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Hedi Slimaneの一貫性と若者が持つ力

 ※明日から周りのファッションが好きな人に話したくなるようなことをここでたくさん発信していきたいと考えている。ブランドを知りたいという方にも順序だてて説明していくので安心して読んでいただきたい。


 エディスリマンの歴史については当然知っている人も多いと思うので流してくれて構わないのだが、そののちの情報はあまり知られていないと思うのでぜひこの機会にご覧ください(知っている方悪しからず)

エディスリマンのフォトグラファー

ストリートでのモデル起用

エディスリマンが影響を受けてきたこと

彼が最も大切にしている若者のパワーと一貫性

主にこれが今回のメインになってくる。

 


Hedi Slimane

1968年パリで生まれる。11歳で写真に魅力を感じ、白黒印刷について学ぶ。16歳で服を作ることに決め、服飾教育を受けずにルーヴル美術学校で美術史を学ぶ。

彼は10代の頃、若者の表現と言うものに魅了されていた。それはドイツのロマン主義ゲーテから始まっており。若きウェルテルの悲しみはエディに強い影響与えたいつも自分と若者たちを遠くから眺めていた実際にはレンズを通して観察していた写真を撮ると言う事は一人一人について短い小説を書くようなもの。と述べておりストリートでスナップを取りそこからモデルスカウトをするというのもここからきている。

さらにモデルはアンドラジナスモデル(中性的)を使うことで有名であり。このモデルの起用の理由は性別の表現について斜めの考え方で育ってきて自分自身別の道にいるといつも思っていた。それを投影するためであるという。

エディスリマンの若者の定義

若さは優雅さ言論の自由無謀さ。世界の全ての若者は異なるが歴史の時代に関係なく彼らはこの純粋なエネルギーあらゆる瞬間の高揚、刹那的な感情であり彼の人生を全速力で生きている。この考えがエディスリマンを理解するうえで最も大事な考え。

ジャンジャックピカールとの出会い

下積みが終わり、1992年にファッションコンサルタントのジャンジャックピカールのもとでアシスタントを務める。
エディはこれまで自分に合う服がなかったと感じていたために服作りをしていたのに対し(このころにはすでにアイコニックな細身のシルエットが完成してた)ピカールの下に入ることで独学では学べない基礎から。すべてを学んだという。

 そこからピエールベルジェに見出されたエディは1996年のイヴサンローランのメンズウェアを指揮する。それまでのイヴサンローランはもちろん1962年からイヴ自身がずっとオートクチュールを手掛けてていて66年にプレタポルテのリブ・ゴーシュのラインを作る。これは左岸にあるプレタポルテの店舗という意味を指し、オートクチュールはまた別のシャンゼリゼ通り付近に店を構えていたため比較するためつけられていた。

経営やテーラリングをYSLで最初に学ぶ 

イヴサンローランでのメンズディレクターを務めてから一気に人気になったエディは2000年ブラックネクタイコレクションを発表しました。ここでは、細いラインと細いウエストでシャープに仕立て上げた、新しいスキニーシルエット。この後、エディはイヴサンローランを去った。ジルサンダーでのクリエイティブディレクターの仕事を辞退し、エディはクリスチャンディオールのメンズウェアに取り組む役割を引き受けた。

ディオールのメンズを活気づけたといってもいい

 エディはイヴサンローランを去った後はクンストヴェルケ現代美術研究所に滞在し、最初の写真集「ベルリン」をリリース。同時期に2000年にはディオールオムのクリエイティブディレクターに就任。エディのシルエットは一部の感度の高いファッショニスタには大いにウケていたが、一般的にエディスリマンが浸透してはいなかった。そこでこのディオールオムのクリエイティブディレクター就任は彼の認知を広める大きな出来事だった。エディはディオールオムの最初のフレグランスの発売に向けてクリエイティブな方向性を示し広告キャンペーンではリチャードアヴェンドン(写真家)とコラボし新しいビジョンをフレグランスの可能性によって見せた。

 2001年に発足したディオールオムは以前、ディオールムッシュと言うメンズラインが存在していたが今ほど認知されておらず低迷していた。
そこでこのエディスリマンが新たな風を吹かせたわけだ。のちにそこからクリスヴァンアッシュに変わり今のキムジョーンズに至っている。

話を戻すと、そこから2006年エディはオンライン写真ブログを立ち上げそこにはミュージックスターや素人のスタイリッシュな人々を特集している。同年エディは会社との契約を打ち切りディオールオムも去り、写真の仕事や彼の他の興味に専念する。

ロゴを変えてもう一度SAINT LAURENTへ 

しかし2012年彼はもう一度サンローランのクリエイティブディレクターとしてデザイナー活動を始める。これまでイヴサンローランとしてコレクション発表していたが(YSLのロゴが老舗ブランドである象徴だったにもかかわらず撤廃した)SAINT LAURENTに名前を変えアトリエをLAに変更する。エディは当時ロサンゼルスを選んだ理由として大衆文化や音楽芸術に与える影響が大きくなっていたことそしてカリフォルニア周辺の美学を再定義しようと言う考えがあった。さらにロゴ論争に関しても、YSLのロゴはかなり人気だったため賛否両論分かれていた。だが結果として音楽シーンと密接な関係を表現してきた彼の商業的成功は数字として現れておりサンローランの収益は毎年20%以上も増加していたと言う。この時期LVMH等のコングロマリットが境界を支配していたのにもかかわらずこの数字をたたき出したには彼のカルト的人気があったことがわかる。

本日メイン。新生セリーヌ。

 セリーヌへ行くことは彼にとって前向きだった。2008年からカリフォルニア住んでいるエディーは90年代のロサンゼルスにとても惹かれていた。がしかし、トランプに政権がかわり若者のパワーが徐々に薄れつつあった、もともとロスよりも西海岸のサンディエゴやゴールデンステート、オレンジカウンティといった地域でサーフコミュニティを記録していたということで、今回のセリーヌへの移動によるパリ在住はとても楽しみであったという。
 フィービーファイロの後任ということでかなりスタイルが異なるが、それに対してエディは正直に異なるということを宣言している。だが、前セリーヌの逆を行かないとも答えている。お互いに尊重するということはあらゆる人の誠実さを保ち、正直で識別力がなくてはならないということ。あなたはあくまでも自分でなくてはならない。というようなコメントをしている。
 エディは生まれ育ったパリの遺産やファッションに対する古典主義的考えを常に意識していて、20年前にライン、ストローク、アピアランス、シルエットを合わせ持ち私の服であるというスタイルを見つけた。
一貫性、厳密さ、正確さ、これはエディにとって意味のあることであり、セリーヌでも継続して表現される。。。。

実際のコレクションではご存じの通りエディのシルエットがそこにあった。しかし、現代との絶妙なミックスも同時に感じたはずだ。ストレートやフレアやジーンズのあの雰囲気とシルエットは彼が愛した60、70年代のロスの雰囲気であったりサーフカルチャーを研究した彼だからできた技である。

以上が大体のエディのバイオグラフィーになる。

一貫性があることはもちろん理解できるし素直にかっこいいスタイルであるがあそこまで魅力的に見えるのは彼がある種天才的な仕掛人であるからである。

エディスリマンの一貫して突き詰める美学

 若さは、優雅さ、言論の自由、無謀さ。世界の全ての若者は異なるが歴史の時代に関係なく彼らはこの純粋なエネルギーあらゆる瞬間の高揚、刹那的な感情であり彼らの人生を全速力で生きている。と述べておりそこにエディが感じる美が凝縮されている。音楽やカメラもその一部で、エディの中で瞬間瞬間でシャッターをきり彼のいう人生という物語に書き換えられていく。



個人的には、現代のファッションには明確なトレンドがSNSの発達により断定できないと思っている。それはつまり個人の力が強くなったことを意味していて、自分自身の美しいもの好きなものを遠慮なく表現できている印象。つまりいろんなカルチャー思想がミックスされているということ。

例えば、DJの地位が上がったのもおそらくここから考えれる。もともと新たなものを生み出すという役目を成していなかったDJは一般的なアーティストよりも地位が低いとさえている時代もあった。だが、今はどうだろう世界には野外フェスで呼ばれるのはDJというのも主流。サンプリングしたものが再構築的にらせん状に行われていくことでまた新たなものを作るといった一つのカルチャーが今の時代なのかなと漠然と考えている。

そんな時にエディスリマンの考えは「自分の歩んできた人生は物語でありそれを構成するのは身の周りのカルチャーだったり、音楽やアートだったり。。。」それを貫き通すというのは今の時代にマッチしているんだと思う。

そんなことを思いながら先日届いた今季CELINEのジャクノを履いてデイビッドボウイを聞きながら自粛都市に繰り出します。



ごめんあそばせ。 

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