エンジョイ・バイ・アワセルブズ #1
カシュッという音と共に、缶チューハイのプルタブが上を向く。若干量の泡と臭い雫が、俺の手元に飛びついて垂れた。構わず俺は缶を口につけ、わざと喉音を鳴らして飲む。
ごくり、ごくり、どくり。
飲み物を吸い込む喉の音は、血管が脈打つ音に似ている。どちらがどういう音とか、言い表せるわけでもないし、実際に音が鳴っているのかも定かではない。だが、音を鳴らすよう意識して飲むと、血脈がしっかり自分の体内に張り巡らされていると思い込むことができる。
実際に俺の体内には、ちゃんと人間らしく脈が通っているのであるが、いや、脈と見せかけて、これは俺自身が無意識の努力の末刻んだ入れ墨なのではないか、と腕の静脈を眺めながら考える。
静脈は裁縫の授業で扱う細い糸みたいだ。裁縫の授業と言えば、俺はなかなか糸を手先で扱えず、「なんだこれ、意味わかんね」と道具全部を投げ出して、教室を出て行った後に図書館裏のベンチで座っていたっけ。
図書館裏で、小説だけ読んでいた。小説は良かった。俺はスポーツをやらなかったし、楽器もできなかった。かといって、家庭的・文化的な机上の趣味も何ひとつできなかった。それらどれもが、道具を要するからだ。道具の扱いを習得し、そのうえで趣味の世界で楽しむ事が許される。あらゆる趣味には、道具の使用スキルが前提となる。
俺は、趣味の世界を嫌っていた。バードウォッチングを趣味にしたくて双眼鏡を買ったものの、目にあてがった瞬間にどこへ向けていいのか脳が理解できなくなる。星を見るために望遠鏡を買っても、拡大レンズがおかしな風にはまり込んでしまい、使い物にならなくなった。塗り絵を趣味にしようとしたが、枠に沿って綺麗に塗ることができない。慎重に色鉛筆を握ったら、腕に力が入りすぎて、つった。
道具の何もかもが、俺を拒絶していた。プルタブを開けて缶の飲み物を飲むときも、初めて~4回目くらいまでは勢い余って落としていたのだ。缶は道具の中でもザコだから、俺でもなんとか扱うことができた。
缶は俺を拒絶しなかった。本も俺を拒絶しなかった。結果、退社後に酒を飲みながら本を読むだけの、地味な男が完成しているわけだ。
今日も、その完成形をなぞる。世界から、「お前は道具にすらならない」と笑われながら。
今日の酔いは酷い、さっきも言ったが。
俺はコンビニ前で座り込んで、煙草片手に缶チューハイを飲んで、本まで読みだそうとしたが、3つ同時に扱うことは当然できず、煙草を落とした。
俺の扱える道具たちが、3つで力を合わせて、俺に抵抗してきたのだ。間違いない。だって、ほら、あ、缶チューハイも落ちて、だるい、なんだって舌打ちして立ち上がったら、立ちくらみで本も落とした。本はレモン味のチューハイ池にどぼん。
湿っていく文庫本のソフトカバー、開いていたページはぐちゃぐちゃだろう。煙草、近くにある。いっそのこと引火してくれればいい。
焼身自殺だ。そうだ、焼身自殺させてくれ。当然、そんなことにはならない。
煙草はアルコールの池と本から距離を取り、静かに燃えているだけだった。その奇妙な構図が、中途半端な布陣が、俺自身の振り切れない惨めさみたいなものを象徴している感じがした。嘲笑っているような気がした、俺を。
本が、煙草が、缶が、俺が唯一扱える道具たちが、道具を使えない俺を笑っているのだ。ケタケタ、キャッキャと笑っている、ガキみたいに。
許せない、という感情が芽生えた。しかし、その後にすぐ自己嫌悪が台頭してくる。お前の手先が、頭の仕組みが悪い。お前が扱えないのが悪い。道具のせいじゃない。
ケラケラケラケラ...
うるさい黙れ。黙れ、静かにしてくれって。もう、ずっとうるさいんだ。俺を馬鹿にする声が、何をしようにも笑ってくる全てが、憎い。きつい。体がもう、しんどい。だからもう死んでいいか。殺してくれ。
「殺してくれーーーーー」
間抜けに叫んでみた。自己嫌悪の飼いならしはお手の物。こんな気持ちになったこと、もう100,000回は下らない。滑稽に、間抜けに声出して、ガス抜きして終えることが正解なはず
ボスッ
聞いたことのない音だった。後ろからした音だ。鈍く、重く、どこか柔軟性のある音。不気味さはその音にふわりと纏わり付いている。
で、こういう時にゆっくり振り向いて、死体があって悲鳴、みたいなのが定番であると思う。カドカワの文庫本でも、そんな女性キャラがうじゃうじゃ出てくる。
俺はそれに対する反骨心みたいなものが急に湧いてきて、サクッと振り返った。ためらいもなく振り返って、目の前にあるのは黒い何かだった。
その黒さはスーツのジャケットだと気付く。そう、結論としては、ホラー小説的展開と同じ、死体がそこにある。
「わぁお」
またもや、間抜けな声を出してみる。なんだ、よく見るとドラマよりは派手に顔がつぶれている。しかし、サブスクで見るグロ映画で耐性もついており、暗闇でうっすらとしか見えない血だまりを遠慮なく踏みしめた。なんじゃこりゃ。
「死体だよ」
上から声が聞こえる。
「知ってるよ」
動じない、動じない。ストロング系チューハイはすごいな。上空から声が聞こえてこようとも、動じずにいられるんだから。
「冷静だね」
声は正面から聞こえた。まぁ、普通に?上空から降りてきたと解釈すればいい。
俺は前を向いた。白い半袖シャツに、黒のジーンズ。シンプルな服装の、ショートカット女性。女性にしては低めの声で、女子高でモテるタイプの女性だ。後ろに手を組み、俺をじっと見ていた。
「人が転落死したんだよ。おそらく全身の骨、ボキボキ」
「そりゃ大変だ、お葬式しないと」
俺はしゃがみ込んで、手を合わせた。なむあみだぶちゅ。
だぶちゅ。だぶち。マック。
「酔い過ぎじゃない?」
「分からん、普段からこうかも、だぶちゅ」
「いや冷静でいないでね。私、君を同じように殺そうか迷ってるよ。まぁこの人は自殺なんだけどね、私は自殺幇助。君は目撃者。殺していい?」
「いいんじゃない、知らん」
「知らんって」
俺は手を合わせながら、目を瞑りながら、会話を続ける。非常に楽しい。全部他人事のようにして、自分だけが望む動作をしている、このような瞬間は。
俺は、俺を確実に、道具として使えている。
「でも、世界は俺を、いい道具とは見てくれないもんな」
「でも、じゃなくて。前の文章が分からんから、文脈も読めないよ」
「文脈...脈?」
静脈は裁縫の授業で扱う細い糸みたいだ。裁縫の授業と言えば、俺はなかなか糸を手先で扱えず、「なんだこれ、意味わかんね」と道具全部を投げ出して、
それで、それで?
「忘れちゃったぁ」
「だから、文脈」
「文脈...脈?」
「やめて、もう、ほんとに殺すよ。決めた、殺す」
なんだ、短絡的な思考回路だな。会話劇を楽しまんかい。戯曲が如く、生活をしてみたことはないのかい。戯曲読んだことない?それはもったいない。シェイクスピアも読まない人が最近続出しているから、と脳内で喋っているのか、声に出しているのか判別できないまま、身体はぐるぐると回り、やがて遠方のビル街が綺麗に見える位置まで浮いた。
ぶらん、ぶらんと身体は揺らされる。上から高笑いが聞こえる。この声質、先ほどの低い声と打って変わって、いかにも少女らしい声。
「落とすよぉ」
「落とすのかぁ」
「なんでそんな無関心なの、死ぬんだよ」
「死ぬことの是非とか考える前に、色々考えることがあるんだよ、俺には、忙しいの」
ぶらぶら、揺れている。何が起こったか分からない、わけではない。驚くほど俺は冷静だ。俺の足首を掴んでいるのは、おそらく先ほどの女性。彼女は宙に浮いており、俺を吊るし、地上に落下させようとしているのだ。これ以外、状況は考えられない。俺に見えている景色は煌めく摩天楼のみ。しかし、この推測。
アルコールも、悪くない。
俺は言った。
「俺を落として殺したら、お前、社会のお荷物処理したってことになるな。公共に寄与する業務をしたことになるな」
そして俺は笑った。大声で笑った。誇れー、って叫んでみたりもした。女性は話さなくなってしまった。
俺は地上に降ろされた。彼女は不機嫌そうな顔で俺を睨み、地面を思い切り蹴って、暗い空へ飛んでいき、すぐ見えなくなってしまった。
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