝ち取るまでだ。なんだか、色々我慢しながら大人しくしていることがクソばかばかしくなった。ほんとクソばかばかしくなった。

だからいま、人生最後の引っ越しを考えている。

借家はもういい。これからはなんの気兼ねもなく、誰にも遠慮せずに暮らしたい。穴をあけようが、色を塗ろうが、ぜんぶおれの勝手だ。人間としての、本来の当たり前の権利を享受したい。

そんな思いで売り物件を探しはじめたところ、ひとつの出会いに恵まれた。

つづく

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