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僕が安住の地を手にするまで [12] 人生は「面倒臭い」で出来ている

世の中、何事においても「そんなこと出来るわけない」とはじめから決めつけてかかる人がやたら多いように思う。僕の母やおばあちゃんもその典型みたいな人だった(だった、って死んだ人みたい)。僕が十代の半ばでとっとと家を飛び出したのは、あのハードSMも真っ青のギッチギチの拘束プレーが苦手だったからなんじゃないだろうか、といまになって思う。

そして、大抵は決めつけるだけじゃなく、それを「あなたも出来ないよね?出来るわけないよね?」と人にも押し付けてくる。しかも、これに逆らって自分で頑張ってみて、それで失敗しようものなら、「ほら、だから言わんこっちゃない」と、何か重要なアドバイスでもしたかのようなしたり顔でマウントを取ろうとする。まったくもって、意味不明。ほんと、コロナウイルスより質悪い。絶対に付き合いたくないタイプ。お引き取り願いたいタイプ。

プロジェクトONIGOE70の基本理念は、「出来ることはすべて自分たちでやる」。それも最近流行りの建物の上っ面だけをいじる「お手軽DIY」とは訳が違う。根本的に違う。根も葉も全部違う。僕らは建物だけでなく、日々の生活、人生、すべてにおいてDIYを目指している。衣食住のすべてをDIYして、これまで誰かに預けていた自分たちの暮らしを、自分たちの人生を取り戻そうと考えている。

...なんて簡単に書いたが、土地を買い、家を建てるだけでも色々やることが多くて大変だし、色々ややこしい。しかし、これまでの感触からすると、正直なところ、多くのことはなんとか出来てしまうように思う。

仲介業者という存在

土地を買うときも、家を買うときも、だいたいみんな不動産屋に行く。何故だか考えることなく、当たり前のようにそうする。仕組みとして、そう躾られてきたからだ。僕もずっとそうだった。だから部屋を借りるときはいつも不動産屋へ行った。家を出て、しかも分籍をしていた僕はなんの後ろ楯もなく、保証人を確保するのが難しかったから、身寄りのない人や身を隠して暮らしているような人がよく使う家賃保証会社に金を払って部屋を借りた。貧乏学生だろうが、年収1000万稼ごうが関係なかった。大屋さんに会ったことなどない。会ったことのない大屋さんに信用してもらうために保証会社に金を払うのだ、数万の家賃のほかに。

こうした作法は当たり前だから誰も疑わない。しかし、本当なら、町を歩き、光や風、音を感じながら、気に入った場所を探し、法務局へ行って不動産登記簿謄本から所有者を調べて、所有者から直接購入するべきなんじゃないか。それらすべてすっ飛ばして、町のある一角にたまたま建てられている家を、アパートの一室を、不動産屋や家賃保証会社という第三者に金を払って手に入れるのだ。

鬼越の土地についても、僕は自分で探し当てた訳ではない。不動産屋に紹介されるように、工務店の高木さんに紹介してもらった。たとえ自分で探し当てたとして、持ち主に直接交渉を持ちかけたところで、不審がられてうまくいくことはなかったと思う。買う側も売る側も仲介業者が入ることが当たり前になっていて、それ以外のやり取りはあり得ないことになっているからだ。「面倒臭い」という呪いのことばによって人と人は切り離され、本来の筋道を見失っていく。

イオン銀行にローンのことで相談に行ったときのこと。敷地測量も終わり、図面も出来ているし、土地の持ち主との間ですでに直接書類のやり取りがあるので、不動産屋を間に入れずに話を進めたい旨を伝えた。仲介してもらう理由が見つからなかったからだ。しかし、そう言った途端、融資を断られた。不動産屋が仲介しない土地売買には融資はしないのだそうだ。思わず「御社は不動産業界との間に癒着か何かがあるのですか?」と口をついて出てしまった。その後も納得できずに散々質問攻めにして、窓口の女性を困らせた。

売り手と買い手がお互いに騙し合うようなことをせずに、双方が納得して契約書にサインできれば、それでいいんじゃないのか。何が問題なのだ。おかしいと思ったらもうダメ。ONIGOE70ではこれに抵抗すべく、高木さんの口利き以外に仲介業者を一切通さないことに決めた。面倒臭くても、出来ることはなんでも自分たちでやる。なんだかわからないけれど、身体が拒否反応を示している。僕が直感的に、本能的に危険を察知するときはいつもこうだ。

人生はすべて「面倒臭い」で出来ている

なんなんだ、心のなかにずっとあるこのモヤモヤは。不動産業を否定しているわけではない。「面倒臭い」手続きをすべて代行してくれるのだから、忙しい人は助かるに違いない。需要があるから、供給がある。当然のことだ。お互いにwin-winな関係を邪魔しようとは思わない。

しかし、それを必要としない僕らのような人の存在が無視されているように思う。「誰もが面倒臭くて人に任せたいと感じるはずだ」という、勝手な前提があるように思う。そして僕は、こうした仲介業が、本来繋がっていてしかるべき人間関係を絶ち切っていることに違和感を感じているのだろうと思う。

人生はすべてそういう「面倒臭い」で出来ているということをみんな忘れているのではないか。日々の生活も、人間関係も、みんな面倒臭いもんだろう。とくに家族のことなんて、ヘドが出るほと面倒臭い。だからって面倒臭いを排除していったら、何が残るんだ。すっからかんの人生になるんじゃないか。自分では何も出来ない、無力な存在に成り下がってしまうんじゃないか。僕にはそれが恐ろしくて堪らない。

面倒臭さがりたちが仕事だけは奴隷のようにやる

いまの世の中、とにかく面倒臭いことが嫌われるのだ。なんでも楽に、楽に。便利グッズを売る100円ショップが大儲けして、面倒な仕事を請け負ってくれる仲介業者が繁盛する。掃除はルンバに任せ、皿も食洗機に任せる。料理も時短、時短。人間関係も面倒だから、近所付き合いも最低限に。

そんな面倒臭がりたちが唯一、これでもかと時間をたっぷりかけて頑張るのが仕事だ。あれほど面倒臭い、面倒臭いと言っていた人たちが死に物狂いで奴隷のように働いている。ブラック企業だ!とか文句を言いながらも、サービス残業は黙ってやる。信じられない。完全に狂っている。どう考えても、頭がおかしいとしか思えない。思考停止している。

その結果、どうでもいい仕事のスキルだけ上がって、それ以外では自分では何も出来なくなる。億を動かす仕事を自慢する一方で、自分のメシも作れない無力なおっさんを死ぬほど見てきた。本来覚えなくてもいいような仕事をみんな死に物狂いでやっている。そのくせ、本当に重要なことは人任せなのだ。なんて滑稽なことだろうか。

こういう視点で世の中の色々なことをもう一度見直してみると、実におかしなことがたくさんあることに気付く。しかし、こんなことを考えたり、noteに書いている僕は、きっととても面倒臭いと思われるんだろうな。

つづく

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